Episode-3:マナ・レインウォーターの離愁
「ねえマナ。私、あなたにずっと、内緒にしていたことがあるの」
夏のある夜のことだった。
休日に二人で出掛けた帰り、いつものようにチェルシーを自宅まで送り届けていると、道中に彼女がぽつりぽつりと語り出した。
急なことでボクは驚いたけれど、その時のチェルシーがいつになく暗い様子だったので、これはただ事ではないとすぐにわかった。
そこでボク達は、通りにある小さな公園で一旦足を止め、ブランコの真ん中に並んで座った。
辺りには他に誰もいなかった。
たまに自動車が公園の前を横切って行ったけれど、その日は特に静かな夜だった。
「前に、マナが大学楽しい?って聞いてきた時、私、うんって答えたけど……。本当は、違うの。
私、マナに嘘、ついたの」
細い声でそう言うと、チェルシーは長いスカートの裾をめくって靴下を下ろし、隣に座るボクに向かって怖ず怖ずと左足を差し出してきた。
露になった彼女の足をよく見てみると、白い肌の至るところに赤黒い変色の跡が点々と残っていた。
その跡は、ただの痣じゃなかった。
なにか、固いもので強く叩かれたような感じで、どう見ても自然に負った怪我じゃなかった。
「私、昔からずっとこうなの。中学の時も、高校の時も。そして今も。
やり方はみんな違ったけど、私を見る目だけは、みんな同じだった」
チェルシーはいじめられていた。幼い頃から、ずっと。
当初は、ただ無視をされたり、持ち物を隠される程度の意地悪で済んでいたが、学年が上がる毎に行為はエスカレートしていった。
今じゃ、直接暴力を振るわれることも珍しくなくなった。
最初の相手は、クラスの女の子。
なにが気に食わなかったのか、突然チェルシーに対してのみ態度が横暴になった。
やがて、取り巻きの子達も従わせて、集団で彼女をいじめるようになった。
その次は、高校の一学年上の先輩。
わざわざいじめっ子のいない高校を選んだのに、新しい環境でもまた新たないじめが始まった。
そして、大学生になった今も、状況はさほど変わらず。
ずっと同じ人物に付き纏われているのではなく、チェルシーは行く先々で別の敵を作ってしまうようだった。
それを彼女は自分のせいだと思い込み、誰にも相談できずに一人で抱え込んできたという。
学友はおろか、心配する家族にさえ秘密にして。
"ねえチェルシー、どこか具合が悪いの?"
"え?……そんなことないよ。どうして?"
"なんか、浮かない顔してるから。
血色もあまり良くないみたいだし、前会った時より、ほら。ほっぺの辺りとか窶れた気がする。
本当はどこか悪いのに無理してるんじゃない?"
"大丈夫よ。今朝は少し気圧が低かったから、多分そのせい。
いつものことだから気にしないで"
"本当に?辛い時は、ちゃんと言うんだよ。友達なんだから"
しかし先日、これまでにないほど激しい暴力を振るわれ、疲弊しきった彼女の胸にある懸念が過った。
右肩上がりに過激さを増していくいじめ行為。
次第に憔悴していく自分の体。
このままでは、たった一人の友に自分の闇を看破されてしまうかもしれない、と。
だから、そうなる前に、余計な心配をかける前に、こうしてボクに打ち明けた。
でなければ、ボクはずっと彼女の苦悩を知らないままだったかもしれない。
「本当は、もうちょっと我慢するつもりだったんだけど。
マナは鋭いから、多分、私が隠しても気付くんだろうなって、思って。
……ずっと黙ってて、ごめんね」
その話を聞いた時、ボクは全身の血が沸騰しそうだった。
確かに、チェルシーは少し変わったところもあるかもしれない。
けどそれは彼女のせいじゃないし、彼女は悪くない。
例え、きっかけのような出来事が前にあったのだとしても、だからと言って傷付けていい理由にはならない。
チェルシーは、とても頭のいい子だ。
偏差値の高い大学に通っているのだから当たり前のことだけど、彼女はただ勉強ができるだけの頭でっかちじゃない。
聡明で、いつも頭の中では色々なことを考えてる。
人の悪口なんて言わないし、周りのことによく気を配っている。
本来なら好かれるべき人なのであって、自分から敵を作るような子じゃないんだ。
ボクは、キャンパスで過ごしている時のチェルシーを知らない。
だから、彼女といじめっ子達の間になにがあったのか、ボクにはわからない。
でも、大体の想像はつく。
きっとみんな、彼女に嫉妬しているだけなんだと。
これといって嫌う理由などなくとも、有能な彼女が妬ましくて、そんなことをするんだ。
悪戯をするくらいの軽い気持ちで。
なんて、ひどいことを。
チェルシーは悪くないのに。
どうしてこんな、彼女ばかり辛い思いをしなくちゃならない。
全身傷だらけで、それを隠すために、夏場でも丈の長い服を着て。
どうして、被害者の彼女ばかりが、こんな犯罪者のような思いをしなくちゃならない。
"いつもありがとう、マナ。
……友達って、いいね"
ずっと、気が付かなかった。
こんなに近くにいたのに。誰より長く、側にいたのに。
理不尽に彼女を虐げる奴らには、今にも腸が煮え返りそうな思いだったけれど。
同時に、ボクは自分自身にも腹が立った。
「チェルシー。ボクに、そいつらの名前と、住所と、家族構成を教えて。
力づくでも、自分達がしたことの重さを、愚かさを、ボクが代わりに思い知らせてやる」
勢いよく起き上がったボクは、チェルシーの目の前に立って、ブランコのチェーンをきつく握り締めた。
こちらを見上げる彼女の目には、薄い涙の膜と動揺の揺らめきが重なっていた。
「え…。だ、駄目だよ、そんな。マナにそんなことさせられない。
自分からこんな話したくせに、なんだけど。マナのことを巻き込みたくないの。あなたまで苦労することないわ」
「……っ巻き込むとか巻き込まないとかじゃなくて!ボクは、そいつらのことが許せないから、だから、どうにか仕返ししてやりたいんだ!
…ボクにだって、関係のあることだもん。チェルシーが苦しいと、ボクだって苦しいんだ。
このまま、君だけ辛い思いをしてるのを、ただ見ているだけなんて。ボクにはできないよ、チェルシー」
するとチェルシーは、泣きながら小さく笑って、今のあなたの言葉だけで十分救われたと言った。
だから、他にはなにもいらないと。
どうして、こんな時まで笑おうとするんだ。
青白い顔で、赤く腫らした目で、それでも無理矢理に笑顔を作ろうとするんだ。
たまらなくなったボクは、思わず彼女を抱き締めた。
せめてボクの前でだけは、自分に正直でいてほしいと願いを込めて。
「……ま、な」
この時、耳元で濡れた声が響いたと同時に、ボクははっきりと自覚をした。
君と出会ってから、ボクは今まで以上に毎日が楽しかった。
なのに、たまにもやもやして、体が宙に浮いているような、ふわふわとした感覚が時折伴うようになった。
この感じが一体なんなのか、ずっとわからなくて戸惑っていたけど、今やっと気付いたよ。
君の笑顔を見ると嬉しくて、君の涙を見ると悲しいのは。
ボクが、君のことを好きだからなんだ。
「チェルシー。実はボクも、君に、ずっと秘密にしていたことがあるんだ」
君が勇気を出して話してくれたから、ボクも君に告白するよ。
ボクは、本当は、男の子じゃないんだ。
孤児院で暮らしていた時、周りがみんな男の子ばかりだったから、自然とボクもそんな風になっただけなんだ。
でも、ボクは男じゃない。
男になりたいって思ってるわけでもない。
ただ、性別とか振る舞いとか、そういうのにあまり頓着がないだけの、ただの女なんだ。
騙すつもりはなかったんだ。
でも、君はボクのことを男だと思っていて、ボクもあえて、それを訂正しなかった。
実は女なんだってことを明かしたら、君とは多分、ただの友達にしかなれないと思ったから。
友達以上の関係には、きっと発展できないって思ったから、躊躇ったんだ。
「ボク、チェルシーが好きだよ。初めて会った時から、君はなんだか特別だった。
本当はずっとわかってたんだ。これはきっと、恋なんだろうってこと。
でも、今までそういう意味で、誰かを好きになったことなんてなくて。……しかも、初めて好きになった人が、同性だなんて、信じられなくて。
ボクはどこかおかしいのかなって、何度も思った。
君はボクを、純粋に友達だって思ってくれてるのに、ボクは、違って。
君と違うものになるのが怖くて、気付かないふりをしたんだ。
でも、ごめんね。チェルシー。ごめん。好きなんだ。
君の笑顔がかわいくて好きだ。マナって呼んでくれる君の声が好きだ。優しくて、寂しくて、頑固でドジなとこも全部好きだ。
だから、ボクは君を守りたい。どうすれば君を助けてあげられるのか知りたい。君の力になりたい。
ねえチェルシー。ボクは君のために、なにができるだろう」
頭の中がぐちゃぐちゃで、今自分がなにを言っているのか、自分でもわからなかった。
ただすごく胸が苦しくて、熱くて、立っていられなくなって。
最後には、ずるずると膝から崩れ落ちて、その場にしゃがみ込んだ。
チェルシーが辛い時に、ボクまで泣いちゃいけない。
思わず溢れそうになった涙は、ぐっと下唇を噛んで我慢したけれど、あともう少しでも感情が揺れたら、たちまち何かが決壊してしまいそうだった。
「……私、知ってたよ。あなたが本当は女の子だってこと。
気付いたのは仲良くなってからだけど、マナはきっと、女の子扱いされるのが苦手な人なんだろうなって思ったから、私もなにも言わなかった。
……マナ、私もあなたが大好きだよ。
これまではずっと、友達として大好きだったけど。今のあなたの言葉を聞いて、私にもそれ以上の感情があることがわかった」
丸まったボクの体を、チェルシーは包み込むように抱きしめてくれた。
その体温は仄かに温かくて、ボクの髪を撫でる指先は微かに震えていた。
「……気持ち悪く、ないの?」
「まさか。むしろ、とても嬉しい。
こんなに、誰かに好きだって言ってもらったこと、ないから。
私なんかを好きになってくれて、ありがとう。マナ。
あなたに出会えて、私、最高に幸せだわ」
本当は、まだ少し怖い。
チェルシーは優しいから、ボクの本心を知っても拒絶はしないだろう。
でも、結果はどうあれ、もう後戻りはできなくなる。
想いを吐露している間は気持ちが高ぶっていたから、他になにも考えずにいられた。
その代わりに、言い終えて短い沈黙が流れた途端、後悔しかけた。ついに言ってしまったと。
成就するかどうかなんて考えている余裕はなかった。
ただ、今まで通り友人として付き合うことも、もうできなくなるかもしれないという過りばかりが、瞬く間に胸の内で網を張った。
勢いに任せて告白したはいいが、本当にこれで良かったのか。
時期尚早だったのではないか。生涯伝えるべきではなかったのではないか。
知りたいけど、知りたくない。
チェルシーの気持ちを見るのが、怖い。
気になるけど、返事がノーなら、聞きたくない。
「ボクは恋をしたことがないから、自分のセクシャルがなんなのか、まだわからないけど…。
……チェルシーはその、同性愛の人、なの?」
「……悪くとらないでほしいんだけど、その答えはノー、かな。
初恋の相手は男の子だったし、今でも、かっこいい男の人を見てときめいたりするから。
だから、多分レズビアンではない、と思う」
「じゃあ、」
「もう、悪くとらないでって言ったでしょ?
初恋の相手は男の子でも、両思いになれた人は、あなたが初めてなんだから。
……これからどうなるのか、全然不安じゃないって言ったら嘘になるけど。でも、マナと二人でなら、乗り越えていけるって思えるの。
男とか女とかじゃなくて、私はマナを好きになったから。
マナだって、私が女だから好きになったわけじゃないんでしょう?
だから、私達なりの付き合い方を、これから一緒に考えていこうよ」
ボクの顔を両手で持ち上げ、チェルシーは微笑んだ。
今度は作ったものじゃなく、心からの自然な笑顔だった。
その時の彼女の姿が、急に大人に見えて。
ボクは、また自分の体温が上がったのを、心地好く感じた。




