Episode-2:アンリ・F・キングスコートの初恋
"赤い髪。
本当に、先生と同じ色をしているんですね"
俺の運命を変えたのは、三つ年下の少女だった。
中等部を卒業後、俺は敢えて本籍のあるキングスコートではなく、隣のヴィノクロフ州にある高校に進学することを決めた。
予てより自立を計画していたので、これはその足掛かりとして思い付いたことだった。
特に知能レベルの高いキングスコート、ロードナイトと比べるとやや偏差値は落ちるが、わざわざランクを下げてまでその道を選んだのには二つ理由があった。
一つは、キングスコート家の呪縛から逃れるため。
家名に振り回される日々に、いい加減嫌気が差したためだった。
高校卒業後は、キングスコートの医科大学に通いつつ、父に次期主席としてのノウハウを学ばなければならない。
つまり、俺が俺の意思で好きなように動けるのは、高校生活での三年間のみということになる。
それでも、ずっと同じことを繰り返すよりはマシだと思ったのだ。
長い生涯のうち、俺が俺でいられる時間がたったの三年でも。
その思い出さえあれば生きていけるというくらい、特別で濃密な三年間にしてやればいいと。
そしてもう一つの理由が、ヴィノクロフが医療に特化した州であるからだった。
医術のみで言うならば、キングスコートは国内随一と見ていいだろう。
だがあそこは、単純に命を救うための場所に過ぎないので、個人に対する扱いは少々おざなりな傾向がある。
はっきり言って手厚さはあまり感じられない。
対してヴィノクロフは、患者の術後に焦点を当てている。
情緒が安定しなかったり、リハビリが思うように捗らなかったりなど、長期的な事情を抱えた者達を心身共に癒すことをあの街はモットーとしている。
現に、キングスコートで治療を受けた後にヴィノクロフで療養生活を送る者も多いと聞く。
これは、初代主席ボリス・ヴィノクロフが、愛息子の将来を見据えて設けた方針であるという。
先天的に身体に障害のあった息子が、今後とも不自由なく日々を送れるように。
そうしてどんな人間にも分け隔てなく、誰しもが住みよい街を創ろうと始まったのが、ヴィノクロフというわけだ。
現在は父ボリスの後を継ぎ、彼の忘れ形見であるヨダカが二代目の主席となったそうだが、ボリスの意志は今なおヴィノクロフの基盤となっているという。
だからこそ、俺はここを選択した。
父は優秀な医師であり、同時に学者でもあるが、昔から心というものは蔑ろにしがちな人だったから。
父に教えを請うよりも、ヴィノクロフの医学を学んだ方が、母の心の病を癒す方法を見出だせるのではないかと思ったのだ。
ただ、ロードナイトの進学校を薦めていた両親には面白くなかったようで、引き換えにニ、三条件を呑むことを事前に約束させられた。
在学中も立場を弁え、節度ある振る舞いをすること。
卒業後はキングスコートに戻り、父の望み通り統治者としての道を邁進すること。
これらの誓いを守るならば、高校三年間の寄り道くらいは目をつむると。
それでも、あの人達が俺の我が儘を聞き入れてくれたのは、この時が最初で最後だったと思う。
「私とて、無理に従属させるのは本意ではない。
それでお前の気が済むというのなら、一度くらいの暇は許してやろう。
ただし、どこに籍を置こうとも、お前がキングスコートの嫡男であるという本分は失念するなよ」
「そんなに私から離れたいというなら、もう勝手にするといいわ。
どうせ私は名ばかりの母だもの。息子といえど進路にまでは口出しさせてもらえない。
向こう三年間、精々羽を伸ばしてくればいいじゃない。煩い親のいない生活はさぞ気楽でしょう」
正直なところ、両親に対して愛情は感じていなかった。
憎いと思ったこともあるし、何故自分はこの人達の間に生まれてしまったのだと、子供の頃はよく一人で泣いた。
だが、見捨てることもできなかった。
このままでは、今の家族ごっこの繋がりすら崩壊する気がしたから。
せめて母を蝕む心の闇を晴らすことができれば、俺達の冷めきった関係も少しは改善されるのではないかと思ったのだ。
そう考えると、長らく愛に焦がれていた俺にようやく家を出る決心をさせたのは、積み重なった孤独が原因だったのかもしれない。
「初めまして。
貴方がフェリックス先生のご子息ね。鼻筋の辺りがよく似ているわ。
私の名前はソフィアといいます。貴方のお父様には、娘のことで随分前からお世話になっているのよ。ねえイヴァン?」
「ああ。それにしても、話に聞いていたよりずっと男前な子だね。あの方に似てハンサムだ。
君のお父様から既に聞いていると思うが、先生は娘の主治医でもあってね。我々にとってかけがえのない御人なんだ。
だから、君のことも実の息子のように歓迎するよ。
なにか困ったことがあれば、遠慮なく頼ってくれ。アンリ君」
イヴァン・シャムシュロフ・グレーヴィッチと、その妻ソフィア。
幼い娘と三人でヴィノクロフに暮らしているというグレーヴィッチ夫妻は、俺の父とは切っても切れない深い関係にあるとのことだった。
そんな夫妻が今回、俺の州外進学を知って、是非そのための手助けがしたいと申し出てくれた。
一言で言うならば、ホームステイだ。
ヴィノクロフで過ごす三年間をより快適なものにしてほしいと、自分達の屋敷を無償で提供すると言ってくれたそうだ。
いくら父と懇意にしているからといって、息子の俺のことなどよく知らなかっただろうに。
見ず知らずの相手さえもを抵抗なく受け入れようとする彼らは、いっそ実の両親よりも俺のためを思ってくれている気がした。
「えっと…。
君はグレーヴィッチさんのところのお嬢さん、で、いいのかな?
てっきり今日は夫妻だけが見えているものと思ったんだけど、君も一緒に来ていたんだね。
今までどこにいたんだい?」
「父さんと母さん、先生と大事な話があるから、その間お屋敷を見学させてもらいなさいと言いました。
そうしたら、先生の若様と遭遇しました」
「わ、若様?
……君は、俺のことを知っているのか?」
「はい。先生がたまに話してくれます。自分と同じ赤い髪の息子がいると」
その後、せっかくだから会って相談がしたいと、夫妻はわざわざキングスコート家の本邸まで出向いてくれた。
俺がイヴァンさんとソフィアさんに会ったのはそれが最初で、改めて我が家に迎えたいという旨を直接二人から伝えられた。
当時は珍しく父も同席しており、俺は双方の和やかな雰囲気を見て、確かに父と夫妻は親密な関係にあるようだと感じた。
「話は途中だが、アンリ。決断するには一人でゆっくり考慮する時間も必要だろう。
夫妻がお帰りになるのはもうしばらく後だから、それまでにある程度考えを纏めておきなさい」
やがて、適当な世間話を交えた後。
父にさりげなく促された俺は一人席を立った。
久々の機会で色々と積もる話もあるようだったので、父達の談笑に一段落つくまで俺は適当に時間を潰していればいい。
母は夫妻の訪問と入れ違いで外出中。
召し使い達もそれぞれの持ち場についている。
客間にいる父達を除けば、この時分の屋敷はほぼ無人同然だった。
俺は考えた。
グレーヴィッチ夫妻の申し出を呑むべきか、それとも。
正直、せっかくの話だが、俺はこの件にあまり乗り気ではなかった。
そもそも、父の支配下から逃れたいと思って始めたことなのに、父のツテを頼るような真似をしてしまっては意味がない。
夫妻の人柄や条件は申し分ないし、手助けしてもらえるのは有り難いことだが、果たしてこれで自立といえるだろうかと。
「どう言えば、悲しませずに断れるんだろうな……」
屋敷を徘徊途中、誰もいない無音の廊下で足を止め、何気なく壁に背を預けていた時だった。
突然ふっと人の気配を感じて、俺は反射的にそちらへと振り向いた。
その先にいたのは、少し前までここにいるはずがないと思っていた相手だった。
「先生はそれを、まるで血みたいだって言うけど。私は、あのこ達の翼のように見えます。
ヴィノクロフの空でしか飛ばない、フェンゼルっていう真っ赤な鳥です。私は、フェンゼルの翼はとても綺麗だと思ってます。
だから、お兄さんの髪も、とても綺麗です」
先程夫妻から写真を見せてもらったので、彼女の正体は既に知っていた。
キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチ。
歳は俺より三つ下で、先天的に重い神経の病を抱えているというグレーヴィッチ家の一人娘だ。
恐らく、彼女が俺を若様と呼び、父を先生と呼ぶのは、父が彼女の主治医であるからだろう。
高齢の夫妻にとって待ち望んだ子宝であるキオラは、真綿で包むように大切に育てられていると聞く。
「不思議なことを言う子だな、君は」
「両親や先生にも、同じことをよく言われます。お前は人とは違うと。
それは、やはりいけないことなのでしょうか」
「いや、そんなことはないと思うが、……。
それ、どうしたんだ?その包帯、まだ新しいよね」
俺がキオラに対して抱いた第一印象は、"妙な子供"だった。
上等な濃紫のワンピースを着て、品のある佇まいを見せる彼女は、確かに一目瞭然でいいところのお嬢さんではあった。
だが、喋り方がやけに淡々としていたし、俺の目を真っ直ぐに見つめてくる割に表情が全く変わらなかったのだ。
端正な容姿をしている分、そのクールな感じが少し不気味というか、まるで人形が動いているようだと思った。
そしてなにより、彼女の体の節々に巻かれた真新しい包帯が、嫌でも目についた。
「これは、また転んだかららしいです」
「らしい…?転んで負った怪我なのに、自分でわかっていないのか?」
「私、昔からそそっかしくて。よく転んだり、家具にぶつけたりしているそうです。
でも、私はそのことを覚えていないから、気付いたらどこかを怪我しているんです。
たまに、あるんです。今まで自分がどこでなにをしていたのか、思い出せないことが」
俺の問いに、キオラはやはり抑揚のない声で返した。
その様子から、本当に怪我を負った当時の状況は覚えていないのだろうことが窺えた。
ただ、転んで受けた傷というのは、恐らく嘘だ。
一、二ヶ所の軽傷ならともかく、包帯は首や手首など広い範囲に渡って巻かれている。
受け身の取り方が悪かったのかは知らないが、ただ転んだだけではこういう痛め方をしないはずだ。
このことを主治医である父は、持病の影響でなんらかの記憶障害が起きているものと診断したらしい。
しかし、俺はそうとは思えなかった。
些か、嫌な予感がした。
転んだというのはただの言い訳で、本当はキオラを意図的に傷つけた者の存在があるのではないかと感じた。
ふと脳裏に過ぎったのは、俺に手をあげている時の母の顔だった。
あの温厚そうな夫妻がそんなことをするとはとても思えなかったけれど、もしそうであるとしたら、彼女のこの有り様は。
「───屋敷の中は全部見終わったかい?」
「え…。いいえ。あんまり広くて、さっき迷子になりました」
「だろうね。俺も昔はそうだった。
……良かったら、案内をさせてくれないか?少し入り組んだ場所だけど、とても綺麗な庭園があるんだ」
その瞬間に、俺の中のキオラの印象が変わった。
彼女は妙な子供などではない。
きっと、俺同様に自分を偽って生きている。
俺と同じで、作り物の仮面を被って、素顔を隠している。
だから、一緒にいて違和感があるのだ。
そうと分かれば、もう放っておけない。
完全に同化してしまった仮面は、決して自力では引きはがせないことを俺は知っているから。
「えっと…。じゃあ、よろしくお願いします」
限りある向こう三年を、俺はこの傷だらけの少女と共に過ごしたい。
この後客間に戻ったら、グレーヴィッチ夫妻の申し出を受けると返事をしよう。
怖ず怖ずと差し出された小さな手を握り締め、包帯越しに伝わる微かな体温を感じながら、俺はそう決意した。




