Episode-2:トリスタン・ルエーガーの悲壮
それから、三年後の秋。
早いもので、僕らは卒業を間近に控えた四年生になっていた。
当初は、本当にここでやっていけるのだろうかと不安を覚えたものだが、過ぎてしまえばどうということはない。
決して華やかとは言い難いキャンパスライフだったけれど、親戚中をたらい回しにされていた頃に比べれば、そう悪くない青春だと思えた。
姉さんを悪い意味で取り巻いていた連中も僕が釘を刺したことで幾分大人しくなったというし、僕自身今のところは大きなトラブルに巻き込まれていない。
このまま順調にいけば、僕も姉さんも落第することはまずないはずだ。
長いようで短かった学生時代。
あと半年もすれば、この歴史情緒溢れる校舎ともお別れなのか。
改めてそう思うと、柄になくノスタルジックな気分になった。
「じゃ、お昼にまたここで。
行ってらっしゃい。行ってきます」
その日、僕らはいつものように学生寮を出て、キャンパスに向かった。
"今日はさ、一緒にお昼食べようか"
"いいけど。どうしたのさ、改まって"
"別に何でもないわよ。ただなんとなく、姉弟水入らずの時間も、たまには必要かなと思って"
"ふーん。明日は雪でも降るのかな"
"失礼な弟ね。私が普通のことを言ったらいけない?"
"そんなことはないよ。ただ、姉さんがそういうこと言うの、珍しいなと思っただけ"
たまには二人でお昼を食べよう。
先にそう提案してきたのは、姉さんの方だった。
一緒にお昼を食べるくらい、今まで何度となくあったことだけれど、こんな風に改まって誘われたことはなかった。
だから、ちょっと珍しいなと僕は思った。
"じゃあお昼に、いつもの場所で"
広い中庭で別れ、自分の持ち場に向かっていく姉さんの後ろ姿が、この時妙に印象に残った。
いじめが鎮静化したことで気持ちに余裕が出来たのか、僕の知らないところで何か嬉しい出来事でもあったのか。
なんとなくだけど、あの時の姉さんはいつもより機嫌が良かった、気がする。
一方僕は、軽やかな足取りで遠ざかっていく姉さんを見送ってから、反対方向に向かって歩き出した。
なんてことはないいつもの景色を眺めながら、いつもの歩調で立ち止まらずに。
数時間後には二人で並んで昼食を食べて、講義を受けて、必要な行事を淡々とこなす。
日が暮れたら、またあの中庭で落ち合って、姉さんと別れの挨拶を交わす。
そして、またそれぞれの部屋へと帰って行く。
その繰り返しを、僕らは入学当初からずっと続けてきた。
だからこれからも、少なくとも卒業するまでの間は、この穏やかな時が続いていくものと思っていた。
根拠はないが、そうだろうと信じて疑わなかった。
それが今の僕らにとって当たり前のことなのだから、ふと疑問を感じるはずもなかった。
けれど、その日の午後。
一緒に昼食を食べようと約束した場所に、姉さんが現れることはなかった。
「ねえ、あの人でしょ?この間自殺した女生徒の弟さんって。
結構仲良かったみたいだし、当然ショックだよね。これからどうするんだろう。一応は卒業まで残るのかな?」
「例の自殺した四年生って、ルエーガーの姉貴のことだろ?
トリスタンもかなり気難しい奴だけどさ、姉貴の方は弟よりもっと偏屈だったらしいぜ。
同じ部屋だった子は災難だよな」
「別に、他人のことなんかどうでもいいけど。
ルエーガーはかなりの変人だったってみんな知ってるし、彼女が自殺したって聞いても、驚く人は少ないんじゃないかな。
現に僕は、彼女のような女性は今の時代には合ってなかったと思うしね。
いずれはこうなる運命だったんじゃない?可哀相だけど」
セレン・ルエーガー。
栗色のセミロングヘアーに、露出を控えた清潔な風貌。
どこか影のある雰囲気で、同年代の者らからは常に近寄り難い存在として距離を置かれていた、ミステリアスな女性。
僕の姉にして、たった一人の肉親。
そんな彼女が、校舎の屋上から身を投げたという噂がキャンパス中に流れても、疑問の声を上げる人間は一人もいなかった。
セレン・ルエーガーは浮き世離れした変わり者だったから、突発的にそういう行動に走っても、特に不思議ではないと。
セレンは綺麗な人だった。
周囲からは、僕ら姉弟は外見内面問わずよく似ていると言われたけど、姉さんは僕なんかよりずっと品があったし、僕ほどドライじゃなかった。
まるで人形のようだと囁かれていたセレンが、本当は誰より繊細で人間らしい人だったということを知っていたのは、弟の僕だけだった。
だから、誰になんと言われようと、僕だけは頑なに姉さんの自殺を否定した。
信じたくなかったのではない。
ただ、有り得ないことなのだ。
姉さんは僕と同じで変人だけれど、自殺なんかしない。
自殺願望もなかったはずだし、精神を病んでいたわけでもないから。
もしかしたら、僕が知らないだけで、本当は心に深い闇を抱えていたのかもしれないけれど。
それでも、自ら死を選ぶような人じゃないんだ。
だって、自分が死ねば、僕が死ぬほど悲しむはずだって、わかっていただろうから。
「君がトリスタン君だね?
この度はその…。本当に、気の毒なことになった。
しかし、残念ながらお姉さんのご遺体と、会わせることはできないんだ。
あの高さから飛び降りたせいで、損傷が酷くてね。これから解剖を始めるところだけど、はっきり言って……。
今のお姉さんを、君は見ない方がいい」
あの日、僕との約束をすっぽかした姉さんは、お昼の零時を迎える少し前に、忽然と姿を消した。
どこに行ったのか、出先でなにをしているのか。
姉さんの所在を知る者がなければ、道中の姿を見掛けた者もいなかった。
後に姉さんは、人気のなくなった夜更けを待ってから、一人でこっそりキャンパスに戻ってきたようだった。
そこでも姉さんの姿は確認されなかったが、結果から逆算するに、夜更けに戻ってきたものと推測された。
学生寮には戻らず、夜中のキャンパスでなにをしていたのかというと、なにもしていない。
ただ、誰にも告げずに、屋上に向かったのだ。
そして、飛び降りた。
セレンの身投げ死体を最初に見付けたのは、大学の雇われ清掃員であるという中年の男。
その日も定時に出勤した彼は、まだ教員も生徒も集まっていない早朝のキャンパスで、偶然死後のセレンを発見したという。
聞けば、一番に警察へ連絡を入れてくれたのも彼だったそうだ。
警察がやってきてからは、まず第一発見者である彼が事情聴取のため署まで連行された。
片や、残されたセレンの遺体は、生徒達の不安を煽らないようにと直ちに回収された。
全て内々に片付けられ、例の清掃員と警察、立ち会った医療関係者以外がセレンの死を知ったのは、事故発生当日の午後になってからのことだった。
つまり、事後報告。
僕の耳にも話が入ってきた頃には、全て綺麗に始末されていた。
他の学生達も、教員も、姉さんと寮で同室だった子も。
みんな、セレンが既に搬送された後に事情を聞かされたのだ。
事態を把握した僕は、急いで姉さんの遺体を預かっているという病院まで向かい、担当の医師に直談判をした。
だが、面会は不可の一点張りで、姉さんとは一度も会わせてもらえなかった。
信じられるはずがなかった。
セレンが、僕の姉さんが死んだなんて、何かの間違いだと思った。
仮に死んだことは認められても、それは事故か、急病かなにかで、自分の意思で死ぬなんてことは、絶対に違うと思った。
でも、間違いないと駄目押ししてくる周囲の言葉が頑なで、混乱した頭は理解が及ばずとも受け入れるしかなかった。
僕の姉さんは死んで、僕は一人になってしまったのだと。
これから僕は、姉さんのいない世界で生きていかねばならないのだと。
容赦なく突き付けられる現実を前に、全身が震えた。
心の底ではそんなはずないと思うのに、訴える度に悉く否定されて。
姉さんと最後に交わした言葉が、僕の中を電流のように駆け巡っていって。
やがて、当初湧いた疑問や憤りは、時間の経過と共に諦めへと変わっていった。
「まるで幽霊だな。あんな風にぼんやりしていられちゃ、同じ班の連中はいい迷惑だよ。
こんなことなら、姉さんと仲良く棺桶に入ってくれた方がよっぽどマシだったぜ」
みんな、僕一人がおかしいのだと言う。
確定したことに後からああだこうだと喚いても、死んだ人間が生き返るわけではないのにと。
「あいつ、いつまで犯人探ししてるつもりだ?
姉貴をいじめてたのは一人じゃないんだから、炙り出したところで収拾がつかないだろうに。
誰かのせいにしないと立ち直れないのかね」
僕の知らない姉さんがいた。
僕の知らない、姉さんの傷があった。
それがたまらなく悔しくて、ふがいなくて。
胸に穴が空いたようだという表現をよく耳にするけど、僕自身もその感覚を味わう日がくるだなんて、夢にも思わなかった。
それがこんなにも辛いものだったなんて、想像もしなかった。
「みんな酷いよね。トリスタン君の気持ちを考えもしないで…。
身内の人が突然亡くなったら、誰だって動転するに決まってる。
彼だって、まだ現実を受け入れられないだけなのよ。きっと」
「オレ、お前のこと勘違いしてたよ。本当に、姉さんのこと大好きだったんだな。
……あのさ。今度アボット教授主催の勉強会があるんだけど、お前も来ないか?
きっといい経験になると思うぜ」
しばらくは放心状態で、姉さんを失った穴を忙しさで埋めようと、色々とスケジュールを詰めてもみたけれど。
ふと気を抜くと、脳裏に過ぎるのは姉さんのことばかりで、なにもかも集中できなくて、どれも不完全に終わった。
ずっと僕を嫌っていた連中からも同情の言葉をかけられ、思いがけない人の優しさに触れることもあったけれど。
やっぱり姉さんの記憶がちらついて、素直にありがとうと返すことはできなかった。
「一応、これで全部、だと思う。少なくとも、部屋にあった分は、だけど。
セレンさん物欲ない人だったし、不必要だと思ったものはすぐ処分しちゃうから…。だから、少ないけど、これで全部だよ。
あの、トリスタン、君。
こんな時、なんて言ったらいいか、わからないけど…。
セレンさん、あんまり口数は多くなかったけど、たまに私達にも、トリスタン君のこと話してくれたりして。
本当にあなたのこと大切に思ってたみたいだから、だから、あの、………。
…ごめん。やっぱり、なんでもないや」
後日。
学生寮で姉さんと同室だった子から、纏めてもらった遺品を受け取った。
その内容が実にシビアというか、一応は年頃の女だったくせに、流行りものや色気のあるものは全くで。
本当に必要最低限の分しかなくて、僕は思わず苦笑してしまった。
いくら家具付きの寮住まいといえど、大きめの段ボール箱一つにすっかり収まってしまうなんて。
物欲がないにも程があるが、まあ姉さんらしいといえばらしい話だ。
ただ、教材や日用品の他に、一応私物と言えそうなものもいくつかあった。
それが全て、僕に関係する品だった。
幼少期から現在にかけて、僕と一緒に撮った写真や、昔保護者に内緒でやり取りしていた交換ノート。
姉さんの15歳の誕生日に、僕が初めてプレゼントした懐中時計のネックレス。
当時はまだお互い子供だったし、ネックレスは中学生の小遣いでギリギリ手が届く安物だったけれど、それでも姉さんは趣味が良いと喜んでくれたっけ。
わざわざ寮にまで持ち込んで管理していたということは、世俗に関心のない姉さんがそれだけは大事にしていたということだ。
ルームメイト曰く、たまに箱の中に仕舞ったそれらを、一人でこっそり眺めていることがあったという。
その時の姉さんは、珍しく笑みを浮かべていたそうだ。
「こんなの、とっくに捨てたんだと思ってたのに」
僕の知らない姉さんは、なにを考えていたんだろうか。
秋の冷たい夜風に吹かれながら、たった一人の屋上で空を仰いだだろう彼女は、最後になにを思っただろうか。
守れなかった。
たった一人の姉さんを。僕にとって唯一無二の人を。
事故でも病気でもなく、本当に姉さんの死が自殺であったなら、弟の僕の力だけでも、防げたことかもしれないのに。
なのに僕は、なにも知らず気付かずに。
姉さんが隠し通した嘘を、結局最後まで見抜けなかった。
「これから、どうすればいいんだよ。セレン」
貴女が死んだと聞かされた時にも、僕は泣かなかった。
悲しさよりも、ただただショックで、思考回路が麻痺していたんだ。
だが、こうして死んだ後の今を目の当たりすると、急に、涙が止まらなくなってしまって。
姉さんの遺していった、箱の中の小さな生涯を胸に抱いて、僕は無人の科学室で、声を殺して泣いた。
"ほら、また仏頂面になってる。
せっかくの門出の日なんだから、今日くらいはもっと可愛い顔しなさいよ。
……ね、トリスタン。笑って。私達の旅立ちを祝って、さあ。笑いましょう。一緒に"
誰より大切だった貴女へ。
今までも大切に触れ合ってきたつもりだが、今ほど、貴女を恋しいと思ったことはない。




