Episode:ジュリアン・ホワイトフィールドの懺悔
「こんばんは。今夜は冷えますね」
冬のある日のことだ。
夜半に一人、路肩に座って夜食のパンをかじっていたおれのもとへ、若い女がおもむろに近付いてきた。
自分から、進んでおれに関わろうとする人間は少ない。
みんなおれを嫌っているから、仕事の時や、どうしても対応しなくちゃいけない時、おれと口を利く相手はいつも変な顔をする。
昔はそれがどうしてなのかわからなかったが、今となってはすっかり当たり前になった。
だから、きっとそういうものなのだろうと、仕方のないことなのだろうと、おれも半ば諦めるようにして納得した。
なのに、どうしてこの女は。
若い女は特におれを怖がるのに、この女は、何故わざわざおれに話し掛けるんだ。
突然のことに緊張しながら、首だけをゆっくり後ろに向けて女の顔を見ると、彼女はおれのよく知る女性だった。
「よく、ここで食事をとっていらっしゃいますよね。
あたたかい春や夏の時期ならいいですけど、今日のように雪の降る夜には、少し辛いでしょう」
そう言うと女は、開かれた空色の傘を差し出して、おれの頭と、肩に降り積もった雪を手で払い落としてくれた。
若い女にこうして触れられるのは、何年ぶりのことだろうか。
おれは内心嬉しく思ったが、それを言葉にする勇気はなかった。
「突然すみません。お声をかけていいものか、ずっと迷っていたんですけど…。
どうしても、直接お礼が言いたくて」
女は膝を曲げると、おれの顔を覗き込んで笑った。
「いつも、うちの施設の前にお花を置いてくれてるの、あなたですよね。季節が変わってからは、花のかわりに雪だるまや、雪うさぎを。
子供達、みんなとても喜んでいます。ありがとう」
女の名前はネスというらしい。
背が高く、ブルネットの髪を後ろで一纏めにしていて、温厚そうな顔つきをした30歳前後の女性だ。
実を言うと、随分前から顔は知っていたのだが、おれはその時初めて彼女の名前を知った。
おれの家の近くには、小さな孤児院がある。
"ポップルウェルのお家"といって、街の寄付金で成り立っている古い施設だ。
ネスは、そこの施設で保育士をやっている女性だった。
ネスの言う通り、おれはたまに施設に花を届けに行っていた。
金がなかったので、ちゃんとした花屋で用意したものじゃなく、道端に咲いているような小さな花だ。
恥ずかしい話だが、これはあそこにいる子供達と仲良くなりたくて、勝手に始めたことだった。
彼らと話をしてみたかったけれど、おれみたいなでかいやつがいきなり話し掛けたら、きっと怖がらせてしまうだろうから。
だから、なにかきっかけを作ろうと思って、まず花を届けることを思い付いたんだ。
でも、花を届けるようになって一年が過ぎても、子供達に話し掛ける勇気は持てなくて。
いつも子供達に見つからないよう、こそこそと隠れながら、門の前に摘んできた花を並べていた。
ところがだ。
最近になって、予期せずおれの正体が発覚してしまったらしい。
早朝から施設の辺りをうろつき、拵えた雪だるまを門の前に並べていくおれを、おれも知らない内にネスが目撃していたというのだ。
それで、以前から花を供えていた奴がおれだということも、とうとう施設のみんなにバレてしまった。
誰の仕業なのかは分かっていなかったが、誰かがずっと贈り物を持ち寄っていたということは、誰もが知っていたから。
その話を聞いて、おれは、気付いてもらえた嬉しさと、秘密が明るみになってしまった気恥ずかしさと、勝手にそんなことをして怒られるのではないか、という不安で頭が混乱した。
けれどネスは、責めるどころか、おれを優しい人だと言ってくれた。
「良ければ、今度施設に遊びに来ませんか?
あの雪人形、どれもとても綺麗に出来ていて、子供達が作り方を知りたがっているんです。
あなたの方から直接指導してもらえると、こちらとしても助かるのですが…」
おれにとって、力仕事以外で必要としてもらえたのは、これが初めてだった。
「うわー、おじさんちょうでっかいねー!」
「ねえ、どうしてこんなに手がごわごわしてるの?私達の手とは全然ちがうね」
「なんか喋ろうよー。ずっとだんまりしてて楽しくない!」
「見てみて!おじさんの走り方おかしいの!アーノルドさんとこのちびヨークシャーとおんなじよ!」
その日から、おれは毎日のように施設に通った。
施設の子供達は、最初おれの姿を見た時驚いた顔をしたけれど、あっという間に順応して、歓迎してくれた。
おれは、彼らの屈託のない笑顔が、無邪気な声が可愛かった。
同じ一人の人間として、平等に接してくれることが嬉しくて、楽しかった。
気付けば、施設の子供達と、ネスに会うのが生き甲斐のように感じるほど、彼らと過ごす日々に幸せを見ていた。
十年前に父が死に、二年前には母も死んで、母の知り合いのツテを借りて、自分だけでこの街にやってきた。
一人になってしまった家で、一人で寝起きをし、一人で食事をとり、誰もいない玄関に向かって、行ってきますと挨拶をする。
それから、配属された現場に赴き、ひたすら材木を運んで、土を掘って、働く。
そんな毎日を繰り返しながら、時々嫌になったなと感じながら、故郷ではないこの街で生きていくことを、あの日おれは選択した。
だって、おれは馬鹿で、どんくさい男だから。
馬鹿でどんくさい男には、体を使う仕事しかできないから。
だから、どんなに楽しくなくても、頭をかきむしりたくなっても。
おれには、人の言うことに従って、とにかく汗水垂らして働くことしか、できないと思っていたんだ。
「ジュリアーン!こないだのやつやってー、肩車してブーンってやつ!」
「ジュリアンさん。これからみんなでクッキーを焼くんだけど、ジュリアンさんも一緒にやりませんか?」
「じゃあ今度はこの本ね。ちゃんとおれの喋り方聞いて、次はジュリアンが同じとこ読むんだよ」
「ほら、この子よ!1ヶ月前に産まれたばっかりでね、名前がまだないの。
みんなで考えてねってアーノルドさんが言ってたから、ジュリアンもどんな名前がいいか考えるのよ!」
ずっと、一人だと思っていた。
自分はこの世にたった一人で、おれと同じ生き物は他に誰もいないのだと思っていた。
無条件に優しかった父は、無償の愛をくれた母は、もうどこにもいない。
優しくしてくれる人はいた。
くしゃくしゃの顔で、おれを偉いと褒めてくれる人がいた。
しわしわの手で、おれを可哀相だと慰めてくれる人がいた。
おれは彼ら、彼女らのことがとても好きだった。
馬鹿にしてくる同僚や、なにかにつけて怒鳴る上司。
店で普通に買い物をしているだけなのに、おれを冷たい目で見て、隠れて悪口を言ってくるような奴らとは違うから。
老人は、おれに優しい。
だがおれは知っていた。
彼らの優しさは、決して対等のものじゃないのだと、おれは知っていた。
誰に教えられたわけでもない。
ただ、なんとなくわかっていた。
彼らがおれに優しくしてくれるのは、きっと家で飼っている犬や猫を愛でる感覚と、似ているからだと。
差別をされているのではないとわかっていたけれど、彼らにとって自分はどうしても格下で、どうやっても同じ存在にはなれないのだと痛感する瞬間が、たまに苦しかった。
なんでおれは、みんなと違うんだろう。
どこで間違えてしまったんだろう。
家で一人、ベッドの上に横になって、秒針が動く音だけを耳にしている時なんかに、そんなことを考えたりすることもあった。
でも、いくら悩んでも欲しい答えは出なくて。
どんなに練習しても、みんなと同じことはできなくて。
もう、いいや。
どうせ、これがおれなんだからと。
いつの間にか、考えるよりも先に、諦めてしまうのが癖になっていた。
「ばいばいジュリアン!また明日ね!」
けど、子供達は違った。
時におれをのろまだと笑い、大きいと驚く。
言っていること、やっていることは他の人達と同じなのに、子供達からそれをされる時は、おれは胸が苦しくならなかった。
子供達はいつも笑っていて、楽しそうで。本当に、無垢だったから。
彼らには悪意なんてなくて、おれを傷付けようとしているわけではないのだと、おれもわかったから。
建て前でも、皮肉でもない。
ただ真っ直ぐに、思ったままを率直に言葉にする。
でもおれの手を離さなくて、触ってくれる。
彼らは、いつもおれと同じ目線で遊んでくれた。
彼らと一緒にいる時だけ、おれは本当の人間になれた気がした。
とても、幸せだった。
自分はこの瞬間のために生きていると思った。
辛いことがあっても、何度くじけてしまいそうになっても。
施設に足を向けると、それだけで、嫌なことを全部忘れられた。
おれにとって、子供達は天使だった。
天使達と巡り会わせてくれたネスは、女神にも等しい人だった。
愛する両親を失い、孤独に喘いでいたおれに、神様が与えてくれた贈り物がみんななんだと思った。
「ま、また明日、来るから。みんな、夜更かしは、だめだよ」
お前達のためなら、おれはなんでもできる。
毎晩寝る前に、空に向かって感謝して、お祈りをした。
神様がどんな姿をしているのかは、おれは知らないけれど。
もし本当にそこにいるのなら、どうか。
どうか、いつまでも、こんな日々が続いてくれますようにと。
おれが人生で願うのは、望むのは、ただそれだけだった。




