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オルクス  作者: 和達譲
Side:THE PAST
62/326

Episode:マナ・レインウォーターの離愁





ボクは、親に捨てられた子供だった。


アメリカ、メリーランド州。ボルチモアの住宅地。

そこの薄暗く湿った路地の一角に、当時まだ一歳ほどだったボクがいた。


不法投棄のガラクタや、異臭を放つ生ゴミなどに囲まれて、まさしくゴミのように投げ捨てられていたボクは、夜通しひたすら泣き続けていたという。


それは親に捨てられた不幸を嘆いていたのか、それとも自分の存在に誰か気付いてくれと訴えていたのか。


赤ん坊だった当時の記憶は、ボクにはない。

けれど、大声で叫び続けていたボクは、最後には涙を流すこともなく、ただ懸命に声を張っていたらしい。



そのおかげもあって、たまたま声を聞きつけた通りすがりの人が、ボクを見付けてくれた。


ボクを暗闇から救い出してくれた人の名は、ニコライ・レインウォーター。

歳はその頃30代半ばほどで、ブラウンの髪に困ったような下がり眉が印象的な、優しい風貌の白人男性だった。


当時は、休暇で友人の家にお邪魔していた時期だったそうで、偶然ボクを発見したことに誰よりも驚き、誰よりも悲しんでくれていたという。



後にボクは、一時的な措置として現地の警察に保護されたが、本格的な捜査が始まってもボクの両親が見付かることはなかった。


DNA鑑定などの調査により、一応ボクを生んだ人達の素性は判明した。

だが、彼らは以降も名乗り出ることなく、知らぬ存ぜぬを通して行方をくらまし続けていたという。


故にボクは、誰の子であるか明らかであったにも関わらず、誰にも望まれない子供として、この世に存在していたのだ。



「参ったなぁ…。帰化済みとはいえ、元は外国人の子なわけだろう?

過去に似たパターンってなかったのか?」


「一応はあったみたいですけど、それにしても珍しいケースですからね。

まあ、両親共国籍はアメリカってことなんで、普通に施設行きが妥当なんじゃないですか?」


「そうか……。孤児を扱うのはこれが初めてじゃないが、どこの国にもいるもんなんだな。子供を捨てる親ってのは」



日系人の血が流れているという事実がそこにあるだけで、ボクの両親にあたる人達がどんな人間であるのかも、彼らが何故(なにゆえ)にボクを捨てていったのかも。

ボク自身が何者であるのかも、なにもわからなかった。


やがて、詳しいことは不明のまま、ボクは身寄りのない孤児の一人としてカウントされた。


行く当てがない以上、やはり街の施設に預けるか、今からでも引き取ってくれる里親を探すか。

言葉を操れない赤子に決定権などなく、ボクは、大人が勝手に決めたレールの上に乗る以外なかった。


そう。

ボクの運命はその時、二つの道に分かれたはずだったんだ。


けれど、予想外の展開が起きて、最終的には二つの内のどちらにも当て嵌まらない結果となった。



「あの…。もうしばらくは里親の募集もかけるんですよね?

だったら僕も…。僕が、この子の保証人になるっていうのは、無理でしょうか?」



第一発見者であるニコライが、ボクの保証人になりたいと自ら志願してくれたのだ。


本当はボクを引き取って自分の手で育てたかったらしいが、ニコライは独身だったため、独り身の男に幼い子供を預けるのは倫理上難しいとのことだった。


だからせめて、一緒には暮らせずとも、親代わりとしてこの子の成長を見守ってやりたいと。

補助金目当ての心無い輩に目を付けられる前に、早く彼女を安全な場所へと、彼は言ってくれたそうだ。


動機はきっと、ボクの境遇を不憫に思った同情心からだったんだと思う。

でもボクは、結果的に二度も、彼に命を救われたんだ。



「やあ、初めまして小さなプリンセス。君のことは古い友人から聞いているよ。

私達は皆家族。血脈こそ(たが)うが、とても固い絆で結ばれた家族だ。

そして君も、今日から我々の一員になるんだよ。

大きくなったら、君はどんな色を好きになるのかな」



ボクの保証人として正式に認められたニコライは、その後休暇を終えると同時に、ボクを連れて地元のペンシルベニアへと戻った。


ボクは、彼の住まいから程近い古い教会に預けられ、そこにいた他の孤児達と共に新しい生活をスタートさせた。


自分の出生の事情なんて全く覚えていなかったボクは、孤児院で唯一のアジア系として、慎ましくも穏やかな日々を送った。



だが、あれ以来、何故かニコライは一度も面会に来なかった。


理由はわからない。

教会宛てに手紙をくれることはあっても、直接ボクに会いに来ることはなかった。


手紙の文面からわかったことといえば、彼が街の刑事をやっているということと、彼と神父様が顔馴染みで、この教会とは縁があるということくらいだった。


それも、特定の誰かに向けて差し出されたものではない。

内容はいつも当たり障りのない日常のことばかりで、自分のことについてはほとんど書かれていなかった。


だから、子供だったボクには、ニコライという人物像がまるで見えてこなかった。

昔は彼のことを、ただの気のいい近所のおじさんくらいにしか、思っていなかったんだ。



「マナ、この人がニコライさんよ。

詳しい話は直接教えてもらった方がいいだろうから、二人で一緒にお昼ご飯を食べてくるといいわ」



それから、五年後の春。

六歳になったボクの前に突如現れたニコライは、そこで初めて自分の正体を明かしてくれた。



「初めまして、マナ。僕の名前はニコライというんだ。

会えてとても嬉しいよ」



この教会に毎月欠かさず寄付をしてくれていること。

庭に植えてある花のほとんどが、彼から寄贈されたものであること。


そして、親のいないボクのために、保証人になってくれたこと。

ボクにマナ・レインウォーターという名前を与えてくれたこと。

なにも持っていなかったボクに、帰る場所を、友達を、未来をくれたこと。



教会付近にあるファミリー向けのレストランで、向かい合って一緒にパフェを食べながら、ニコライは子供のボクにもわかるようにかみ砕いて訳を話してくれた。


ボクは、ニコライの言葉全てに心底驚いて、話を聞いている間ずっと開いた口が塞がらなかった。


以前から時折、子供達への手土産を持参して教会を訪れ、神父様と少しだけ話をして帰っていく男がいたのを知っていた。

だがまさか、彼こそが噂のニコライその人だったとは思わなかったのだ。



「話はシスターさんから聞いてると思うけど、こうしてちゃんと会うのは初めてだから、やっぱり緊張しちゃうよね。

ごめんね」



その時ボクは、幼いながらに恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちになったのを覚えている。


だって、自分を守ってくれている人が、自分のためにこんなに頑張ってくれている人が、すぐ近くにいたのに。

なのに、自分はそのことにちっとも気付かず、ちゃんとお礼を言うこともしてこなかったと。



でも、同時にこうも思ったんだ。


どうにかして、彼に恩返しがしたい。

最初にボクを見付けてくれた人がニコライで、本当に良かったと。



「お礼…?あはは。君はまだ幼いのに、立派な心掛けだねえ。感心するよ。

けど、そんなこと気にしなくていいんだよ。全部僕が望んでやったことなんだから。君が元気に過ごしているなら、それだけで十分さ。

……でも、どうしてもと言ってくれるなら、そうだな」



"これからは、たまにで構わないから、僕とも遊んでくれるかい?"


改めて、ニコライに感謝の気持ちを伝え、自分がお返しにできることはないかと尋ねた時、彼はそう答えた。

ボクの父親にではなく、対等な友人になりたいのだと。


当時のボクは、その言葉の意味を半分も理解できなくて、せっかくの機会なのに、そんななんでもない頼み事でいいのかと不思議に思った。


けど、その時のニコライがとても嬉しそうで、本当にそれを望んでいるように見えたから、ボクも腑に落ちないながら納得することにしたんだ。



「ニコライさん、今日はどこへ行くの?」


「今日はね、少し遠出をしてみようと思うんだ。

友達から有名な劇のチケットを貰ったんだけど、マナはお芝居って興味あるかい?」


「おしばい……は、よくわかんないけど。ニコライさんが面白そうって思うなら、ぼくも観てみたいと思うよ」


「よかった。じゃあ決まりだね。

さあ、はぐれないように手を繋いで。帰りはジャパニーズレストランで晩ごはんを食べて、流行りのお菓子屋さんでみんなへのお土産を買っていこう」



その日から、ボクとニコライは友達になった。


週に一度は教会で会って、月に一度は二人で食事をしたり、一緒に買い物に出掛けたりして遊んだ。

ニコライが忙しくて教会に来られない時は、手紙でやり取りをして近況を報告し合った。


今まで会えなかった分を取り戻すように、ボクもニコライも二人でいる時間をとても大切に過ごした。

仲良しになるまでには五日もかからず、気付けば一番大切な人として互いの名前を上げるようになっていた。


シスターや神父様は、仲良しのボクらを見て、本当の親子を見ているようだとよく言った。

するとニコライは嬉しそうに、でもちょっと困った顔ではにかんでいた。



「ねえニコ、どうして知らない人にも挨拶をするの?無視されることだってあるのに」


「返事があるかどうかは関係ないさ。ただ、知らない人にも知ってもらいたいだけだよ。マナと僕は仲良しってことをね」


「知ったらどうなるの?」


「どうなるかな。刑事さんの友達ってことで、みんなマナの前ではお行儀が良くなるかも」



ニコライは、ボクになんでも教えてくれた。

学校では教えてくれないようなことも、なんでも。


人との上手な接し方や、辛い時に自分で自分を励ます方法。

知らなくても特に困ることはないけれど、知っていると役に立つ知恵や技術を、時間をかけて丁寧に教えてくれた。


その中でも、特に力を入れて指導してくれたのが、体術だった。

いざという時に自分の身を守れるよう、体術の指導をしてくれる時だけは厳しく、そしていつもより熱心に教えてくれた。


すべてはボクが、一人でも生きていけるようにと考えてのこと。


ボクは孤児で、ニコライは刑事。

お互いに、いつなにが起きるかわからない立場だ。

だから彼は、できるだけ早く、多くのことをボクに学ばせようとしていたのだろう。



「ニコ」


「なんだい?」


「いつも笑ってるね。悲しい時はどうしてるの?」


「悲しい時は、マナのことを思い出してるよ」


「どうして?」


「今どうしてるかな、今日はパプリカを残さず食べられたかな、なんて色々考えてると、いつの間にか胸のもやもやが消えてなくなっちゃうんだ。

だから、毎日寝る前には、必ず君の顔を思い出してる」


「ふーん…。じゃあ、ぼくと一緒だね」


「え?」


「ぼくも、毎日寝る前にニコのことを思い出すから。

そのせいで、夢の中でもパプリカ食べなさいって言われるのは困るけど」


「あはは。夢の中では残したっていいよ」





尋ねれば、彼はなんでも答えてくれた。

常に、ボクのことを頭の隅に置いてくれていた。


ボクは幸せだった。

教会の人達もいい人ばかりだし、ニコライもいる。


例え親がいなくても、ボクは不幸なんかじゃない。

みんなのおかげで、ボクもようやく人並みに笑えるようになったんだ。



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