Episode:バルド・デ・ルカの後悔
「おかえりなさい、バルド」
「おかえりなさい、パパ」
玄関の扉を開ければ、出迎えてくれるのは俺の家族。
妻のディアマンテと、娘のグリゼルダ。
俺にとって、この世で最も愛おしい二人の天使。
かけがえのない俺の宝。
「ただいま、ディーア。グリーゼ」
軍人の俺が、唯一心から安らげる場所が、この家だ。
愛情深く、料理上手で、献身的に俺を支えてくれる美人な愛妻。
よく笑いよく泣き、まだまだ手がかかるが、なにより俺を好いてくれる可愛い愛娘。
二人の顔を見て、声を聞いて、それからようやく、俺は無事に帰って来られたんだと実感する。
あらゆるしがらみも、綻びも、この家の玄関を潜った瞬間に、綺麗に消えてなくなる。
銃の固く冷たい感触は、二人の柔らかな肌の温もりに。
燻る火薬の匂いは、ディーアの美味しい手料理の香りに。
戦場の殺伐とした空気は、グリーゼの嬉しそうな笑い声に。
こんなに、幸せでいいのだろうかと。
あまりにも順風満帆で、かえって不安になるほど、俺の人生は素晴らしい日々だった。
「ねえパパ聞いて!こないだね、学校でマラソン大会があったんだけど、わたし学年で三番目だったんだよ!
賞状ももらったの!」
娘のグリーゼは、早いものでもう小学三年生になる。
少し前まで人見知りで引っ込み思案だった性格も、最近はすっかり明るくなった。
以前までは苦手だった縄跳びも、一輪車も、算数の問題も。
次出張から帰ってきた時には、全て克服してしまっていたり。
俺の知らないところで、俺の知らない間に、グリーゼはどんどん大人になっていく。
出来るだけ家族の側にいようと努めてはいるものの、こうして時の流れを感じる瞬間には、たまに自分だけ置き去りにされたような気分になって寂しかった。
「それはすごい。流石は俺とディーアの娘だ。
かけっこで俺が抜かされる日も遠くないかもしれないな」
「んふふ~。みんなのお父さんお母さんにもおんなじこと言われたよ!さすが軍人さんの子は逞しいねえ~って!」
俺に褒められたのがよほど嬉しかったのか、グリーゼはリビング中を動き回って、全身で喜びを表現した。
そんなグリーゼを眺めながら、俺はソファーに腰掛けた。
キッチンでは、ディーアが夜食の準備をしながら笑っている。
「ハハハ、そうか。これでまた、同僚への自慢話が一つ増えた。
こんなに可愛い娘がいるって話したら、あいつらさぞ羨ましがるだろうなあ。
……よし。グリーゼ。せっかくの三等賞だし、ご褒美をやらなくちゃな。なにか欲しいものはあるか?
服でも、ゲームでもぬいぐるみでも、なんでもいいぞ」
すると、俺の言葉にぴたりと動きを止めたグリーゼが、急に口をつぐんだ。
俯いた顔には、微かに寂しげな表情が浮かんでいる。
そして、しばらく考え込んだ後、俺の方をちらちらと窺いながら、言いづらそうにこう呟いた。
「……なにもいらないよ。欲しいものは特にないの。
だから、その代わりに、パパと一杯遊びたい。お仕事がお休みの間、ずっと、パパとママと、三人でいたいの。
ただ家でお話するだけでもいいから、どこにもお出かけできなくていいから、パパ。
今度は、出来るだけわたしと一緒にいて」
ふと駆け寄ってきたグリーゼが、俺の胸に飛び込んでくる。
エプロンを外して様子を見に来たディーアも、俺の肩に手を添えて微笑んだ。
……そうか。そうだよな。
寂しかったのは、俺だけじゃないんだ。
近頃は階級も上がって、益々戦地に赴く機会が増えたから。
その分、当然家に帰れる時間も減った。俺が帰らない日が続くほど、二人の不安も大きくなっていったはずだ。
立場上、俺はいつどこで命を落としてもおかしくない。
だから、予定より帰還が延期した時なんかは、特に怖かったことだろう。
もしこのまま、俺が帰って来なかったらと。
「……そうだな。うん。大丈夫だ、グリーゼ。
今度のお休みは前より長くしてもらったから、その間ずっと一緒にいてやれる」
「ほんと?!大人同士のお付き合い、とかもないの?」
「ああ。今回ばかりは家族サービスに徹したいからって、皆には先に断っておくよ。
だから、思う存分一緒に遊んで、美味いものを食べたりしよう。
あ、来週はグリーゼの行きたがってた動物園にも出かけてみるか」
「いいの?バルド。私達は嬉しいけど…。
あなたも疲れてるんだから、無理しなくていいのよ?」
「無理はしてないさ。俺がそうしたいんだ。
……ディーア、グリーゼ。いつも俺の帰りを待っていてくれて、ありがとうな。寂しい思いをさせてばかりで、すまない。
だが、これだけは覚えていてくれ。
俺はいつでも、お前達のことを一番に考えてる。
家族への愛情は、どんな時も、なにがあっても、ずっと変わらないからな」
愛する妻と娘を両腕に抱いて、俺は目を閉じた。
この先、なにがあるかわからない。
いくら予測しようにも、回避するべく全力を尽くしても、急に降り懸かってきたものを避けきれない時もあるだろう。
だからこそ、悔いのないように。
今という確かな幸福を、一滴たりとも取りこぼさぬよう、今後とも俺は、全身全霊でお前達を愛すると誓う。
俺に二人を与えてくれた神に、今はただ、感謝する。
「パパ、大好き」
「バルド、大好きよ」
「ああ。俺も大好きだ。
ディアマンテ。グリゼルダ」
いつまでも、永遠に。
次また帰ってきた時も、笑顔で俺を迎えてくれるか?
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「おいバルド。奥さんの手料理があんまり美味いからって、食い過ぎて余計な贅肉つけるんじゃねえぞ」
「ハハハ。そうならないためにも、毎日トレーニングは欠かせないな」
「ハハ。じゃ、またしばしの別れだな。ご家族によろしく」
それから、長期の任務を終え、再び地元に戻った時。
気付けば、以前の休暇から随分な日が経ってしまっていた。
前の休みには精一杯家族サービスをしたつもりだし、たくさん思い出も作った。
だが、これほど長い間家を空けるのは初めてのことだった。
帰途の道中には、二人のためになにか手土産を用意していこうかとも考えたが、やめておいた。
今はなにより、一刻も早く家に帰るのが先だと思ったからだ。
早く、二人の顔が見たい。二人を抱きしめたい。
おかえりと迎えてくれる、あの優しい空気を感じたい。
途中までを共にした同僚と別れた後は、一切の寄り道をせずに真っすぐ慣れた道を駆けた。
「あらバルドさん、しばらくぶりね!」
「ああ、ラウロさん。ご無沙汰してます」
「お仕事の方はもう片付いたの?奥様とお嬢さんにはもう会った?」
「仕事は昨日にようやく一段落つきました。妻と娘は家で待っていると思います」
「あらそうなの。じゃ、引き留めちゃ悪いわね。今度改めてお話ししましょう。
お二人によろしく」
やがて着いた先には、二階建ての一軒家があった。
アイボリー色の三角屋根の家。
特別大きい訳ではないが、家族三人で暮らすには十分すぎるほどの城だ。
この時、既に日は落ちていて、外は薄暗くなっていた。
家の中を覗いてみると、カーテン越しに明かりが点いているのが見えた。
この時間帯なら、どの家庭も夜食の準備にとりかかっている頃だろう。
さて。しばらく会わない間に、グリーゼはまた背が伸びたかな。
それとも、ディーアが髪型を変えているだろうか。
はやる気持ちを抑え、走って乱れてしまった毛先を整えてから、俺は扉の横のブザーを鳴らした。
「故障、じゃないよな……?」
しかし、しばらく待っても、中からはなんの反応もなかった。
いつもなら、ブザーの音に気付いたグリーゼが真っ先に駆けてきて扉を開けてくれる。
そしてその後ろからディーアもゆっくり現れて、二人が玄関まで出迎えにきてくれるのだ。
なのに、今日はどうしたのだろう。
外出の予定があるとは聞いていないし、明かりが点いているなら留守にしているというわけでもなさそうだが。
確認のため、もう一度ブザーを押してみた。
が、やはり反応は返ってこなかった。
もしやと思い、今度はドアノブに手をかけてみると、施錠されていなかった。
少し不用心な気もするが、ひょっとして俺を驚かそうと、なにかサプライズでも計画しているんだろうか。
不思議に思いつつ、驚かされても対応できるよう一応身構えてから慎重に扉を開けると、ギシリと軋む音がやけに大きく響いた。
「───ディーア、グリーゼ?
今帰ったぞ。いないのかー?」
扉を開けても、玄関に二人の姿はなかった。
妙に静かだ。
奥の部屋に隠れているのか、あるいは本当に留守にしているのか。
家に上がり、辺りを見渡してみる。
リビングの方に向かって声をかけてみるが、返ってくるのは自分の声の残響だけだった。
こんなことは初めてだ。
「おーい。ディーア、グリーゼー。
いるなら出て来てくれよ。早くお前達の顔を見せてくれー」
今思えば、あの時の俺は平和ぼけしていたのかもしれない。
戦地を離れ、軍服を脱げば、またいつでも元通りになると思っていた。
俺の家は、いつ帰っても明るくて、必ず家族が待ってくれているものと、思っていた。
時として、弾丸飛び交う戦地より、何気ない日常の中にこそ本当に恐ろしいものが潜んでいることがあるなんて。
まさか自分の身に、そんなことが起こるなんて、当時は思いもしなかったんだ。




