Episode:アンリ・F・キングスコートの初恋
フィグリムニクス。またの名をシグリム。
俺が生まれた時には、既にその国が存在していた。
建国の第一人者である人物は、俺の実の父だった。
シグリムという国が生まれたルーツは、幼い頃からよく聞かされていたのでよく知っていた。
だが、その名前の由来は聞いたこともなかった。
命名者は父だというが、父が俺にその話をしてくれたことはなかった。
「───貴方のお父様は、それはそれは立派な方なのですよ。
今はまだ実感が湧かないでしょうが、分別がつくようになれば自ずと理解できるはずです。
その御身には、万人を統べるに値する血が流れているということを」
シグリムは、14の州からなる連邦国家だ。
それぞれの州に必ず一人主席と呼ばれる存在がいて、その者が領地の政を仕切るのがルールとされている。
ただ、俺の父、フェリックスの治めるキングスコート州だけは特別だった。
創立当初から、キングスコートの主席のみ絶対的な支配権を持つとされていた。
つまりシグリムに住まう人間ならば、誰しも父の言葉にだけは逆らえない。
発起人に与えられた権限に、刃向かう資格を持つ者は皆無であるということだ。
俺は、そんな人の息子だった。
数多の人の上に立つため、父の名誉を踏襲するために生を与えられたのが、この俺だった。
父がこの国の実質的な王であるならば、彼の唯一の子息である俺は王子に値する。
王の血を受け継いだ俺の将来は生まれた時には決定していて、俺自身の意思は反映されないということは、最初から決められていたようなものだった。
「───さすがはフェリックス先生のご子息!やはり持って生まれたものは大きいですわね。
他の子達にも、御身の爪の垢を煎じて飲ませてあげたいくらいですわ」
「───いずれはこの国を背負って立つ御方のお世話ができるなんて、私達は鼻が高いです。
どうか、これからも末永く、若様にご奉公させてくださいませ」
生まれながらにして特別で、いつかはこの国を背負って立つ運命にあった俺は、当然そのための教育を徹底されてきた。
常に一番であることが当たり前で、常に特別であることが普通だと言い聞かされてきた。
そんな俺の不毛ともいえる努力を、赤の他人が称賛することはあっても、血を分けた家族が褒めてくれたことは一度もなかった。
それがとても虚しくて、何故自分はこの家の子供に生まれたのだろうと苦悩した時期もあったが、いつの間にかそういう感覚もなくなった。
たとえ内に不平不満を抱えていようと、誰を憎み愛していようと。
最後に有終の美を持ってくれば、何でも構わないのだ。
俺の役目は、ただ彼の息子としてとるべき行動をとり、あるべき姿であり続けることのみ。
大人達の理想とする子供を演じてさえいれば、他に求められることはない。
全ては、父の思い描いたビジョンを実現させるため。
俺の人生を決めるのに、俺の感情など不要であるということだ。
「───あ、アンリ君だ!
どうしよう。声かけてみたいけど、私なんかが話し掛けたら迷惑かな?」
「───あれ、王子くんがいるじゃん。
あいついっつもこういう行事には顔出さないのに、今日はなんでいるんだ?
別にスポーツが好きってわけでもなさそうなのに」
「───アンリ君、今日もまた一人でお昼を食べてるわ。
疎外されているというわけでもないみたいだけど、友達と呼べる相手もいなさそうなのよね。
ああ、困ったわ。彼の身になにかあれば、担任である私の首が飛んでしまう」
子供の頃の俺は、まだ辛うじて人間だった気がする。
自らの意思を持ち、疑問に思ったことは人に問うたりして答えを得ようとした。
食事の時には嫌いな物を食べ残していたし、納得のいかない事柄には自分なりに意見したこともあった。
しかし、歳を重ねる毎に自我が薄れていき、いつしか俺は考えるということをしなくなった。
どうせ自分がなにをしても、なにを言っても、返ってくるのは無言だけなのだから。
誰もまともに取り合ってくれないのなら、意思など持っているだけ無駄だと。
俺にとって、大人になるということは即ち、諦めていくことだったのだ。
嫌だと思ったものでも即座に順応して受け入れ、自分がこうしたいと感じたものではなく、こうするのが無難であると思った方を選ぶ。
率直な欲や慈悲よりも、後々に益となるであろう遠回りを勘定して取る。
要は、自分の感情に反する事態が起きた時、どうすれば心の負担を最小限に抑えられるか。
その術を少しずつ身に付けていく度に、俺は以前と比べて成長したのだと実感した。
「───お父さん、お帰りなさい。
今度のお休みは、いつまで本邸にいられるのですか」
「予定では二泊三日のつもりだ。
だが、こちらにいる間も来客の相手をしなければならない。
お前はいつも通り、母親に一緒にいてもらえ」
「───お父さん。僕の学力が全国で一番になったんです。
それで、お世話になっている家庭教師のお兄さんが、是非一度お父さんにもご挨拶させてほしいと……」
「そんな時間はない。
お前を利用してこの私に擦り寄ろうとする不届き者は、二度とこの家の敷居を跨がせてやるものか。
お前も、まさか全国を取ったくらいで慢心してはいないだろう?」
父が俺達のいる本邸にやってくることは、滅多になかった。
国を統べるリーダーとしての責務を果たす傍ら、一人の学者として新薬の開発にも努めていた彼に、完全なオフといえる日は一日としてなかった。
故に、たまにふらっと帰ってくることがあっても、常になにかしらの予定を抱えていた父に、俺は気安く話しかけることが出来なかった。
これほどの多忙を極める日々の中で、父は一体いつ休んでいるのだろうかと、昔は不思議に思っていた。
ただ、その割にとても健康で、活力に溢れた様子を見て、子供心に理解はしていた。
父は家に帰る暇さえないのではなく、単純に、ここに帰ってきたくないだけなのだと。
メイド達の井戸端会議によると、どうやら父は余所で若い女を囲っている様子だったという。
つまり、たまの休日を家族と過ごせなかったのは、本人の意思。
もしかしたら、俺達が首を長くして帰りを待っていた間にも、人目を盗んで愛人の家に寝泊まりしていたのかもしれない。
「お父さん」
「お父さん、僕、頑張って名を残しました」
思い返せば、俺は父とまともに話をしたことがなかった。
たまに口を利くことはあっても、内容は淡白が過ぎるものばかりで、とても親子の会話とはいえないやり取りだった。
父は、俺を褒めたことがなければ、怒ったこともなかった。
ただ結果のみに目を通し、それまでの過程には一切の関心を示さなかった。
そう、関心がなかったのだ。
父は、俺がどこでなにをしていようとも、興味がなかった。
家名に泥を塗るような真似をしなければ、父に迷惑をかけなければ、それでいい。
父が見ているのは俺ではなく、キングスコート家の嫡男としての器だけだった。
「お父さんの名誉を傷付けないよう、恥じない行いをしました」
「お父さん」
「おとうさん」
これほどに冷めた関係で、俺と父は本当に血が繋がっているのだろうかと。
時には出自に不安を覚えることもあったが、その度に鏡に映る自分の姿が目に入った。
燃えるような赤い髪。
紛れも無く彼の子であるというこの証を、忌まわしいと思うことはあっても、誇らしく感じたことはなかった。
「───ごめんなさい、ごめんなさい。お母さん。
次はもっとちゃんとやります。お母さんの望むままにやってみせますから、もうやめて下さい」
「なんですかその言い方は?!まるで私が悪いみたいじゃない!
あの人もお前も、皆して私を寄ってたかって……。私は役立たずなんかじゃないのに…!」
「痛いよ、お母さん。
ごめんなさい、ごめんなさい」
「そんな顔で見ないで。そんな声で泣かないでよ!
誰も私を解ってくれない。私はこんなに苦しんでいるのに、あの人は見向きもしてくれない…!どうして私ばかりがこんな目に…!」
母さんは、代理ミュンヒハウゼン症候群を患っていた。
元々精神的に脆い人だったそうで、昔は自傷行為が絶えなかったのだという。
出産を経て母となってからは、それら全ての捌け口として、俺が代わりに暴力を振るわれるようになった。
その上で彼女は、生傷だらけになった俺を連れ回して、決まって人々に同情を求めた。
私の息子は周りの子らにいじめられていて、不憫な家族を持つ私はとても不幸なのだと。
少し前まで俺を殴り付けていた手で俺の肩を抱き、鬼の形相を浮かべていた顔に涙を伝わせながら。
彼女の気持ちは俺には理解できないが、もしかしたら、悲劇の母を演じることで父の関心を引きたかったのかもしれない。
父は俺に対してだけじゃなく、妻である彼女にも冷たい人だったから。
特に、手を上げている最中には、父の亡き前妻の名をよく叫んでいた。
思うに、自分はその後釜であるという不満が、余計に彼女のコンプレックスを助長させていたのだろう。
だが、どれほど母が周囲の気を引こうと手を尽くしても、母の気持ちに応えてくれる人間は現れなかった。
"心を病んだ哀れな女が、自らの手で我が子を傷付け、注目の的になろうと躍起になっている"。
注がれるのは冷たい視線と、軽蔑の言葉だけ。
母の所業はいわば狼少年のそれで、誰も本気で相手にはしなかった。
「───ああ、おはよう。
……え?クッキー?これ、君が焼いたのかい?
へえ、すごいな。ありがとう。大事に食べるよ」
「───やあ、今朝は天気がいいね。
こういう催し物があると、君は必ず参加しているようだけど、スポーツが好きなのか?」
「───どうしたんですか?先生。
僕の生活態度に不安があるのでしたら、そう心配なさらずとも大丈夫ですよ。毎日楽しく過ごしていますから。
友達にも先生にも恵まれて、良いスクールライフを送っていると、両親ともよく話すんです」
作り笑顔を浮かべ、思ってもいない嘘ばかりを並べている時。
心の奥底では、水面に浮かぶ影を見るように、偽りの自分をもう一人の自分が冷めた目で見下ろしていた。
まるで、道化のようだ。
こんな滑稽なことを、これから先もずっと、一生、続けていくんだろうか。
たまにふっとスイッチが切れて、なにもないのに涙が止まらなくなることがあった。
そしてそのことを、自分以外に知る者はないのだという事実が、尚更悲しかった。
誰も、本当の俺を知らない。
こうして一人、自室の隅でうずくまって泣く俺を、誰も見付けてくれない。
なにが嘘でなにが本当なのか、もうわからなくなってしまった。
本物の俺がどういう人間なのか、見えなくなってしまった。
「お前には心がないのか?」
昔、同じクラスに在籍していた少年にそんなことを言われたことがあった。
当時は失礼なことを言う奴だと内心不愉快に感じていたが、今なら彼の真意がわかる。
成長と共に心を、人として備わっていて然るべきものが欠落した俺を、彼はたった一人、幼いながらにも見抜いていたのだと。
なにもかも、嘘だ。
屋敷の中でも、外でも、俺は目に見えない仮面を被って生きている。
その感覚にすっかり浸かってしまったこの体は、もう俺の意思では動かせない。
呪われた仮面は、最早自力で引き剥がすことはできない。
誰かが代わりに手を延ばしてくれない限り、俺の人生はこの先もずっと、このまま。




