Episode-2:マナ・レインウォーターの離愁
「あ、ニコ。おかえりなさい。今日もお仕事お疲れ様。
晩御飯できてるけど、先にお風呂にする?」
そして、ニコライとの出会いから9年後。
ボクは無事に、地元の高校に進学することができた。
その頃には、教会の暮らしにもすっかり慣れ、ニコライとは最早、実の親子以上に堅い絆で結ばれているという実感があった。
そんなニコライに対し、ボクは今からでも少しずつ恩返しをしていこうと、中学に上がった時期から彼の身のまわりの世話を買って出るようになっていた。
教会で訪問を待つだけでなく、こちらからも積極的にニコライのもとを訪ね、仕事で忙しい彼のために代わりに家事を済ませてやったり。
頼まれるまでもなく、率先して雑用をこなした。
今はまだ、これくらいのことしかできないけれど。
いつかボクが大人になったら、彼のような優しい人間になりたいと常々思っていた。
彼のように、世界の恵まれない子供達のために寄付をしたり、困っている人がいたら迷わず手を差し延べられる人間に。
「マナ。君の存在が、僕の人生に輝きをくれた。
君をこの世に齎してくれたこと、天にまします我らの父に、感謝します」
ある日ふと、そのことを本人に話したら、ニコライは泣いて喜んでくれた。
実の家族とは遠く離れ、近頃は恋人もなかった寂しい日々を、君という存在が埋めてくれたのだと。
涙ながらに、ボクのことを宝物だと、言ってくれた。
勿論、ボクにとってもニコライはかけがえのない存在だった。
だから、ニコライの心に触れられたことが嬉しくて、その日は二人一緒に、温かい気持ちで泣けたんだ。
「そろそろ、君にも真実を話す時が来たようだ」
そしてボクは、ようやく自分のルーツを知る時を迎えた。
いつになく真剣な顔で語ったニコライは、ボクに真相を明かすことをずっと憚っていたようだった。
けれど、ボク自身はそのことにあまり心を痛めなかった。
当然ショックだったし、何故ボクは捨てられたんだろうと、悲しくて許せない気持ちになった。
でも、それと同じくらい、ニコライの優しさを改めて知ることができたから、傷も浅く済んだんだ。
以前ニコライは、ボクの本当の両親のことを不慮の事故で亡くなったのだと話していた。
だから、ボクが一人ぼっちになってしまったのは、悲しいけれど仕方のないことだったんだと。
でも、それは優しい嘘だった。
一人で秘密を抱え込むのは辛かっただろうに、ニコライは何年も機会を待ってくれたんだ。
ボクがある程度大人になって、現実をしっかり受け止められるようになるまで。
「ありがとう、ニコ。でも、ボクはもう大丈夫。寂しいけれど、辛くないよ。
今のボクは、とても幸せだから。むしろ、こうしてあなたと巡り会わせてくれた両親には、感謝したいくらいだ」
お互いに、知らないことはもうなにもない。
ボクらはもう、本物の家族だ。
これからは、ボクがあなたのことを支えていくから。
時間をかけてじっくりと、あなたへの感謝を、愛情を、伝えていくからね。
だからどうか、これからもずっと。
こんな穏やかな日々が続いてくれますように。
あの頃のボクが願うのは、本当にそれだけだった。
ーーーーー
それから更に時は過ぎ、高校二年に進級すると同時に、ボクは教会を出て一人暮らしを始めた。
どうしてこんな半端な時期に、とシスターや孤児院の仲間からは不思議がられたけど、別に教会から出たかったわけではない。
ただ、アルバイトで貯めた資金が纏まってきたのと、最近孤児院で預かる子供の人数が増えたから。
だからここは、手のかかる小さい子を優先して、ボクくらいの年齢のやつは可能なら独り立ちするべきと思ったんだ。
勿論それは義務じゃないし、原則として18歳までは置いてもらえる。
だからこれは、ボクが勝手にやったこと。ボク自身の意思だ。
引っ越し先については、この際だからニコライの家に転がり込む、というのも一つの手だと最初は思ったが、そうすると彼の周りの人達からとやかく言われそうだったので、やめた。
最終的には、懐具合と相談して安いボロアパートメントに決まってしまったが、質素な暮らしには慣れているから、少し狭いくらいの部屋でボクには丁度良かった。
「ご、ごめんなさい!ぼーっとしてて、あの、ぉ、お怪我はありませんか?!」
学業とアルバイトとを両立させ、その上一人暮らしともなると流石に忙しかったが、元々体力には自信があったし、さほど苦に感じることはなかった。
それに、教会にいた頃と違って、好きな時間にニコと会ったり、電話したりできるようになった。
それがとても開放的で、大変だけど充実した日々だと思えた。
「あ、いいえ。ボクは平気です。
そちらこそ、どこか痛めたりしてませんか?」
そんなある日のことだった。
急遽アルバイトがお休みになり、午後からの時間を持て余したボクは、気まぐれにちょっと遠くまで買い物に出掛けた。
そこで、思わぬ出会いをした。
買い物の帰り、たまたまキャンパスの前を通り掛かると、突然死角から若い女性が現れたのだ。
とっさのことで反応が間に合わなかったボクは、避けきれず彼女とぶつかってしまった。
彼女はこの大学の生徒のようで、なにやら大きな段ボール箱を両手に抱えていた。
恐らく、そのせいで前が見えなかったのだろう。
ボクと衝突した拍子に、彼女の抱える箱から何枚かの書類が舞い上がって、ボクと彼女は互いに謝りながら、落ちた書類を一緒に拾った。
「あ、ありがとうございます。助かりました。
……えっと。お荷物の方はご無事でしょうか?」
「ああ、大丈夫です。全然。壊れやすいものは入ってないから。
というかあの、それすごく重たそうですけど…。そっちこそ大丈夫じゃない、ような」
思えばそれが、ボクにとって二度目の、運命の出会いだったのかもしれない。
ボリュームのある長い黒髪に、レンズの分厚いボストン眼鏡。
白シャツにブラウンのカーディガン、ロングスカート、底の磨り減ったローファー。
今時の若者にしてはかなり控えめな格好をした彼女は、名をチェルシー・カルメルといった。
現在は、フランスから留学中の大学一年生であるという。
あの後、彼女の荷物運びや書類整理を手伝ってあげた時に、本人がそう話してくれた。
「本当にありがとうございました。見ず知らずの私にこんなに親切にして頂いて……。
お礼になにか、飲み物でもごちそうさせてもらえませんか?」
これをきっかけにボクらは知り合い、たまに二人でお茶をしたり、彼女がボクの勤務先のバーガーショップに顔を出したりするようになった。
「この間は本当に驚いたわ。なんだか怖そうなお客さんが入ってきたなと思ったら、いきなり店長さんにつかみ掛かっていくんだもん。
マナくんがいなかったら、揉み合いになって怪我人が出ていたかもしれないね」
「まあ、ああいうタイプのお客さんはどこの店にもいるものだからね。
暴力沙汰になりそうな時は、いつもボクが対応することになってるんだ。スタッフの中で武術をかじった経験のあるやつなんて、ボクくらいしかいないから」
「あれはかじったどころじゃなかったわ!マナくん、すごく強かったもん。
育てのお父様に指南してもらったんだよね?刑事さんの」
「そう。銃の扱い方なんかも一通り教えてもらった。
訓練の時はいつも厳しかったけど、おかげで役に立つことも多い。
今のボクがあるのは、みんな彼のおかげなんだ」
ちょっとドジで、たまに天然なところがあるけれど、親しい相手にはよく笑顔を見せてくれて、他者に寄り添う思いやりがある。
少しずつ、チェルシーがどんな子なのか知っていくのが嬉しくて、気付けば互いをファーストネームで呼ぶのが当たり前になっていた。
こんな風になんでも、思っていることを素直に話せる相手は、今までニコライの他にはいなかった。
「おやすみなさい。明日もマナに良いことがありますように」
そうだ。ボクは彼女に惹かれていたんだ。出会った時から。
理由はよくわからない。
ただ、チェルシーとボクはなんとなく似ている気がしたから。
初対面から、強いシンパシーを感じていたんだ。
温厚で優しい笑顔の裏に、なにか、とても寂しく、暗いものを隠しているようで。
いつも一人でいて、たまにぼんやりと空を眺めている姿が、とても儚いものに見えて。
ボクが掴まえていないと、ふわふわとどこかへ飛んで行ってしまいそうだったから。
いつの間にか、ほっとけないって思うようになっていたんだ。
"あら、デザートの苺が一つ余ったわね。
じゃあ、ここは小さいマナとノアとで相談して決めましょうか。二人とも苺は好きよね?"
"好き!マナ、どっちが食べるかコインで決めようよ!ぼくが表でマナが、"
"ボクはいいよ。ノアが食べて"
"えっ、いいの?マナも食べたいでしょ?"
"いいの。もうお腹いっぱいだから。ノアにあげる"
"みんな見て!こないだ絵本を寄付してくれた人がいたんだって!
たくさんあるから、みんなで順番に読もう!"
"じゃあオレこれにする!"
"あ、ぼくもそれがいい"
"待った待った。みんなで代わり番に見るんだよ。
マナは最初にどれが読みたい?"
"ボクはどれでもいいよ。余ったやつ"
"マナ、聞いたよ。昨日もみんなが取り合ったものを譲ってあげたんだってね。
譲り合いの気持ちは確かに大事だけれど、時には欲しいもので喧嘩したっていいんだよ?"
"いいんです。ボクは自分が独り占めするより、みんなが楽しい方がいいから"
ボクはずっと、無関心な人間だった。
たまには、面白そうだなって思うものもあったけど、どうしても手に入れたいほど執着したものは一つもなかった。
友達も何人かいたけど、この人がいないと駄目だってくらい、深い情が芽生えた相手はいなかった。
ボクにとっての唯一は、ずっとニコライだった。
ニコライだけが大切で、ニコライさえいてくれれば、他にはなにもいらなかったんだ。
なのに、チェルシーは違う。
チェルシーは特別で、彼女に対してだけは、他とは全く別の感情が湧いてくる。
他人にこれほど興味を抱いたことも、執着を覚えたことも、今まで一度もなかったはずなのに。
彼女を知れば知るほどに、ボクの体は未知の感覚に飲まれていった。




