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オルクス  作者: 和達譲
Side:THE PAST
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Episode:トリスタン・ルエーガーの悲壮



「あら。今日はまた一段と手酷くやられたわね。口元が切れてるじゃない。痛そう。

あんた体格は良いんだから、たまにはやり返してやればいいのに。

一度くらいカス共の鼻を明かしてやったらどう?」



僕には姉さんがいた。

幼少期に両親を事故で亡くしてから、僕はずっと彼女と寄り添い合って生きてきた。


会ったこともない親戚や、話したこともない両親の知人達。

見たことも聞いたこともない大人の人達に囲まれるのは少し恐ろしかったけれど、取り残された僕らは彼等の元を点々とする他なかった。

親を失った幼い姉弟には、保護者が必要だから。


例え、差し延べられた手が善意からくるものでなくとも。

彼等が見ているのは、僕らではなく、多額の保険金や賠償金の数字であったとしても。


子供の意見なんて、世間には通じない。

訴えたところで、義務だとか倫理だとかいうものに打ち消されて、最後には結局大人の言うことに従わざるをえなくなる。


だから、施設に入れられるよりはマシだと言い聞かせあって、僕と姉さんは、ずっと肩身の狭い思いをしながら成長したんだ。



「ちょっとアナタ。いい加減真面目に考えてよ。私にばっかり押し付けないで」


「考えるもなにも、最初に引き取ろうと言い出したのはお前だろう。

俺は仕事で忙しいんだ。家のことはお前がどうにかしろ」


「言い出したのは私でも、アナタだってすぐ同意したじゃない。

……ハア。手当てが出るっていうから仕方なく呑んだのに、まさかあんなに厄介な姉弟だとは思わなかったわ。

今からでも返品出来ないのかしら」


「お前、そういう性格の悪いことを大きな声で言うなよ。

あの二人のことだ。うっかり耳に入れたものなら、いつか大人顔負けの仕返しをされるぞ」



大人の都合に振り回され、心身共に疲弊しきった僕らは、次第に心を閉ざしていった。


両親が僕らのためにと遺してくれた遺産は、殆ど他人と変わらないような奴らのいいようにされたし、僕らのことを第一に考えてくれる人は周りに誰もいなかった。

優しい顔をして近付いてくる大人は、みんな敵にしか見えなかった。


僕らの性格が徐々に歪んでいったのを、全て他人や環境のせいにするつもりはないけれど。

それでも、僕と姉さんがここまで気難しい人間になってしまったのは、やはり生い立ちの影響が大きいと思った。



「なんなら、私が代わりに言ってきてやろっか?

次また私の弟をいじめたら、コンクリ詰めにして海に沈めてやるからって」


「物騒だな。そんなに心配しなくても、僕なら平気だよ。痛みはそのうちに消えるし、体の傷も放っておけば治る。

姉さんこそ、あんまり目立つことすると、また陰で色々言われるよ?」


「そんなのはいいのよ。私は元から嫌われ者だし、今更好感度を気にして愛想良くするのも滑稽だわ。

それより、私はあなたを傷付ける輩のことが許せないの。

いくら自分が能無しの落ちこぼれだからって、格上に八つ当たりするのはやめろってのよ」



後に、ハイスクールを無事に卒業した僕らは、地元のオーストリアを離れて、新たに二人きりの生活を始めた。


元々、僕も姉さんも頭の出来だけは良かったし、両親の遺言に従って、二人の学費だけは全額きっちり支払うという約束だったから。

多少文句を言われることはあっても、大学に進むこと自体を咎められることはなかった。


姉さんの方は、高校卒業と同時にアルバイトを始め、二年の空白期間を経てから受験をした。

理由は、僕と同じ時期に同じ大学に入るためだ。


向かう先はイギリス。

住まいは大学の学生寮に入らせてもらい、そこで僕と姉さんは、歳の違う同期生として共に化学を専攻した。



そうしてやっと、僕らは解放されたんだと思った。


最後にお世話になった母方の叔母夫婦は、性悪な親戚達の中でも特に嫌みな連中だったから。

顔を合わせれば皮肉ばかり言われていた分、これからはそれがなくなるというだけでもとても嬉しかった。


誰にも指図されず、食べたい時に好きなものを食べて、自分が学びたいと思ったものを思う存分学べる。

文字通り夢にまで見たキャンパスライフは、ようやく手に入れた自由という名の時間は、これ以上ないほどの解放感と充足感を僕らに与えてくれた。


人目を気にしなくていいというのが、こんなに気持ちのいいことだとは知らなかったから。

僕らは生まれて初めて、自らの羽を伸ばした気分だった。



「───ああ、トリスタン。元気?

この間の傷は…、大分良くなったみたいね。

……え?ああ、これ?なんか後ろから突然、ね。鋏でざっくりやられちゃった。

だからまあ、この際だし。毛先も全部揃えちゃおうと思って。自分で切ったのよ。

ボブもなかなか悪くないでしょ?ミステリアスな感じでさ」



しかし、さすがになにもかも順風満帆とはいかず。

僕と姉さんは、念願の自由の世界でも、新たな壁と衝突することとなった。


恐らく、姉弟揃って頑なで無愛想な性格が災いしたのだろう。

二人とも、キャンパスライフをスタートさせてから割とすぐに孤立した。


特に姉さんの方は、孤立するどころか目に見えて嫌われていたようで、女性同士の独特なコミュニティーの中でいつも後ろ指を指されていた。


ある日には、わざと足をかけて転ばせたり、トイレで用を足している時に頭上から冷水を浴びせかけたりした。

そしてまたある日には、姉さんの長い髪を無理矢理鋏で断髪し、その様子を集団で笑い者にして、携帯のカメラ機能で撮影した。


当時の姉さんは、僕の前ではなんてことはないと澄ました顔でいたけれど、赤く腫れた目元が彼女の痛みを物語っていた。



「私は大丈夫。こんなの、慣れてるから。

それに、私にはあなたがいる。大切な弟が一緒にいて、こうして話を聞いてくれる。

それだけで、私は十分。どんなことでも耐えられるわ。

だって私は、お姉さんだから。

一番に生まれた女は、強くあらなくちゃいけないのよ」



姉さんは、昔からよくいじめられていた。

幼少期からどこかクールな女の子だったので、人によっては冷たい印象を受けるのかもしれない。

今までどこに行っても、友達と呼べる相手が出来た試しがなかった。


友達がいないのは弟の僕も同じだったけれど、僕の場合はただ孤立していただけ。

直接手を出されるようになったのは、大学に入ってからだった。



けど、姉さんは違う。

ずっと前からいじめられっ子だった彼女は、誰にも相談することができず、自然な解決にも至らずに、長年苦しみ続けていた。


なのに、自分はお姉さんだからと、僕の前では常に気丈に振る舞っていた。

傷痕を服の裾で隠し、誰にも悟られないよう常時ポーカーフェースを通していた。

そして、皆が寝静まった夜更けに、こっそりトイレで泣いていたのだ。


そのことを、僕はずっと知らなかった。

これほど近くにいたというのに。

弟の視点から見た彼女が、それほどに深い傷を負っていたということに、全く気付かなかった。



僕と姉さん。たった二人の姉弟。

自分達の身を守るため、分厚い殻で全身を覆って、長年互いのみを信じて生きてきた。


僕には姉さんしかいなかったし、姉さんにも僕しかいなかった。

僕には姉さん以上の、姉さんには僕以上の話し相手がいなかった。

ずっと、二人だけの世界に閉じ籠ってきた。



こんな時、自分にも友人と呼べる存在があれば。

たまにはそんなことを思う日もあったが、積極的に人に関わっていくことはいつだって億劫だった。


相手に信じてほしいなら、まずは自分から相手を信じるべしと。

相手の態度は、自分自身の鏡なようなものであると。

かの人物の格言を知らないわけじゃなかったが、いざそれを実行するとなると、いつもあと一歩のところを躊躇ってしまった。




「貴女方がどう思おうが勝手ですが、次また僕の家族を傷付けるようなことをしたら、僕は自分の全てを投げ棄ててでも、貴女方に報復します。

セレンに手を出すということは、僕にも喧嘩を売っていることになると、覚えておいて下さい」




姉さんに守られて、僕は生きてきた。


嫌なもの、怖いもの、正面からは向き合いたくないもの。

降り懸かる悪いもの全てに、姉さんは率先して立ち向かい、弟の僕に火の粉が及ばないよう、いつも僕の前に立ってくれていた。


怖いのは一緒で、道がわからないのは彼女も同じだったはずなのに。

それでも姉さんは僕の手を引いてくれた。

だから僕も、今日までくじけずに来られたんだ。



だけど今は、違う。

身長はもう僕の方がずっと高い。

腕力だって、女の姉さんとは比べようもないくらい強くなった。


歳を重ねる毎に、男の僕は逞しくなっていって。

反対に、女の姉さんは弱っていった。

あれほど頼もしかった背中は、いつからかとても寂しいものに見えるようになった。



「トリスタン。あんた、あいつらに宣戦布告しに言ったんだって?なんか噂になってるよ。

馬鹿ね、もう。相手は所詮年下だし、子供から突っつかれても、特にどうとも思わないのに。

……けど、ありがとう。

おかげでちょっと、気持ちが軽くなった、かも」



確かに姉さんは取っ付きにくい雰囲気だし、物言いは辛辣だし滅多に笑わないし、弟の僕でもなにを考えているのかわからない時があるけど。

人から一線を引かれてしまうのも、仕方ないような気がするけど。


でも、本当は優しい人なんだよ。

無表情に見えるのは悪い感情を悟られたくないからで、弱みを知られて周囲に気を遣わせたくないからなんだ。


人前では絶対に笑わないけど、僕の前ではたまに笑顔を見せてくれる。

実は人一倍傷付きやすくて、孤独を憂いでる。

変わってるけど、少なくとも皆が思ってるような悪い人じゃないんだ。



「姉さん」


「?なに?」


「今度からは、全部僕に相談して。

またあいつらに悪さされそうになったら、すぐに僕にSOSを出して。

どこで何をしてる時でも、必ず、姉さんのところまで飛んで行くから」



いい歳をして、まして目上の相手にそういう低俗なことをする連中を僕は全く理解できないし、恥を知ればいいと思う。


だから、食い止めてやるんだ。この手で。

姉さんより大切なものなんてないんだから、臆することもない。

僕も、もう自分だけ我慢すればいいなんて考えは、捨てる。



これからは、僕が姉さんを守っていくんだ。

いつか彼女が、僕以外の人の前でも、自然と笑えるようになるまで。


今度は僕が、姉さんを引っ張っていく番だ。



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