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オルクス  作者: 和達譲
Side:THE PAST
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Episode-2:バルド・デ・ルカの後悔





リビングのドアを開けて、真っ先に視界に飛び込んできたのは、四本の人の脚だった。

掃除の行き届いたフローリングの床に並んで横たわったそれは、大人と子供と、二人分の脚。


しかし、扉を抜けた位置からでは、まだ脚以外の全貌が見えなかった。

上半身は物陰に隠れていたため、顔も髪色も分からなかった。


だから、最初の段階では、この四本の脚が誰のものであるのか、断定はできなかった。



「ディーア、…グリー、ゼ」



点々と床を這う赤い液体。

周囲を漂う饐えた匂い。


徐々に霞んでいく輪郭。

急に渇き始める喉、ざらつき始める舌先。

発熱にも似た、くらっとくる発作的な目眩。


そんなはずないと思うのに。

違ってほしいと祈っているのに。

一歩踏み進める毎に脈拍する心臓が、金槌で打たれたようなこめかみの痛みが、考えたくない"もしや"を全力で訴えてくる。


それでも、恐る恐る足を滑らせ、リビングの奥へと歩みを進めていくと、とうとう目の前に現れた。

並んで倒れた二人の姿が、見えなかった二人の顔が、はっきりと視界に映った。



どんな姿になっていようとも、見間違えるはずはない。

でも、間違いであってほしかった。

どうか、悪い予感が外れてくれと。

例え手遅れと解っていても、願わずにはいられなかった。


けれど、そこにいたのはやはり、紛れも無く俺の愛する二人だった。




「───ディ、ア…、ッグリーゼ!!!!」



寄り添って倒れていたディーアとグリーゼの体には、所々痛め付けられた跡があった。

損傷はそれほど酷くは見えなかったが、恐らく息がある内から執拗に拷問されたのだろう。


なにより決定的だったのは、首に残された深い切り傷だった。

ディーアもグリーゼも、細い首を鋭利な刃物で一思いに切り裂かれていた。

痕跡を見るに、その手付きには一切の躊躇いがなかっただろうことが窺えた。



俺はとっさに二人のもとへ駆け寄り、震える手つきで二人の血濡れた肌に触れた。

そして、無駄を承知で脈を確認した。


だが、氷のように冷たくなった肌には生気がなく、脈の方も全く反応がなかった。

繰り返し名を呼んでも、二人が目を開けることはなかった。


ぴくりとも動かない。

俺の愛する妻と娘は、確かに俺の目の前にいる。

なのに、肝心の中身がない。

器だけの、傷だらけの、抜け殻だけが、ここにある。



「そんな、そん、な…っ。

嘘だ、ディーア、グリーゼ。


嘘だ……」



あ、あ、と短い母音のみがだらし無く口から漏れ出ていく。


頭が割れそうだ。

涙も鼻水も垂れ流しで、金縛りにあったように身動きができない。

力なく崩れ落ちた膝からは、床の冷たさが伝わるだけで人肌の温もりは感じられない。


全身が、鉛のように重い。

顔だけを見れば、二人は眠っているようにしか見えないのに。


これは、夢か。

いや、夢であってほしい。

すべて嘘だと言ってくれ、誰か。なんでもするから。

代わりに俺の命を捧げたっていい。だから、頼むよ。お願いだ。

この悪夢から、早く俺を目覚めさせてくれよ。なあ。




「っぁ、……ぁあ、あ。だれ、か。誰か、あ。

誰か、だれ、か……。ァ、ァアア、あああ」




二人の肩を慎重に持ち上げ、抱きしめると、以前よりとても軽く感じられた。


だが、もう俺の背中に腕が回されることはない。

かたく閉じられた瞼は、二度と開くことはない。


グリーゼ、髪が伸びたな。

ディーアは香水を変えたのか。

二人とも、よく似合っているよ。本当に。


でも、もう伝えられない。

俺の言葉は、もう届かない。

俺の言葉に二人が笑い返してくれることは、もうない。



いつものように、愛する家族の待つ家で。

見慣れた扉を開けたその瞬間に、一瞬にして、俺の人生は粉々に崩れ落ちた。


逆に、今日までの平和な日々が、すべて幻だったんじゃないかと思うほど。

終わる時は本当に、一瞬だった。





ーーーーー



「バルド、おいバルド。

……酷い顔だぞ。やっぱり無理しないで、早く家に帰った方がいいんじゃないか?

あれからまだ日が浅いし、俺達のことは気にしないで、今は自分のことだけ考えろ」


「君は悪くないよ、バルド君。どうか自分を責めないでくれ。

とても、辛いけれど…。犯人は無事に捕まったというし、今は、これ以上被害が出ずに済んで良かったと、思うことにしよう」


「ごめんなさい、バルド。一番辛いのはあなたなのに…。

でも、私達も死ぬほど悔しいのよ。これだけのことをしておいて、終身刑にしかならないなんて。

法律がそれを良しとしないなら、いっそ、私達の手で犯人を八つ裂きにしてやりたいくらいだわ」



やがて、事件発生から六日後。

俺がディーアとグリーゼの遺体を自宅で発見した日から五日後の夜に、身元を特定された犯人が捕まった。


グエルリーノ・カンビアニカ。29歳男性。


数年前からイタリア全域で活動を続けていたシリアルキラーで、殺人の他にも過去の余罪は多数。

現時点で判明している限りでも、奴の手にかかった被害者は少なくとも15人以上はいるとされ、中には身元不明の者もあるという。


しかし、その間もグエルリーノは、何食わぬ顔で日常生活を送っていたようだった。


家事代行サービスの仕事を真面目に勤める傍らで、人知れず殺戮を愉しんでいた。

15人以上もの罪なき人々を殺めておきながら、普通に、日の当たる場所で、平和に生きていたのだ。こいつは。



奴の主なターゲットとされていたのは、力の弱い女性や小柄な男性。

加えて、中流家庭以上の恵まれた環境下にある者だった。


拘束、或いは人質をとるなどの脅迫をして、手始めにターゲットの四肢と声の自由を封じる。

その後、無抵抗となった相手を長時間に渡ってなぶり、最後に刃物で喉を切り開いてとどめをさすという。


女性の場合は単純な殴打、男性の場合は専門の器具を用いて拷問するのが、奴のやり方。

そこだけは一貫して手口を変えていない。


だが、子供を殺したのは初めてのことだったらしく、グリーゼには暴行された形跡がなかった。

だから、奴が子供を殺したのは、俺の娘が、グリゼルダが最初で最後であったと、後に警察が話していたのを聞いた。




「私、例の代行サービス、前に一度頼んだことがあるの。

何度か、家に、広告のチラシが届いていたことがあって。せっかくだから、試してみようかと思って、部屋の掃除と、庭の手入れをお願いしたわ。

……それでその時、派遣されて来たのが、あいつだったの。私、知らないで殺人鬼を家に入れた。

だから、ディーアさん達が目を付けられたのも、きっと私のせいだわ。いつもお宅には、奥さんと娘さんしかいないって、あいつも気付いたから、きっと…。


ごめんなさい、バルドさん。

どうしよう、私…。私、どうやってあなた達に償えばいいのか…」




我が家の隣にも、一つの平和な家庭があった。


夫と妻と、二人の息子。

明るく親切で、近所付き合いもマメだった幸せな四人家族が、俺達の隣の家に住んでいた。


ほんの数日前まで、彼らも俺達も、犯罪や事件などとは無縁に生きていたんだ。

何気ない理由で、隣人が知らず知らず悪魔を呼び込んでしまった、あの日までは。



グエルリーノは、自分の立場を利用して堂々と人の家に上がり込み、そこに暮らしている者が自分の好みに当て嵌まるかどうかをじっくり吟味してから、ターゲットを選定していた。


なのに、今回狙われたのは我が家だった。

直接関わったお隣ではなく、無関係のディーア達が目を付けられた。

それは多分、俺の存在が原因だった。



仕事で長期間家を空ける俺と違い、隣の家は遅くても19時までには夫が帰ってくる。

高校生の体の大きな長男もいる。

日頃から来客も多く、奥さんが一人で家にいる時間は少ない。


だから、候補から除外された。

恐らく、人の気配が途絶えない分、お楽しみの最中に邪魔が入るかもしれないと懸念したのだろう。



俺が、奴を家に引き入れた。


妻と娘が殺されたのは、俺が帰宅した日の前日。

たった一日。一日でも早く俺が帰っていたなら、こんなことにはならなかったんだ。


二人が最期に見たのは、奴の歪んだ顔か。

最後まで助けを求めていた相手は、俺だ。


ディーアはきっと、息絶えるその瞬間まで、身を呈してグリーゼを守っただろう。

そしてグリーゼは、自分を必死に庇う母が、目の前で酷くいたぶられて、徐々に弱っていく様を、ずっと。



地獄だと、思った。


ディーアもグリーゼも、誰からも愛される人間で、どこにいっても人気者だった。

だから、二人が殺されたことに皆が憤り、悲しんだ。


けれど、一番辛いのはあなただからと、皆が俺に優しく触れた。

俺が招いたことなのに、誰一人として俺を責めないのが、辛くて悔しくてたまらなかった。



生き甲斐を、意味を、価値を、全て失ってしまった。


それでも、俺の時間は止まらない。

愛する二人が死んだ後も、俺は生きて、これからも生きていかなくてはならない。


気が遠くなる。

自分でも情けないほど、なにも手につかない。なにもする気にならない。

なんの感情も湧かない。なにも考えられない。

なのに、気付けば涙が頬を伝っている。



俺達の事件を最後に、グエルリーノは逮捕された。

奴にとって、今生最後のお遊びが、被害者が、俺のディーアとグリーゼになった。


もう、これ以上不幸は続かない。

俺達と同じ目に遭う人間は、もう現れない。





俺達の前に殺された人達が、最後だったら良かったのに。


そう、思わずにはいられない。



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