Episode:シャオライ・オスカリウスの根源
「ほら、見ろよピアソン。なかなかの上物だろ?
全く惜しいよなぁ。売りに出せばそこそこの値がついただろうに。
だが、病気持ちじゃあ商品になんねえしな」
ポマードでギチギチに固められた金髪から、肥溜めより鼻が曲がりそうなキツいコロンの香りがする。
こいつの悪臭は今に始まったことじゃないが、こうして顔を近付けて話されると、趣味の悪いコロンと酷い口臭とが混ざって、まともに会話を続ける気にならねえ。
こんなナリでも一応は幹部の一人だというし、これでも身嗜みには気を遣っているつもりなんだろうが。
残念ながら、その努力は悪い方向に働いてしまっているようだ。
「どうする?ピアソン。
どうせ始末しなきゃなんねえガラクタだし、その前に、お前もちっと味見しておくか?」
下品な声。頭の悪そうな顔。
見た感じはそこらのチンピラと大差ない。
けどまあ、こんな貧相な奴でも、上手く立ち回ればそれなりの地位まで手が届くってわけだ。
このビルの管理を任されているということは、こいつと例のなんとかってボスが相当な信頼関係で繋がっているのは間違いない。
少なくとも、ただ力があるだけの奴にはここまで目をかけないはずだ。
どう取り入ったのかは知らないが、一見おつむはパーにしか見えないこいつも、格上への媚びの売り方だけは一級だったってことらしい。
実に、面倒臭い。
中途半端に力を持ってる分ぞんざいに扱うわけにはいかないし、かといってこんな馬鹿とお友達になっても、俺の得になることなんてなにもない。
人付き合いは上手い方だと自負しているし、世渡りの常套手段も心得ている。
思わず目を逸らしたくなるような卑劣を極めた外道や、脳みそ空っぽのチンピラや、アホやバカにももう慣れている。
なのに、何故だろう。
こいつとはもう結構長い付き合いになるんだが、どうやってもこいつとだけは仲良くなれる気がしねえ。
これといって理由はない。
ただ、こいつを見ているとたまに虫酸が走るのだ。
ここまで相性が悪いと感じるのは、多分こいつが初めてだと思う。
「いや、俺は遠慮しとくよ。後はアンタ一人で、ゆっくり愉しんでくれ。
またなにかあれば、いつものアドレスに連絡ちょーだい」
だがまあ、いいさ。今日の仕事はもう済んだんだ。
ただの情報屋の俺に、これ以上ここに留まる理由はない。
さっさと家に帰って、服に染み付いた悪臭を取っ払っちまえば、不快な気分もそのうち消えるだろ。
長居は不用。深入りは厳禁。
面倒事に巻き込まれる前にさりげなくフェードアウト。
それがいつもの俺のやり方だ。
ところが。
アホ面に向かって一言告げ、そそくさと上着に袖を通して部屋から出ようとした時。
ふと、ドアノブに手をかける前に引き留められてしまった。
なんなんだよ。
せっかく気を遣って、邪魔者は退散してやろうってのに。
まだなにかあるのかよ。
「……お前、この後少し時間あるんだろ?だったらちっと見物してけよ。
混ざるのが嫌だってんなら、そこで見ているだけでもいい。ただ一発ヤるだけじゃ、面白くねえからな。
だからたまには、趣向を凝らしてっつーか、な?」
いやらしい笑みを浮かべて、短く喉を鳴らす金髪野郎。
その下には、革のソファーに仰向けになって、そわそわと俺達を見比べる若い娼婦が一人。
……勘弁してくれよ、と。
今にも舌を打ってやりたい気分だったが、本人に直接文句をぶつけられるほど、俺とこいつは仲良しじゃない。
"情報屋ってのは、最初の印象が全てなんだ"
"僅かでも相手に不信感を持たれたら、その時点で、お前は二度とそいつに信用してもらえない"
"他人に心を開くな。弱みを見せるな。感情を読まれるな"
"常に平静でいろ。表情を変えるな。いつも一歩引いたところで留め、必要以上に客を知ろうとするな"
"情報屋として一財産気付くために、最も必要なことは"
阿漕なマフィアやギャングってのは、上手く付き合えば一番商売のやりやすい相手になる。
だが、裏を返せば、たった一度のミスでもすべてが崩壊しかねない諸刃の剣でもある。
手早く儲けられる分、常にリスクが伴ってくる。
目の前にいる奴が死ぬほど気に食わなくても、とっさに噛み付いたりするもんじゃねえ。
腰抜けと言われようが、命あっての人生だ。
結果遠回りになるとしても、わざわざ茨の道を選んで痛い目を見るよりマシ。
故に、
"前からずっとムカついてたんだが、いつもてめえの全身から糞を塗りたくったような酷ぇ匂いがするんだよ"
なんて、口が裂けても言えるわけないんだ。
あくまで、つかず離れずの距離を保ち、深入りはしない。
波風を立てないよう、極力下手に出てやり過ごすのがベター。
他人の人格や品位なんて、気にするだけ時間の無駄。
どんなクソ野郎が相手でも、金を受け取った以上は大切なお客様に違いないのだから。
俺の仕事は、客が欲しがっている情報を仕入れ、流し、そして必要以上に干渉をしないこと。
例え、その先にどれほど非道で、凄惨な結末が待ち受けていたとしても。
俺の行いが原因で、どこかの罪なき善人が不幸に見舞われるハメになったとしても。
他人がどうなろうと、知ったことではない。
俺と関係のない人間は、俺と関係のない場所で勝手に果てればいい。
俺は情報屋。
我が身可愛さに人を陥れ、平気で誰かの人生を破滅させる。
良心が咎めるなんて感覚は、とっくの昔に麻痺したはずだ。
「俺の気が向けば、このまま殺さずに逃がしてやってもいいんだぜ?
一応はそれで飯食ってきたんだから、男の悦ばせ方はよく知ってるだろ」
男の荒い息遣いが、女の悲鳴にも似た嬌声が、煙草の煙が立ち込める部屋に充満する。
必死に媚びて、体をくねらせ、甘えた声で男にねだってみせる女の顔には、殴られた跡がある。
ここに連れてこられる前にも、相当痛めつけられたんだろう。
渇いた唇は嘘しか言えず、死んだ魚のような目は光を映さない。
全身傷だらけで、体を起こすだけでも辛いはずなのに、それでも彼女は懸命に腰を回し続ける。
反吐が出そうだ。
こんな、死にかけの女を脅して、芝居をさせて。
それでこいつは満足なのか。
感じている"フリ"の上手い女を無理矢理抱いて、アンタは本当に楽しいのかよ。
「あーあ、ったく。
あんまり引っ付いてくるもんだから、俺の大事なシャツに汚ぇ血が移っちまったじゃねーかよ。
……弁償だ、弁償」
"この服はな、お前一個の命より、ずっと価値があるもんなんだよ"
そう言って用を済ませた男は、下ろしたスラックスを履き直すと、笑いながら女の頭を撃ち抜いた。
一瞬の出来事だった。
やめてと叫ぶ隙もなく、涙を流す間もなく。
44口径マグナムに至近距離から眉間を貫かれた女は、力無く床に転げ落ちて、ごろんと俺の方に死に顔を向けた。
女の銃創からじわじわと広がってきた血溜まりは、音もなく俺の靴先に触れると、そこから枝を伸ばすように冷たい床を這っていった。
「チッ。豚の分際で俺のオフィスを汚しやがって。
……で、どうだよ、ピアソン。こいつはもう使い物にならねえから処理したが、他にもウチで囲ってる女は掃いて捨てるほどいる。
お前が相手なら、俺の口利きで特別に安くしてやるし、抱くなり殴るなり、仕事に利用するなり、買った後は好きなように使ってくれていい。
ま、そこらの女よりずっと美人なお前なら、俺の施しなんざ必要ねえかもだけどな」
男が部屋の外に向かって一声かけると、控えていた部下が二名、ぬっと中に入ってきた。
彼らは手慣れた様子で女の死体を運び出すと、何事もなかったように再び外へ出ていった。
既に死んでいるとはいえ、それはとても人間に対する扱いとは思えないものだった。
いや、目の前にいるこいつの場合、まだ息があった内から彼女を人と認識していなかった。
下手をしたら、生き物とすら思っていなかったかもしれない。
中国には、人間が多過ぎる。
男の言葉を借りるなら、それこそ掃いて捨てるほどに。
今もどこかで生まれる者がいて、死んでいく者がいる。
俺が目にしている光景は、所詮、そのうちの一つでしかないのだろう。
人の命とは、人生とは、空しいほどに、あっけのないものだ。
そんなことはとうの昔に知っている。
俺だって、いつ急に命を落としてもおかしくなかった。
まともに飯を食えるようになった今だって、綱渡りのような毎日だ。
職業柄、人の生き死にには過去に何度も関わってきた。
死体を目にすることなんてザラ。時には絶命の瞬間に立ち会うこともあった。
なのに、俺は生きている。
この差は一体なんなのだろう。
この世界では誰が生き延び、誰が死ぬのか。
その分かれ道とは、一体どこで決定されるのか。
女は娼婦だった。
親もなく、寄る辺もなく、たった一人でも生きていくために、やむなく裏の世界へと飛び込んだ。
ここまでは俺と同じだ。
なら、彼女と俺と、なにが違うというのか。
何故彼女は死に、俺は生きている。
俺やこいつのような悪人が運良く生き延びて、罪のない善人が簡単に死ぬ世界。
さっきの女は、ただの善人と呼ぶには少し汚れていたかもしれないが、それでも確かに人間だった。
俺だって、そうだ。
こいつと違って直接手は出さないが、結果的に人の命を奪ったことはある。
奪う者と、奪われる者。
決定する者される者。
どこで決まる。なにが違う。
どうせ死ぬ運命ならば、人は何故生まれる。
「なあピアソン。俺とお前の仲だろ?
これからも、お得意様の俺のために、贔屓してくれるよな?」
俺は無神論者だ。
右も左もわからない餓鬼の頃に、この世に神なんてものは存在しないのだと気付かされた。
だが、こんな時はどうしても。
神様ってやつは実に理不尽で、酷いやつなんだと。
この世の納得いかない全てのものを、目に見えない不確かな存在に、押し付けてしまいたくなる。
「今更なに言ってんだよ。
金払いさえきっちりしてくれれば、俺はいつまでも、アンタの味方だ」
情報屋として一財産気付くために、最も必要なことは。
違う。
情報屋として生きていくために、最も必要なこと。
それは、
人間らしさを捨てること。
つまり、人をやめることだ。




