Episode:ウルガノ・ロマネンコの心象
「美しく生まれた子供ってのは、恵まれているようで、一歩間違えれば最悪の不幸を引き寄せる元だな」
私はきっと、恵まれた家庭に生まれ、優しい両親に愛されて、幸せな幼少期を過ごしたのだと思う。
自分のことであるのに、きっと、と曖昧な言い方しかできないのは、その当時の記憶が断片的にしか思い出せないから。
遡れるのは、11歳からの生き様。
それより前の自分がどんな風に生きていたのかは、今はどうしてもわからない。
過去の全てを忘れてしまったわけではない。
ただ、思い出そうと目を閉じると、何故か頭痛がして、それ以上なにも考えられなくなってしまうのだ。
瞼の裏に浮かぶ両親の顔は、いつもインクかなにかで塗り潰されたように霞みがかっていて、二人の声は、金属同士がぶつかるようなノイズに阻まれて、上手く聞き取れなかった。
まるで、何者かが私の追想を邪魔するかのように。
いつからか、10歳までの幼い私が、私の中からいなくなってしまったようだった。
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11歳のあの日。
私は友人達と一緒に、街の広い公園で遊んでいた。
体を動かすことが好きなグループだったので、全員でキャッチボールやバドミントンなどをして楽しんだ。
暦は初秋。当時の天気は快晴。
運動をしたせいもあってたくさん汗をかき、やがて私は羽織っていたパーカーを腰に巻いた。
被っていた帽子は確か、脱いだ後自転車のサドルに引っ掛けたはずだ。
不思議なものだ。
あれほど仲の良かった友人の顔は思い出せないのに、そういう細かい部分だけは妙にはっきりと覚えているのだから。
「じゃあ行ってくるけど、他になにか必要なものはある?」
「ないよー。やっぱりわたしも付いていこっか?」
「平気だよ。すごそこだし。ちょっと待っててねー!」
途中グループから抜けた私は、最寄りの商店まで買い物に走った。
喉が渇いたので、自分とみんなの分の飲み物を購入するためだ。
あの時、何故自転車があるのに、わざわざ歩いて行こうと思ったのかはわからない。
徒歩の方が早いと感じたのか、自転車では荷物が運びにくいと考えたのか。
いずれにせよ、よく覚えていないということは、これといって大きな理由はなかったのだろう。
だが、今となって思えば。
その何気ない選択が、後に私の人生を大きく変える分岐点となるだなんて。
その時は露程も思っていなかった。
「さっきまで飼い犬を連れて散歩していたんだが、ふとした拍子にリードを手放してしまってね。
君は見ていないかな?小さくて耳の長い子なんだけど」
間もなく、丁度公園を出たところで、一人の見知らぬ男が声をかけてきた。
30代くらいの、人の良さそうな大柄な男だった。
いつもの私であれば、知らない男に声をかけられたらまず身構えた。
不審者対策のため、学校でも再三指導されているし、なにより私自身とても内向的で人見知りな子供だったから。
「うーん。私は見てないですけど、このまま戻ってこなかったら心配ですよね。
……じゃあ、私も一緒に探してあげます!みんなにも思い当たることがないか聞いてきますね」
しかし、あの時の私は完全に油断していた。
男の言う飼い犬とやらに覚えはなかったけれど、彼が本当に困っている様子だったので、自分も彼のためになにか手伝ってやりたいと思った。
無垢な親切心が、鍛えられた警戒心に勝ってしまったのだ。
だから私は、買い物は後回しにして一緒に犬を探してあげようと、踵を返して男に背を向けた。
そこで、意識が途切れた。
「全員目を覚ましたな。じゃ、始めるぞ」
最後に思い出せるのは、強烈な薬品の臭いと、視界がぐるりと回る感覚と、後ろ手に強く掴まれた手首の痛みだけ。
その後はっと目を覚ました時には、私は全く知らない場所で拘束されていた。
暗く狭いその部屋は赤い照明に照らされていて、物々しい雰囲気が立ち込めていた。
加えて自分の横には、同じように手足を縛られた少年少女が4人並んでおり、目の前には大人の男が三人立っていた。
三人の内の中央にいた男は、おもむろにこちらに近付いてくると、向かって左端から順に子供達の顔を持ち上げていった。
小さな顎を大きな手で乱暴に掴んだ男は、一人一人の容貌をじっくりと確かめてからこう呟いた。
A、B。
ぼそぼそとした男の声に合わせて、後ろに控えた別の一人がなにやらメモを取っているのも見て取れた。
そのことから、男の言う言葉が意味のない独り言ではないことが窺えた。
「こいつはー…、Bかな。隣のこいつもB。こっちは…、ギリギリAでもイケるだろ」
混乱した頭では、男の言う三つのアルファベットがなにを表しているのか、すぐにはわからなかった。
ただ、その光景を目の当たりにした瞬間、私は直感した。
私達は、値踏みされているのだと。
詳細は不明だが、恐らくABの記号はなにかの優先順位だ。
同じ年頃の少年少女を物のように一列に並べ、それぞれの価値をこの男が吟味している。
まるで、水揚げされた魚でも選別するように。
怯えて肩を震わせる男の子。
膝を抱えて啜り泣く女の子。
反応には個人差が見られたものの、子供達の姿は一様に怯えていた。
その様子から、私を含めた全員が自分の置かれた状況をおおよそ察しているようだった。
「で、こいつは……、あー。
顔は悪くないが、この足じゃあな。勿体ない気もするが、こいつはCだ」
やがて、男の視線が私の隣でへたり込んでいた少年に向けられた。
男は少年のブラウンの髪をわしづかんで強引に顔を上げさせると、急に眉をしかめた。
男曰く、その少年の判定はC。
これまでの4人の中で、C判定を下されたのは彼だけだった。
ABCの三つの記号の内、恐らくCは男の基準で最低のジャッジだ。
少年は足が不自由なようだったので、もしかしたらそのハンディキャップが減点の理由になったのかもしれない。
少年は、意味は理解していないながらも、男の冷めた口ぶりと態度を見て、本能的に自分の運命を察したらしかった。
どうやら自分だけは、他の子らよりももっと悪い処遇が待っているようだと。
その時の彼の表情が、瞳の陰り方が、まさに絶望そのもので。
私は目が離せなくなった。
「───この娘、素質がある。
ジジイ共の玩具としてくれてやるのは惜しい」
そして、いよいよその時はやってきた。
計5人の子供達の中で、一番右端に座っていた私が最後の一人になった。
少年の細い髪から手を離した男が、高そうな革靴を滑らせて私の前に立つと、ひしひしと見下ろされている視線を感じた。
私は、恐怖に震えそうになる呼吸をぐっと鎮め、奥歯を噛み締めて男を睨んだ。
本当は、今すぐにでもここを飛び出して行きたかったし、泣き喚いて父さんと母さんに助けを求めたかった。
でも、目の前にいるこの男は、子供達の怯える様子を見て愉しんでいるようだったから、意地でも泣いてたまるかと思った。
お前のような悪党に、私は屈しない。
これ以上こいつらの思い通りにさせてなるものかと。
すると男は、私と目が合った瞬間にこう言った。
声にならない掠れた吐息で一言、"欲しい"と。
残念なことに、男を悦ばせまいとしてやったことが、結果的に最も男の気に入る行動となってしまったのだった。
「おい。この娘の身柄、俺にくれ」
「えっ……。ですが、今回の優良品は全て納品先に卸すようにと、」
「なんだよ。もう長い付き合いなんだから、これくらい目瞑ってくれたっていいだろ?
今まで真面目に付き合ってきてやったんだから、一度くらいこっちの我が儘も聞いてちょうだいよ」
クーリンと呼ばれたそいつは、黒髪のドレッドヘアーに無精髭をたくわえて、常にニヒルな笑みを浮かべたいけ好かない奴だった。
ただ、彼に対してだけは控えの連中が下手に接していたため、この中ではクーリンが最上位の立場にあるだろうことは一目瞭然だった。
そんな奴が、私の反抗的な態度を見てなにを思ったのかは知らない。
だが、どうやら私だけは、彼の個人的な所有物となるらしかった。
「そうと決まれば、これ以上の問答は時間の無駄だな。
俺が出たらいつものガス入れろ。ただし分量間違えんなよ?一日に二度となると餓鬼の体にゃ毒だからな」
曰くジジイの玩具、ということは、他の子らはこれから売りに出されるのか。
だったら、私は。
クーリンに直々に指名された私は、これから奴のもとでなにをやらされるのだろうか。
目が回りそうなほどの急展開で、一切の説明もなく。
無実の子らの運命が、大人達の汚れた手によって強引に塗り替えられていく。
この世には、普通には見えない底深い闇が存在することを知っていた。
でも、まさか自分の身にそれが降り懸かってくる日がくるなんて、想像すらしなかった。
「オラ、立ちな。噛み付きやがったら小指から順にへし折るぜ」
最初に拘束を解かれた私は、クーリンに腕を引かれて起立させられ、そのまま部屋の外へと連行されていった。
怖い。
この先に、一体なにが待っているのか。
つい先程まで、平和な世界で何事もなく過ごしていたというのに。
あまりに事態が突然すぎる。
去り際に首だけで振り返ると、残された他の4人が不安に満ちた表情でこちらを見ていた。
中でもC判定の彼は、一際暗い目で、固く強張った頬に一筋の涙を流しながら無言でこう告げていた。
"さようなら。"
会ったことも話したことも君へ。
けれど私は、彼のさよならに返す言葉が見付からず、クーリンに背中を押されてみるみる暗い闇の中へと飲まれていった。




