Episode:ジャクリーン・マルククセラの邂逅
「いくら待っても、白馬に乗った王子様はお前なんか選ばないぞ」
人の一生なんて、生まれた時にほとんど決定している。
どんな親元に生まれ、どういう家庭で育ったか。
恵まれている人間と、そうでない人間。
自分でどちらかを選ぶことはできないし、決定してしまったものを後から覆すこともできない。
私の場合は後者だった。
私は選ばれなかった者だ。
特別な存在にはなれない人間として、私はこの世に生を受けた。
「なんだその目は?お前も俺を悪者扱いしようってのか」
私にとっての平凡は、暴力と不条理でできていた。
銀行員の父と、専業主婦の母の間に生まれた私に、兄弟はいない。
中流階級の三人家族。なんてことはない、ありふれた家庭。
それが私の全てで、私の住む世界だった。
でもそれは、所詮表向きの顔。
内情はカオス以外の何物でもなかったし、我が家には常に、暗く淀んだ空気が流れていた。
「お前、そこの薬局の主人に色目を使ってるらしいな」
「な、そんなことあるわけないじゃない!早合点もいい加減にして!」
「知った風な口を利くな、この淫売が!恥を知れ!」
「あなただっていつも言うことが二転三転するじゃない!なのに私ばかり頭が変みたいに……っ!」
私の父さんと母さんは、互いに憎み合っていた。
母と同じ目をした私を父が殴り、父と同じ髪をした私を母が詰っていたのがその証拠だった。
父さんの暴力は私が生まれる前から続いていて、母さんはそれをずっと耐え続けて、次第に心を病んでいったのだ。
父親がDVのクソ野郎で、母親は精神病を患ったネグレクト。
そんな二人の血を受け継いだ私は、当然どちらからも愛されず、まともに育つはずもなかった。
「やめて、父さん。明日は学校で面談があるから、せめて顔は──」
「うるさい!これは躾だ!お前があの恥知らずのようにならないためにな!」
私が父さんに殴られていることを、母さんはずっと前から知っていた。
でも、母さんが止めに入ってくれたことは一度もなかった。
いつも、目に入っても気付かないふりをして、事が済むまで安全な場所で隠れていたんだ。
自分一人だけで。
私が殴られている間は、母さんはなにもされないから。
父さんの矛先が私に向いている間は、私が痛い思いをするだけで済むから。
だから母さんは、自分の保身のために、私を見捨てた。
あの人は、娘の私よりも我が身が大事で、父さんは、私を人間とすら思っていなかったんだ。
当然痛かったし、苦しかったし怖かった。
いつか仕返しをしてやろうと、胸の内に殺意を漲らせることもあった。
けれど、いつも反撃はできなかった。
反撃に反撃されることが恐ろしくて、私はまともに抵抗をする気力さえ持てなかった。
ここから逃げ出したいと思ったことも、何度もあった。
けれど、もし失敗して、逃げ切れずにまた捕まってしまったらと考えると、どうしても思うように動けなかった。
恐怖という頑丈な枷が、私の痣だらけの足と、この"家"という檻とを固く繋いでいたから。
たとえ意思が芽生えても、それが実現されるなんてことは、絶対に有り得なかった。
「ねー聞いてー。うちの親マジ最悪なんだけど」
「なに、喧嘩でもしたの?」
「喧嘩っつか、こないだ朝帰りしたのがバレたみたいでさー。
今日から門限つけるとか言い出したんだよねー」
「いいじゃんそのくらい。うちはこれ以上成績落としたら小遣い減らすとか言ってんだよ?何時代だっつーの」
「お互いクソ親持っちゃったよねー。誰か取り替えてくんないかなー」
彼氏と喧嘩をしただとか、欲しいゲームを親が買ってくれないとか。
そんな些細な、くだらないことで、自分は不幸だみたいな顔をするクラスメイトを見ると、羨ましくて忌ま忌ましくてたまらなかった。
だったら、私と全部入れ替えてよと。
そいつらに直接言うことはできなかったから、夜お風呂に入っている時に、水面に映る自分の顔に向かって、息だけで叫んだ。
誰でもいいから、ここから出してよ。私を助けて。
けど、いくら叫んでも、私のSOSに気付いてくれる人は誰もいなかった。
何度も何度も求めて、願って。
その度に突き付けられる、不毛という名の現実に、一生分泣いたと思っても、体が蒸発して死ぬなんてことはなくて。
馬鹿みたいと笑ったら、渇いて掠れた声が出た。
「俺が悪いんじゃない。
お前が、俺に、こうさせるんだ」
やがて、私が高校生になった時。
単純に殴る蹴るを繰り返すだけでは物足りなくなったのか、父さんはとうとう私を、無理矢理、犯した。
父親が実の娘を、なんて。
異常だけど、あの人はそもそも私を我が子とも認識していないから、関係ないんだ。
恐ろしくて、とにかく恐ろしくて。
全身が震えて、上手く呼吸ができなかった。
誰か助けてと、頭の中では目一杯叫んでいるのに、実際には喉が引き攣って、声が出なかった。
硬い手に肌をまさぐられる感触も、首筋に吐息がかかる熱も。
全部が悪夢そのもので、必死に覚めようと目を瞑っても、開けばまたそこに父の顔があって、ずっと消えてくれなかった。
嫌だ、なんで、いや。
怖いよ、誰か。母さん。母さん。
力任せにこじ開けられる感覚は、まるで体が真っ二つに裂けてしまったんじゃないかと思ったほど熱くて、痛かった。
揺さぶられる度に途切れる声は、溢れる涙は、虚しさと共に父のベッドへ沈んでいった。
"ジャクリーン、こっちにおいで。一緒にご飯を食べよう"
"さあジャクリーン、今夜はどのご本を読みましょうね"
"ジャクリーン"
"ジャクリーン"
"明日は、なにをして遊ぼうね"
最後に、父の荒い息遣いを胸元に感じながら、ふと顔を背けた時。
偶然目に入ったのは、皮肉にも、まだ私が無垢だった頃の、昔の家族写真だった。
「今夜も、日付を跨ぐ前に部屋へ来い。
無視したらどうなるか分かってるな?」
そんな日々が一年ほど続いたある日、私は気付いた。
最近、生理が来ていないということに。
あの日以来、殴られたり水に浸けられたりすることは少なくなったけれど、その代わりに父さんは、十日に一度の周期で私に乱暴するようになった。
母さんとは相変わらずだったし、他所にそういう相手もいないみたいだったから、ずっと欲求不満だったのかもしれない。
ただ、それとこれとは別の話で。
私のことを物同然に扱うのは当たり前、時には避妊具さえ付けてもらえないこともあった。
だから、いつそうなってもおかしくはないと、以前からずっと不安は抱えていたんだ。
そしてその不安が的中した瞬間。
瞬く間に全身に嫌なものが駆け巡っていって、気付いたら私は薬局へ向かって走っていた。
盗っ人のようにこっそり妊娠検査薬を買って来てからは、誰にも内緒で、一人で結果を確かめた。
あの時は本当に、緊張した。
既にお先真っ暗で、最悪な毎日だったけれど、今度こそ本当に自分の人生は破滅するのかと思ったから。
でも、不幸中の幸いといっていいのか、結果は陰性だった。
生理不順が続いていたのも、どうやらただの体調不良だったとわかって、私は心底ほっとした。
ほっとした、のに。
どうしてか、急に涙が止まらなくなって。
誰もいない家のバスルームで、うずくまって、泣いた。
それから、服を脱いで、頭から冷たい水を思い切り被って、皮膚から血が滲みそうなほど何度も、何度も何度も強く全身を擦った。
いっそこのまま、泡と共に指先から溶けていけばいいのにと願いながら。
でも、どんなに綺麗に洗っても、あの感覚はなくならなかった。
触れられる感触を、穿たれる痛みを、体の全部が覚えていて、ちっとも消えてくれなかった。
「こんな顔、だったっけ」
首には真新しい指の跡が並び、胸元には赤紫の痣が散り、恋の味すら知らないくせに、既に男を知った顔付きをしている。
鏡の前に立つ度、知らない女がそこにいて。
知らない自分と目が合う度、変わらない現状と磨り減っていく月日を実感して。
すっかり、醜い生き物に成り下がってしまったことを思い知る。
「私って、なんなの」
今回は運良く免れたけれど、今後もずっと回避し続けられる保証はない。
いつ捕まってしまうかわからない。
もし、もし本当に妊娠していたら。
あいつの子供を身篭ってしまったら。
やはり、堕胎するしかないんだろうか。なんの罪もない子を。
親を選べなかったのは私も一緒だ。
きっと、生んでも生まなくても私の人生は終わるだろうし、私なんかに選ばれてしまった子供も間違いなく不幸にさせてしまう。
私自身が、そうだったように。
「違う。
娼婦なんかじゃ、ない。操り人形なんかじゃない」
だったら、意地でも逃げ切るしかない。そうなる前に打破するしかない。
私一人が苦しむならいい。でも、他の人まで巻き込んじゃいけない。
誰も助けてくれない。
私が、私をなんとかするしかないんだ。
不幸の連鎖を、私がこの手で断ち切るんだ。
「私は、あいつらの道具じゃない」
そう決心した時、私はようやく重い腰を上げた。
今までどんなに自分を奮い立たせても上手く動かせなかった足が、今度はしっかりと地面を踏み締めて、前へ、前へと。
「さよなら。もう二度と会うことはないでしょう」
高校二年、17歳の夏。
硬い枷をぶっ壊した私は、ついに外の世界へと走り出した。




