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オルクス  作者: 和達譲
Side:THE PAST
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Episode-2:シャオライ・オスカリウスの根源



母が俺を捨てていった日のことを、今も時々夢に見る。


八歳。まだ世の理を知らぬ子供。

だが、幼いながらに、あの時の母さんはどこか様子がおかしかったと気付いていた。


当時はあの感覚をうまく表現できなかったが、何故だか無性に不安になって、これ以上先に進みたくないと、自分はここにいたくないと強く感じた。

一見いつも通りに見える母の姿が、いつもとはなにか違う気がした。


表情や、声色や、体温や、俺の手を握り返す強さ。

どれも変化と呼べるほどのものではなかったが、子供とは、母親の態度には特に敏感な生き物だから。

微妙な違和感でも、すぐに察することができた。

理屈はわからずとも、本能的に。


故に、俺は母さんと離れることを必死に嫌がった。

彼女の言うことにはずっと従順に頷いてきた人生だったが、その時ばかりは声を上げて反抗した。



「お願い。母さんを困らせないで。母さんの言葉を信じて」



それでも、最後には逆らうのをやめ、母の言い付け通りその場に残ることを承知した。


理由は一つだ。

信じていたから。


必ず迎えに来るという言葉を信じたから、だから俺は、どれほど寒くとも、不安でも、ここで彼女の迎えを待とうと思ったんだ。



そうさ、母さん。俺は貴女を信じていたんだよ。

愛していたし、貴女も俺を愛してくれていると思っていた。

だからこそ、俺の頭を撫でる掌を、約束だと微笑む顔を、疑いはしなかった。



「そう。お利口ね、シャオライ。あなたならきっとそう言ってくれると思ったわ」



なにか、やむにやまれぬ事情があったのかもしれない。

母さん自身は、決してその選択を望んでいなかったのかもしれない。


だが。だったなら。

どうしても避けられない問題があったなら、俺にも相談してほしかった。


母さんが、自分一人で悩んでいたなら。苦しんでいたのなら。

貴女のために、俺にもなにかできることがあったなら、なんでもしたのに。


今までだってずっと、そうしてきたじゃないか。

ずっと二人で、支え合って生きてきたじゃないか。


なのに、どうして。

こうする以外に道はないと、諦めてしまう前に。

なにか。なんでもいいから。

せめて、俺にも選ぶ権利を与えてほしかった。


なにも告げずに、ただ消えるのではなく。

どうしてそうなってしまったのか、俺はこれからどうなるのか、貴女はこれからどこへ行くのか。

全て、包み隠さず話してほしかった。



母さん。

俺は貴女を愛していたよ。

貴女は俺を憎んでいたかもしれないけれど、俺はどうしても、貴女を憎めなかった。


例え貴女が、どんなに残酷な人でも。

それでも俺の、たった一人の母には違いないから。




「なに?金が足りない?生意気言ってんじゃないよ。

お前みたいな汚い餓鬼、働かせてやるだけ有り難く思いな。

それでも文句があるってんなら、ここよりもっと気前のいいとこ探すんだね」




母さん。

俺はあれから、地べたを這いずり回って生きてきました。



汚れていようが、腐っていようが、とりあえず腹の足しになりそうな物はなんでも口に入れた。

思わず吐き出してしまいたくなるほど酷い味のするものでも、飢えるという苦しい感覚を思い出せば、飲み込めないことはなかった。


そのせいで何度か体調を崩すことはあったが、病気にならなかったのは奇跡といえるだろう。



「金ならもう恵んでやっただろ!これ以上色付ける分はねえよ!

分かったらもう付いてくるな、鬱陶しい!」



地べたに額をこすりつけて、物を恵んでもらったり。

はした金を稼ぐため、ボロ雑巾のようになるまで働かされたり。


毎日、死に物狂いで生きた。

死にたくなくて、必死に生きてきた。


プライドなんてない。

希望なんて言葉すら知らない。

不満を漏らす余裕も、悲嘆に暮れている時間もない。

ただ、生きるための日々だった。



そんな中で唯一楽しみだったのは、たまに見る母の夢。

今よりもっと幼かった頃の、貧しくも笑顔のあった幸せな記憶。


当時の貴女の温もりを、優しさを、再び感じられるその一時が、追憶という名の幻が、当時の俺にとって唯一の癒しだった。




「いやー、オスカーくん。君は最高だよ!

初めはルックス目当てだったお客さんも、今はなにより君の演技が素晴らしいと口を揃えるんだ。

おかげで売り上げも伸びているし、これからも期待してるからね!」




母さん。

俺はあれから、世の中汚くならなきゃ生きていけないと学びました。



より西洋の血が容姿に反映されるようになった年頃には、みすぼらしく頭を下げて食い繋いでいた昔とは打って変わり、人前に出て顔を晒すのが生業になった。


満員の客席に向かって愛想を振り撒き、営業スマイルという名の仮面を被って、舞台の上で無心に舞い、演じる。


たちまちに沸き上がる歓声。

山のようなおひねりと、高価なプレゼントの数々。

好意を伴った贈り物は、毎度浴びるほどに視界を埋め尽くした。

だが、胸の内に巣食った虚無感は、どれだけ浴びても埋まってはくれなかった。



「ハア。何度見ても素敵ね、彼。素性は殆ど明かされていないそうだけど、上海出身なのかしら?」


「別にどこの生まれだって構いやしないわ!

まあ、あの洗練された所作を見れば、きっと名家の出に違いないけれどね」



掃きだめを見下ろすような辛辣な目を向けられていた俺が、今や雑技団の顔。

かつての侮蔑は称賛へ変わり、憐憫は憧憬となった。



あの日、俺を汚い餓鬼呼ばわりしてこき使っていた飯屋の女主人さえもが、恍惚の表情を浮かべて客席に座っている。


滑稽だ。

俺もあんたも。お前らも。


まさか、あの時のみすぼらしい子供が今の俺だなんて、この場にいる誰しもが夢にも思っていないことだろう。


今更正体を明かす気も起きなかったが、まるでお伽の国の王子様のような扱いを受けると、口にした順からくびり殺したくなる衝動に駆られる時があった。




「俺、お前知ってるよ。

オスカーだろ?ちょっと前まで上海のサーカス団にいた。

すげー人気あったのに、そっちの仕事はやめちまったのか。ま、使えりゃ過去なんてどうでもいいけどよ。

つーわけで、これからよろしく頼むぜ。えーと、ピアソン?」




母さん。

今の俺の姿を見たら、貴女は悲しむでしょうか。



経験を積み、あらゆる知恵と技術を身に付けた青年期には、既に裏の世界に片足を突っ込んでいた。


学歴はなかった。まともな職歴もなかった。

あるのはこの体と、役者時代に培った身体能力と洞察力。

そして世渡りの術だけだった。


それでも、真っ当に生きようと志を持てば、決して不可能じゃなかったかもしれない。

だが、俺は地下に潜ることを選んだ。

自分の意志で、日陰の道をゆくと決めたのだ。



「今回も良い取り引きだったよ。奴さんの親族を思うと、全く胸が痛まないわけじゃないがな。

今後贔屓にさせてもらうよ。またなにかあった時はよろしく頼むぜ」



自分とは何者なのか。

ただそれが知りたかった。


幸せそうに笑っている奴を見ると、沸々と胸に込み上げてくる黒いもの。

それが一体なんであるのかを知りたかった。


いつからか、己の幸福よりも、他人の不幸を願うようになっていた。

俺が苦しんだ分だけ、みんな苦しめばいいのにと。


だから俺は情報屋になった。

自分の匙加減一つで、そいつを幸せにも不幸せにもできるから。

俺の手の内に誰かの人生があると、人の一生を左右する力が俺にはあると実感する瞬間が、たまらなく心地良かったから。


クソ野郎の人生を破滅させ、同時に懐には金が入る。

こんなに合理的で、こんなに楽しい仕事は他にない。


人の死を見ると、自分の生を実感した。

一歩間違えていれば、お前は俺だったのだと。

いつ死ぬかわからないという恐怖が、俺の原動力で興奮材料だった。



「どうして……っ。信頼してたのに、こんな、最後の最後で……っ!」



目障りな相手が落ちぶれていく様は、見ていて実に愉快だった。

これ以上ない娯楽だった。


だが、いい気味だと思う反面、いつももう一方の俺が冷静に問い掛けてきた。


"こんなことで、お前は本当に満たされるのか"と。

"お前の真の望みはなんなんだ"、と。



「俺だって、人並みの幸せが欲しかったさ。

好きな女と結婚して、子供を作って。平凡に、普通に、ありふれた幸せな家庭ってやつを築いてみたかった。

けど、知らないもんはどうしようもねえだろ。

どうすれば"普通"が手に入るのか、"人並み"になれるのか。その方法が丸っきりわからねえ。

子供は親の背中を見て育つってのは、まさにこういうことだよなあ。

愛されたことがねえから、当然愛し方もわからねえ。

誰も愛せない俺は、誰にも愛されるわけないんだ」



母さん。

貴女は今どこにいますか。

貴女がこの世に産み落とした俺は、貴女が責任を放棄した俺は、こんな人間になりましたよ。



人であることをやめたいと、何度も思った。

ただの布きれ同然の服を着て、不潔なままの身を恥じることもなく、道端に落ちている食い物を拾い歩いて。


これのどこが"人間"だというのか。

そこらの犬猫の方が、ずっといい暮らしをしている。


言葉を理解できる分苦労も多いし、中途半端に人権なんてものがあるから、奔放に動けない。

落ち込んだり悲しんだりと余計な考え事も多く、煩わしい。



裏社会に足を突っ込んでから、心と体を完全に切り離せるようになるまで、四年もかかった。


生後からカウントするなら、22年だ。

20年以上苦悩して、ようやく俺は己の感情を支配する術を身に付けたんだ。



「俺は、アンタの自慢の息子になれたかよ」



愛してたよ、母さん。

たった一人の俺の家族。

俺に命を与えてくれた人。


感謝してるよ。俺を捨てていったこと。

放置すれば死ぬかもしれないとわかっていて、それでも置き去りにして逃げたこと。



俺が情報屋になった本当の理由、教えてやろうか?

アンタに会いたいからだよ。


ずっと昔から、いつかまたアンタに会うためにって、そのために頑張ってきたんだ。

仕事の片手間、空いた時間を見つけては、アンタの所在を知る手掛かりがないかしょっちゅう調べてた。


また、昔みたいに、頭を撫でてくれよ。

棒のように細い腕で抱きしめてくれ。

俺の名を呼んでくれ。


母さん。

いつになったら貴女は、どれだけ待てば、俺を迎えに来てくれるんですか。

俺を捨てた訳を、教えてくれるんですか。



貴女のおかげで。

アンタのせいで。

俺はこんなにも醜く成長してしまった。

これじゃあただの(けだもの)だ。


愛してほしい。誰か。はやく。

じゃないと俺は、孤独を衝動で埋めてしまうから。

誰かを傷付けて、自分を癒そうとしてしまうから。



誰か。

止めてくれよ。俺を。

俺の、息の根を。



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