Episode10:悪魔にしては情があり、小悪魔と呼ぶには凶悪だ
8月19日。PM7:28。
ヴィノクロフから戻ったアンリと合流した一行は、シャオの手引きで再びガオ州へと向かった。
ここは数日前までシャオが拠点を構えていた土地。彼とアンリ、そしてマナが最初に出会った場所でもある。
ただし、シャオの事務所は一行がアメリカに発つ前に、すっかり引き払ってしまった。
情報屋のアジトとして特定されかけていたこともあるので、今からあの近辺に近付くのはお勧め出来ない。
どうしても隠れ家が必要になった場合には、友人宅に一時避難させてもらおうとシャオは言う。
新しい住まいが見付かるまでは、そこで厄介になるつもりだったらしい。住民票も既に移動済みとのこと。
いわゆる虎の威を借るというか、笠に着るギャンブラーな振る舞い。
自分達の存在を含め、使えるものは何でもというスタンスが実にシャオらしいと、アンリは思った。
「────19時29分。
約束の時間まで残り一分を切ったが、まるで現れる気配がないな?」
自らの腕時計に目を落としてから、アンリはシャオに確認の問いを投げた。
対してシャオは特に焦った様子もなく、むしろどこか楽しそうに答えた。
「まあまあそう焦らないで。彼女気まぐれだけど、私との約束は破ったことないから」
通称・娯楽の国と呼ばれるガオでは、賭博場やアミューズメント施設が州の半分近くを占めている。
郊外の方に行けば居住区も申し訳程度に存在するが、穏やかな暮らしがしたい人には不向きな土地柄。実際に住んでいるのは施設の管理者や従事者ばかりで、余所者や流れ者はまず寄り付かない。
ガオが国内一人口の少ない州として知られているのは、そういう所以なのだ。
「そもそも、こんな人目につくスポットを待ち合わせ場所にして良かったのか?」
「んー?」
「住み慣れた家を手放してでも、素性が露見しないよう徹底してるんだろう?
こんな往来に出たら、せっかくの努力が水の泡じゃないのか」
「んー。それも一理あるが、往来の中だからこそ紛れたりするもんさ。
ほら、周りを見てごらんよ。目が血走ってるやつ、鼻の下伸びてるやつ───、一様にキマった連中ばっかりだ。小手先の欲で頭がいっぱい。
だーれも私達のことなんか気にしちゃいないよ」
一行が現在身を寄せているのは、ガオで最大級の規模を誇るとされるカジノの一角。国内外問わず人気のスポットだ。
ネオンサインに引き寄せられるように次々とゲートを潜っていく観光客らの姿は、さながら街灯に群がるユスリカのよう。
これほどの人数がごった返す環境なら、昨日すれ違った人を今日も見かける、なんてことは滅多に起こらないだろう。
己の素性を知る者は誰もいない。浮き世から隔絶された夢空間。
ここで見聞きした全ては幻のようなもの。
どんなにはしたない真似をしても、恥ずかしい思いをしたとしても、ここを出さえすればリセットされて元通り。
現代社会に疲れた者達がこぞって集まり、思う存分ハメを外して憂さを晴らす。
表の自分にスイッチを切り替えて、元いた世界へと帰るまでは。
「ま、取るに足らない有象無象でも、私や彼女は簡単に素通りしてやらないけどね」
故にこそシャオは、最初の亡命先にガオを選んだ。
ここなら別人に成り済ましても十分通じるし、群れに紛れることで痕跡を残しにくい。
追っ手の目から隠れるには打ってつけだ。
情報屋として商いをする分にも、これ以上ない好条件が揃っている。
ガオを訪れる観光客、ガオに居着いた地元民は皆、何かしらの闇を抱えている。
彼らは代わり映えしない日常に食傷を覚え、身を滅ぼし兼ねない快楽やスリルに焦がれている。
ちょっと背中を押してやるだけで、あっという間に深淵行きだ。
集めたネタは金のタネ。
悪知恵を働かせた分だけ儲けが出る。
その人の人間性によって、ユートピアにもディストピアにも変わる楽園。
ガオとは即ち、そういう国。
シャオにとっては勿論ユートピアだった。だから選んだ。なのに捨てた。
悪い奴らに見付かりそうだったからと本人は言うが、実際は逆。
悪い奴に目を付けられてしまったから、立ち退かざるを得なかったのだ。
仮にアンリ達と出会わずとも、ガオを離れる意思は変わらなかっただろう。
彼の人のお膝元にいる限り、シャオは篭の鳥同然。
どんなに磨き抜かれた悪知恵も、権力を前には歯が立たなかったということだ。
**
PM7:35。
カジノ出入口ゲート前。
「───お、きたきた」
約束の時間を5分過ぎて、ようやくシャオの友人が一行の前に現れた。
煩わしい人混みなど物ともせず、優雅に歩いてきた彼女は一際の異彩を放っていた。
「バレンシア!ここだ!」
シャオは手を振って合図した。
彼女は笑顔でシャオに歩み寄ると、軽いハグをした。
「いやー、久しいなバレンシア。直接顔を合わせるのは何ヶ月ぶりだ?
しばらく見ない間に、また一段と美しくなった」
「ふふ。そっちこそ相変わらず、男にしておくには勿体ない美人ね。
この私がたった5分で出てきてあげるのは、アナタくらいのものよ。オスカー」
バレンシア・クアドラド。
年齢は不詳、出身はスペイン。
シャオの同業者にして協力者、かつ唯一無二の大親友。
ドレス、耳飾り、ピンヒール、ルージュ……。全身を真紅で統一しながらも、装いの派手さに本人が劣っていない。
豹のような瞳にしても、凛々しい眉にしても、全てのパーツの主張が強い。
なのに意外と親しみやすさを感じるのは、そう見えるよう本人がメイクで工夫しているから。
髪型に於いても似たことが言える。
緩くウェーブの掛かったブラウンヘアーで、分けた前髪の部分にだけブラックのメッシュが入っている。
このメッシュを差し色にすることで無難な印象を避け、フランクな遊び心を演出しているのだ。
キオラとはまた違ったタイプの美女。
繊細なイメージのキオラと比べ、バレンシアの方はより女っぽく健康的。
無論、本人も自らの美貌を自覚している。シースルーを纏わせた胸元も、スリットで見え隠れする足も、自信があるからこその露出だ。
ただし。
彼女の色香に誘われて迂闊に近寄ると、火傷どころでは済まなくなる。
彼女が美しいのは、ひけらかすために非ず。
彼女が優しいのは、お前を陥れるためなのだから。
「道中、野蛮な狼に集られたりしなかったかい?」
「そんなのはいつものことよ。
アナタこそ、卑しい女狐が尻尾を振ってきたんじゃないかしら?」
「そんなのはいつものことさ」
久々の再会を喜ぶ二人は、人目も憚らず堂々とキスをした。
シャオ以外の一行は、突然のことに息を詰まらせた。
当のシャオは短いリップ音と共に唇を離すと、にっかり笑ってバレンシアの腰に手を回した。
「紹介するよ。彼女がバレンシア。
私の古い友人で、ピンチの時には何かと助けてくれた恩人でもあるんだ。
ほら、私がシグリムに亡命するに当たって、ちょっとしたコネを使ったって前に話したろ?そのコネが彼女だよ」
「あ───、ああ。そうだったな。覚えてるよ。
しかし彼女は、その……。お前の友人、なのか?恋人じゃなく?」
「アハハ~、友達だよ。体のお付き合いも込みのお友達。ね?」
「ええ」
動揺を隠せないアンリに対し、シャオとバレンシアは証明するように再びキスをしてみせた。
同業者兼セックスフレンドでもある二人にとって、この程度の軽いキスは挨拶のようなもの。
双方とも全く恥じらうことなく、あっけらかんとしている。
そんな二人を前にアンリは不自然な瞬きを繰り返し、ジャックは顰めっ面で溜め息を吐き、ジュリアンは目のやり場に困って小さく右往左往した。
お国柄によっては、今のシャオ達のように挨拶の一環として相手にキスを贈る、という風習が存在する。別にシャオ達が破廉恥なわけではない。
だがアンリ達にはそういう感覚がなかったもので、頭では理解していても意識せざるを得なかった。
中でも際立って大きな反応を示し、真っ赤な顔を俯かせる人物が一人。
「ま───。まあまあまあまあ!こんなに赤くなっちゃって、なんて可愛いらしい。
ねえオスカー、この子の名前は?」
アンリの背後で縮まっていたマナを見付けるなり、バレンシアはうっとりと破顔した。
「その子はマナだよ。
いかにも君が食い付きそうだなって予想してたけど、ビンゴ?」
「さすがオスカー。私の好みをよく分かってるわ」
バレンシアは上機嫌にマナの元へ近付いていった。
マナはびくりと肩を揺らし、反射的に一歩後ずさった。
「あ、あの……」
「初めましてマナちゃん。私の名前はバレンシア・クアドラドといいます。
親しみを込めて、是非ファーストネームで呼んでほしいわ」
マナの顎を指先で持ち上げたバレンシアは、彼女の頬にキスを落とすついでに耳元で囁いた。
「よろしくね」
「よ、よろしく……」
頬にうっすらとキスマークを残したマナは、耳まで真っ赤に染めて、か細い声で返した。
そこへジャックが図太く割り込んだ。
「ちょっとアンタ。悪い人じゃないんだろうけど、あんまりこの子をからかわないでくれる?ウブなんだから」
「あら、からかったつもりはないわ。
ただ彼女がとてもキュートだったから、ついキスしたくなっちゃったの」
「……言っとくけど、マナにはもう心に決めた相手がいて────」
尚も隙を見せないバレンシアにジャックが食い下がろうとすると、シャオが横から待ったをかけた。
「彼女に一般常識を求めても無駄だよ。多才なぶん変わり者でもあるからね」
「ウフフ、ひどい言われようね。
私は人より少しだけキャパシティーが広いだけなのに?」
シャオは一つ咳払いをして続けた。
「とにかく、あまりバレンシアには突っ掛からない方が身のためってことさ」
「どういう意味よ」
「彼女、マナや君みたいに、生娘っぽくて意志の強そうなのが好物なんだよ」
「ハ?好物?」
「そう。私両刀なの。
キュートな女の子とセクシーな偉丈夫が大好きで、どちらも美味しく頂けるわ。
もちろん、アナタもしっかりストライクゾーン入ってるから、マナちゃんと三人で楽しむっていうのも良さそうね」
バレンシアはジャックの顎も人差し指で持ち上げると、横へ滑らせるようにして彼女の首筋を撫でた。
バレンシアの深い眼差しに捕らわれたジャックは、たちまち蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまった。
「何はともあれ、さっそく打ち解けてくれたみたいで嬉しいよ」
女性陣の戯れ合いを見守りながら、シャオは貼り付けた笑顔で言った。
「これは緊張……。初対面の人に緊張してるだけ……」
まだ僅かに赤ら顔を引いているマナは、自分の胸に手を当ててぶつぶつと独り言を呟いた。
「空気ですね、俺達」
「うん」
すっかり蚊帳の外となったアンリとジュリアンは、ただただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「フフ。好みの子達に囲まれるのは良い気分ね。仲良くなるのが楽しみだわ」
バレンシア・クアドラド。
自らのキャラクターを最大限に活かしたハニートラップで、ターゲットをじわりじわりと骨抜きにする恐ろしい女。
通り名はレパード。
ハクのピアソン、プリムローズのアリスと並び、シグリムで三強とされる情報屋の一人である。
「改めて、以後お見知り置きを」
畏まって頭を下げたバレンシアは、実は血が繋がっているのだと言われても不思議じゃないほど、シャオとよく似た人物だった。




