Episode11:???
8月は夏も盛りの頃だ。
しかし今宵は晩秋のように肌寒く、虫の声も聞こえてこない。
澄んだ空には明るい月が昇り、人々の足下に亭亭たる影を落とす。
いつもより時の流れが遅く感じられるのは、静けさに寂しさを見るからか。
青年は歩いた。
ブーツの踵を鳴らして一歩、また一歩。
モッズコートの裾を揺らして一歩、また一歩。
時期に反した厚着をしているのに、汗一つ流さない。
涼しげな眼差しに弧を描いて一歩。華奢な口元に笑みを携えて一歩。
今にもスキップをし出しそうな足取りで、灰色の床を踏み締める。
「頼む、話を聞いてくれ。
こちらにも事情があって、決して私個人の意思じゃなかったんだ」
男は訴えた。
裂けた唇で一度、もう一度。
しわがれた喉で一度、もう一度。
全身が固く強張っていても、一秒も止まっていられない。
頬を殴られて一度。腹を蹴られて一度。
今にも嗚咽が漏れそうな声で、懸命に言葉を選び続ける。
「頼むよ。お願いだ」
男の頬は赤く、瞼は黒く腫れている。
青年が執拗に殴ったからだ。
男の右足首には裂傷が走り、出血している。
青年が刃物で削いだからだ。
なにもかもが痛くて苦しくて堪らない。吸う息ですら鉛のように重い。
疲れた。眠りたい。横になりたい。動きたくない。
男の本能がどれだけ音を上げようとも、男は自らの本能に背かざるを得ない。
僅かでも気を緩めた時点で、容赦なく青年が捕まえに来るからだ。
「待ってくれ。違うんだ。聞いてくれ」
辛いからこそ休めない。これ以上痛い思いをしたくないから、今痛いを我慢するしかない。
ただし走れない。立てない。逃げようにも力が入らない。
だから這う。獣のように。目指す場所なんかなくても、せめて一分一秒の安寧を求めて。
床に描かれた赤い稲妻こそ、まだ男の生が途切れていない証。
青年は男を無言で見下ろした。
青年の左手にはハンドガンが、右手には鋭利なナイフが握られている。
男に突き付けたままのハンドガンは、男の叫びを封じるため。
男の目の前で構え直されたナイフは、次の展開を示すため。
青年が床に片膝を突く。青年のナイフが空を切る。
ナイフの切っ先は垂直に男の左肩を貫くと、抉るようにじっくり引き抜かれた。
途端に男の傷口から血が溢れだし、ナイフの柄を伝って青年の指先に触れる。
男は大声を上げそうになるのを堪え、ぎりりと奥歯を噛み締めるだけに留めた。
本当なら泣いて喚いて、のたうち回りたいところ。
青年の手にしたハンドガンの銃口が、こちらを向いてさえいなければ。
「あれは、俺が、悪いんじゃない。上に命じられて、仕方なくやったことなんだよ」
男は息も絶え絶えに青年から距離を取ると、甲高く裏返った声で捲し立てた。
それでも青年は男に答えず、取られた距離の分だけ男に詰め寄っていった。
やがて男は壁際まで追いやられた。
いよいよ逃げ場も行き場もない。完全な詰みだ。
なのに体は生きるのをやめない。最早これまでと諦めさせてくれない。
壊れかけの脳が、破れそうな心臓が、足りない酸素をもっともっとと要求してくる。
「俺も、俺だって、被害者なんだよ」
死ぬのか、自分は。ここで。
黙ってこいつに嬲り殺しにされるしかないのか。
分かりきった結末を前に、男の目から一筋の涙が流れる。
満杯の恐怖と一匙の後悔が齎したそれは、生理的なものよりも熱く、塩辛かった。
「やめてほしいかい?」
徐にしゃがみ込んだ青年は、男に優しく微笑みかけた。
この時を待っていた、とでも言わんばかりに、男は何度も頷いた。
「助けて、くれるなら、なんでもするよ。何回でも謝る。償う。君の、望む通りに生きるよ。
だから頼むよ。命だけは、これ以上は、勘弁してください。お願いします」
プライドなど残っているはずもなかった。
助かりたい一心で、ひたすら謝罪と懇願を繰り返した。
青年の笑みが消えないように、静寂が戻ってこないうちに。
普段の男であれば、たとえ自らに非があろうとも、年下を相手に敬語を使うなど有り得なかっただろう。
対して青年は、コートのポケットからハンカチを取り出すと、猿轡代わりに男に噛ませた。
男は青年の為すがまま従った。青年の微笑みに希望を見出だしてしまったせいで、今度こそ思考停止したのだ。
まだ、男は気付いていない。
言葉を失えば、情けを乞えない。青年と交渉できない。
助かりたい一心の無抵抗が、唯一助かるかもしれなかった選択肢を潰したことに。
「僕も君達にお願いしたよね。何度もやめてくれって、泣いて頼んだ」
独り言のように呟いた青年は、男の無傷な方の左足を持ち上げた。
青年の白い手が、男の靴と靴下を乱暴に脱がせる。
青年の細い指が、男の汗ばんだ足裏を愛撫する。
青年の薄い爪が、男の親指から小指までを順に弾いていく。
一体なにをしているのか。
青年の奇っ怪な行動の訳を、男は理解できなかった。理解はできなかったが、不思議と嫌な気分ではなかった。
男の足を無邪気に弄くる姿が、まるで人形遊びに興じる幼子のようだったから。
可愛らしいとすら思った。自分がどんなに酷いことをされたか一瞬忘れてしまうほど、男の霞んだ視界に青年は尊く映った。
「けど、君達が僕の言葉を聞き入れてくれたこと、一度でもあったかな?」
青年が低く唸り、ナイフが鈍く光る。
男はまた一瞬にして現実へと引き戻され、大きく目を見開いた。
「ま────」
"待ってくれ"。
男は咄嗟に制止の声を上げようとしたが、間に合わなかった。
青年はナイフを横向きに持ち替えると、男の前足部に刃を這わせた。
小指、薬指、中指。比較的細い三本が一息に切り落とされ、稲妻の上に大小の火花が滴り落ちる。
堪えきれなくなった男はとうとう悲鳴を上げたが、猿轡に勢いの殆どを吸収された。
こうなれば形振り構っていられない。仕置きに銃で撃たれるなら、そちらの方がマシだ。
男は辛うじて動く手足で反撃を試みたが、敢えなく青年に組み敷かれた。
間髪入れず人差し指、親指も素早く切り落とされる。
男は唯一自由な首だけをバタバタと振り回し、飛び出そうな目玉で青年を睨み上げた。
俯く青年の表情は窺えなかったが、合間合間に嘲笑するような吐息が零れていたのを、男は聞き逃さなかった。
「僕が怖いかい?」
左足の指を全て落とした青年は、ナイフに付いた血を男のスラックスで拭った。
「かわいそうに」
男の猿轡が外される瞬間、男の粘着質な唾液と鼻水が糸を引いた。
だが青年は嫌な反応をせず、自前のハンカチが汚れたことにも怒らなかった。
「これで分かったろう?どんなに痛くて苦しいことか、身を以て理解できたよね」
男の口元に青年の人差し指が宛がわれる。
男の胸が浅く上下する度、ヒューヒューと隙間風のような笛声が鳴る。
「おまえ、は。俺を、ころす、のか。
ヘンド、リ、クや、ヴァ、ノンを、殺し、たのも、お前なんだろう」
青年は質問に答えない代わりに、男のぐちゃぐちゃな顔を綺麗にしてやった。
つい先程取り上げたばかりの、男の唾液と鼻水にまみれたハンカチで。
「これでも、君には容赦してあげてる方なんだよ?
レイニールの時は生きたまま全身の皮を剥いでやったし、ヘンドリックは目玉を炙ってやった。
どこをどうすれば人体は苦痛を感じるのか、どこまでなら死なない程度に追い詰められるか。
ぜんぶ、君達が教えてくれたことだからね」
同僚達の無惨な末路を知り、男は一層の絶望と怒りに震えた。
「こん、な、こどをし、でも、無意味、だろう。
俺を、殺し、て、得られるもの、なんて、なにも────」
男が喋っている途中で手を止めた青年は、ハンカチを床に放り投げた。
「ああそうだよ。意味なんてないさ。そんなの君だって知ってることだろ?
意味のある報復はこの世にない。ただ、僕がやりたいと思ったからやるだけ。僕の気が済むまで。
君を殺して得られるものがあるとすれば、なにかな。達成感とか?」
余裕綽々に笑っていたかと思えば、急に癇癪を起こしたり。
青年は酷く情緒不安定だった。きっと相手が誰でも計りかね、御しきれなかっただろう。
確かなのは、男の不用意な発言が、青年の逆鱗に触れたということ。
「……許してくれ。俺が、悪かった。
だから、どうか、命だけは、助け────」
やってしまった。
青年の異変に気付いた男は直ぐに謝ったけれど。
「君は何か勘違いをしているようだから、一応教えといてあげるよ。
僕は別に、君に謝ってほしくてこんなことをしているんじゃない。君を殺したいわけでもない。
レイニールも、ヘンドリックも、ヴァーノンだってそうだった」
「じゃあ」
「僕はただ、お前達に苦しんでほしいだけなんだよ。
僕らが味わった恐怖を、苦痛を、絶望を。お前にも分けてあげる」
"その過程で命を落とすかどうかは、君の辛抱次第だろ?"
そう言うと青年は、男の首を両手で持ち上げ、男の額と自分の額とをぴったり合わせた。
「大丈夫。うっかり死んでも寂しくないように、後でもう三人お友達を送ってあげるから。
だから、安心して苦しめよ。ラザフォード」
カウントダウン、あと三人。
『Whose fault is it?』




