Episode-3:アンリ・F・キングスコートの初恋
「私、ずっと自分は一人なんだって、思ってました。
一年の大半を病院で過ごしているから、友達と呼べるような相手もいなくて。
……ヴィノクロフは動物がたくさんいるから、人が無理なら、彼らと仲良くなろうと思ったこともあるけど。それも、だめでした。
原因はわからないけど、どうしても、嫌われてしまうんです。犬にも、猫にも兎にも。昔から。
だから、私はよくここにいます。植物は私を拒絶しないから。
草花に囲まれていると、母さんのお腹の中にいた時を思い出すようで、落ち着くんです」
キオラに出会ったことで、俺は変わった。
彼女は孤独な少女だった。
望めばなんでも手に入る立場でいながら、本当に欲しいと思ったものだけはいつも思うようにならなかった。
俺とキオラは、どこか似ている気がした。
だからこそ、打ち解けるまでには時間を要したが、一度触れ合ってしまえばすぐに心を通わせることができた。
キオラの孤独を俺が癒し、俺の痛みをキオラが和らげてくれる。
気付けば俺達は、所謂共依存のような関係になっていたが、互いにこの深すぎない仲を心地好く感じていたと思う。
「───おーい。
おーい!そこの赤毛のひとー!」
「え……。もしかして、僕のことですか?」
「あんた以外に誰がいんのさ。
……と。いきなりで悪いんだけど、手空いてるならちょっと来て手伝ってくれない?さすがにこれ全部仕分けんのは大変でよ」
「ああ、はい。僕で良ければ」
「サンキュー。だーれも協力してくんねーから困ってたんだー。
あ、ちなみに名前は?」
「……ハシェ、です。アンリ・ハシェ」
「ハシェ…。ああ!あんたか、キングスコートから編入してきたっていうハンサムくん。
なるほどなー。確かに都会育ちだけあってオーラあるわ」
「……いいえ、そんなことは」
「あ、じゃあさ。これ終わったらどっか飯でも食いに行かね?
手伝いのお礼もしたいしさ」
「飯…。僕とですか?」
「あんた以外に誰がいんのさ!
こっち来てまだ日浅いんだろ?学校近くで人気の店とか、オレで良ければ案内させてくれよ。
せっかく来たからには、ヴィノクロフのいいとこたくさん知っていってもらいたいし!」
新生活の方も、ファミリーネームを一時的に母の旧姓に変えたこともあって、頗る順調だった。
キングスコート家の嫡男という本来の身分を伏せた俺を、特別視する者はここにはいない。
実家に戻ればまた元通りになってしまうことだが、少なくともヴィノクロフにいる間だけは、俺はただの人間でいられた。
アンリ・ハシェという、どこにでもいるただの少年に。
学校のクラスメイトも教師も、ご近所の住民達も、支えてくれるグレーヴィッチ夫妻も。
皆が俺を対等に扱ってくれ、気安く名前を呼んでくれた。
その分優遇される場面は減ったが、俺にとっては一対一のやり取りの方が有り難く、同時に嬉しいものだった。
ここに来て、ヴィノクロフでの三年間を始めて、俺の半生の全てが変わったのだ。
これまでの自分がいかに名前負けした木偶の坊であったか、改めて思い知った頃には、あの時選択を間違えなくて良かったと背筋が伸びていた。
「あの、ソフィアさん」
「あらアンリさん。どうしたの?
キオラなら今庭の方で主人と作業をしているけど…」
「いえ、キオラに用があったわけではなくて、その…。
今朝方病院から帰って来たのを見て気付いたんですが、昨日出ていった時より傷が増えてますよね?
送り出す前までは、ふくらはぎに包帯なんて巻いてなかったと思うんですが」
「ああ、そのこと……。ごめんなさいね、心配をかけて。
実は、昨晩の内に病院の方から電話があってね。係の人が少し目を離した隙に、また失神してしまったそうなのよ。
それで、その時にふくらはぎを怪我したから、念のため包帯を巻いたんだって言われたの」
「そうだったんですか…。
大事ないならいいですけど、本人の不注意でない以上、周囲の人間がよく気を配ってやらないといけませんね」
「そうね。
今後は私達家族も、より一層神経を尖らせていかなくてはね」
ただ、キオラの怪我の原因は、親しくなった後も不明なままだった。
本人は特にそのことを気にする様子もなく元気にしていたし、夫妻が彼女に対して乱暴なそぶりを見せたこともなかった。
実際、彼女が直に怪我を負う瞬間を、俺は一度も目にしたことがなかった。
やはり、俺の考えすぎなのだろうか。
ひょっとしたらキオラはご両親、或いは周囲にいる何者かから虐待を受けているのではないか、と当初は思っていたが。
彼女が周期的にどこかしらを怪我して帰ってくるのは、本当にただ転ぶなどして、自然に痛めてしまっているだけなのだろうか。
その時の記憶がないのも、父の推測の通りで間違いないのか。
本当に大事ないのならいいが、もし彼女が、なにか重大な秘密を抱えているのだとしたら。
本当は苦しんでいるのを隠していて、目に見えないSOSを発しているのだとしたら。
俺はどうやって、彼女の嘘を見抜けばいいのだろう。
自分は幸せだと笑う彼女を、俺は、信じていいのだろうか。
「前にアンリが、自分と私は似ている気がするって言ってくれた時。とても嬉しかった。アンリも、同じことを考えてくれてたんだって。
……でも、18歳になったら、ここを出て先生のところに帰らなくちゃならないんだよね。
アンリはこれからもっと忙しくなるだろうし、私は、……この先も元気でいられる保証は、ない。
だから、一つだけ、お願いを聞いてほしいんだ。
三年で全部おしまいでも、もう二度と会えなくなっても、……我慢、するから。
だから、私のことを、たまにでいいから思い出してほしい。
私がこの世に生きてたってことを、どうか覚えていてほしい。
私はアンリと過ごした毎日を、ずっと忘れないから。
アンリも負担にならない範囲で、私を…」
キオラは一年の大半を医療施設で過ごしている。
グレーヴィッチ夫妻によると、ヴィノクロフとの州境近辺にあるキングスコート病院が、彼女の生後からの掛かり付けとのこと。
地元では彼女の病を扱える医師がいないため、州を跨ぐことになっても、主治医である俺の父の元に通うしかないのだそうだ。
そして数年前。
なにかあればすぐにそこへ搬送できるようにと、交通の利便も考えて、一家はわざわざその辺りに家を越したという。
ヴィノクロフの住人でありながら、キングスコートの病院が間近にある場所に。
だから、ホームステイで一緒に住むようになっても、俺とキオラは毎日会えるわけじゃなかった。
俺は学校で、キオラは病院。
キオラの診察が一日中、時には数日まで及ぶこともあれば、俺の帰りが遅くなって擦れ違うことも少なくなかった。
一日に一度共に食卓を囲めれば、今日はラッキーだと思うほどに。
たまには日が高い内から屋敷で一緒になることもあったが、そういう時のキオラは大体あの部屋に篭っていた。
グレーヴィッチ家の敷地内に設けられた、大きな温室。
夫妻が娘のためにと用意した、庭の奥にあるガラス張りの建物。
今日は外出する予定はないはずなのに、屋敷のどこにも彼女の姿が見当たらないという時には、大抵そこにいた。
個人が所有しているものとは思えないほど広く、浮き世から隔絶されたこの空間が、彼女のよりどころらしかった。
本人曰く、色鮮やかでみずみずしい草花に囲まれていると、母胎の中にいた時の記憶が蘇るような感じがして、とても安心できるのだと言う。
それ故か、この部屋にいる時のキオラは、地べたで横たわっていることが多かった。
まるで、揺りかごの中で丸まる胎児のように。
最初その姿を目にした際には、俺は彼女を眠り姫のようだと思った。
本当にキオラは、夢のように美しい少女だったから。
「最近、薬の量が増えたんだ。このところ、体の調子が思わしくないからって。
今すぐ命に関わることではないって、先生は言ってたけど。私の体のことは、私が一番よくわかるから。
だから、なんとなくわかるんだ。自分の体が、内側から少しずつ壊れていくのが。
……いつか、私も植物みたいになっちゃうのかな。
泣くことも笑うことも、歩くこともできなくなって。お世話をしてくれる人が、水をくれるのを、ただ待つだけの、お荷物に」
キオラが初めて俺に本音を漏らしたのは、出会ってから半年後のことだった。
その日は俺もキオラも予定がなく、俺は起床後すぐにあの温室へと向かった。
自室の方は既に空だったから、今朝もきっとあそこにいるだろうと。
そして見付けた。
いつものように白い床に横たわったキオラは、天井から差し込む日の光に照らされていた。
しかし、いつもとはどこか様子が違うように感じ、俺は彼女の元に歩み寄って問うた。
なにかあったのかと。
すると彼女は、俺とは目線を合わせずに、ぼんやりとした表情でぽつりぽつりと語り出したのだった。
時折言葉に詰まりながら、やがて涙を一筋流して。
恐らく、治療が思うように捗らず、以前にも増して病院に拘束されるようになったことで不安になってしまったのだろう。
大人びていても、キオラは普通の女の子だ。
いつ突然死ぬかもわからない恐怖を間近に感じて、恐ろしくないはずがない。
むしろ、普段あれほど気丈でいられる方が、却って年不相応であるかもしれない。
だが、そんな俺の気持ちとは裏腹に、キオラが泣いているところを見せてくれたのは、後にも先にもこの一度きりだった。
「病気が治るって、本気で信じてたわけじゃないんだ。
皆に励まされて、いつかは元気になるって笑い合っても、いつも私は一人で違うことを考えてた。
きっと、私は父さん母さんよりも、先に死ぬんだろうって。ずっと前から、ぼんやりそう思ってた。
でも、アンリに出会ってから、変わった。
ぼんやりが段々鮮明になって、追い掛けられてるって、実感が出てきた。
どうせ死ぬんだろうっていうのが、本当に死んじゃうのかな、になった。
……アンリ。手を、握ってくれる?
なんだか、このまま消えてしまいそうで。上手く立ち上がれそうにないから」
キオラの痛みに触れている時だけ、俺は無痛だった。
俺の中にも少なからず闇はあるのに、キオラの曇りのない目に見詰められると、その存在を忘れた。
救いたいと思った。
いつかに期待して人任せにするのではなく、この手でキオラを助けてやりたいと、心から思った。
「───どこへも行かせないよ。
君が遠いところへ飛んでいってしまわないように、俺がこの手をずっと捕まえている。
だから、君も諦めちゃ駄目だ。
お荷物でもなんでもいいから、君はただ生きてくれ。君の存在は、それだけで俺の支えになるから。
理由がほしいなら、俺を言い訳にしてもいい。
俺のために、生きて。キオラ」
最初は、俺が彼女のためになっていると思っていた。
こうして側にいて、俺の存在がキオラの孤独を解消しているのだと思っていた。
だが、実際は違った。
救われていたのは俺の方だった。
無垢な笑顔を見せてくれる君に。
小さな手で触れてくれる君に。
俺なんかの話を真剣に聞いてくれる君に、俺は癒されていた。
朝におはようと、夜におやすみと声をかけてくれることが。
一緒にいたいと言ってくれることが、俺にとってどれほど救いであったか。
俺がずっと願っていたことを、君はいとも簡単に叶えてしまったんだ。
失いたくない。
キオラをこの植物達と同じにしてなるものか。
全身を管で繋がれて、ベッドの上で身動きもできなくなったら。
目を閉じたまま、言葉を発することもできなくなったら。
そんなのは、死なずとも生きていないのと同じだ。
絶対に、そんなことにはさせない。
俺は、これからもずっと、君と人間でいたいんだから。
「俺、医者になったら、一番最初に君の病気と向き合うよ。何年かかっても、必ず、俺が君を治してみせる。
信じてくれ。君はもう二度と、一人にはならない。俺がさせない。
何度だって、俺が立ち上がらせてやる。
だから、いつか君が、元気なおばあちゃんになったら、聞かせてくれ。
俺の隣で、笑って。私は生きているんだと、言ってくれ」
いずれは父の後を継ぎ、医学の道を邁進していくものと幼い頃から教育されてきた。
それが俺の義務であり、宿命であり、変えようのない事実だった。
けれど、キオラに出会って気が変わった。
今度は自分の意思で、医者になりたいと強く思うようになったのだ。
母さんのことも勿論心配だったが、それ以上に、キオラの病気を治してやりたかったから。
父ではなく、まして他の誰かでもなく、彼女には俺との未来を生きてほしかった。
「……うん。ありがとう、アンリ」
あの時、さりげなく俺がプロポーズしたのに、彼女は気付いていなかったけれど。
今はただ、ありがとうと微笑む愛しい顔を見られただけで、充分だった。




