Episode09-5:蛇と蝶のポルカ
302号室の前に立ったシャオは、何度か躊躇った末にドアをノックした。
「───戻ったの?」
部屋の中から聞こえてきたのは、302号室の主の声。
成人女性の、端正で凛とした声だった。
「いいや私だ」
シャオはすかさず否定した。
主は近付いてきた途中で一度歩みを止めてから、しぶしぶといった様子でドアを開けた。
「入れば」
いかにも不機嫌そうに告げた主ことジャックは、シャオの応答も待たずに室内へと踵を返していった。
どうやら、たった今入浴を済ませたところだったらしい。
跳ねたオレンジの髪はしっとりと湿っていて、首には黒のフェイスタオルを掛けている。
服装もTシャツにホットパンツと部屋着らしい格好で、平素より露出度が増している。
捉え方によっては扇情的とも言える姿だが、ジャックはシャオに意識してほしいなどとは微塵も思っていない。全く意識していない、どうでもいい相手だからこそ構わないだけなのだ。
シャオもシャオで免疫があるので、若い女性の肌を見たくらいで今更動揺したりはしない。
「予想通りのお出迎えドーモ」
相変わらずのジャックの態度に、シャオも眉を潜めつつ部屋に入った。
するとシャオの視界に見覚えのない蝶が過ぎった。
前を歩く彼女の、シャツの裾から覗いた、しなやかな腰。
そこに、紫の羽根を持つ美しい蝶が一羽留まっていたのだ。
平素は服に隠れて分からない位置だが、どうやら彼女もシャオ同様にタトゥーを入れているようだ。
「───で?アンタが私に何の用?マナはどうしたのよ」
ジャックは備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
マナのつもりでシャオを出迎えようとしてしまったのを後悔しているのか、口調も声色も輪をかけて刺々しい。
「黒猫ちゃんなら今、お友達のジュリーさんとこに行ってるよ。
君に買ってきた物は、私の方から代わりに渡してくれってさ」
「ハア?なんでそうなんのよ。同じ部屋なんだからマナが私に、アンタがジュリアンさんとこに持って行けばいいじゃない」
「ハッハ。少し前の私と同じことを言ってる」
ジャックほど露骨ではないものの、シャオも負けじと毒々しい態度で応じた。
口を利く度に二人はこんな調子。橋渡しのマナが頭を痛めるわけである。
遡ること数日前。
引ったくり犯だったジャックと偶然すれ違ったところから、アンリ達五人の縁は始まった。
あの後、一番に追い掛けていったマナがジャックを確保。
そこにシャオが合流し、最後にアンリが到着した。
アンリが来るまでの間はシャオが代表して彼女に事情を聞いていたのだが、どういうわけか当初から二人の雰囲気は悪かった。
シャオが何を質問しても、ジャックは何も答えようとせず。
ようやく返事をしたかと思えば、ふてぶてしく"別に"と鼻を鳴らすだけ。
アンリとマナに対しては最低限の受け答えはしていたのに、何故かシャオだけは最初から睨まれていた。
腹を立てたシャオは、そっちがそのつもりならと歩み寄る姿勢を捨ててしまった。
当のジャックも何がそんなに気に食わないのか、シャオに対しては何時までも塩対応のまま。
互いに乱暴を働く癖がないのが、せめてもの幸いである。
「とりあえず、これ。君の分の夜食ね。
私はもう済ませたから、そちらもご自由にどうぞ」
シャオはテーブルの上に荷物を纏めて置いた。
「ありがとう。
───って、後でマナに言っておくわ」
「………。君さあ、一体なにがそんなに気に入らないわけ?
思春期の女学生じゃないんだから、どこがどう不満なのか、ちゃんと口で説明してごらんよ。
私は君に、そんなに嫌われるようなことをしたかい?」
シャオが溜め息混じりに尋ねると、ジャックは無意識に顔を背けた。
「私じゃなくて、アンタが私を嫌いなんでしょ」
そう言ってペットボトルの水に口を付けると、ジャックは能動的に話し始めた。
「アンタだって、いつも私と話す時だけ表情カタいじゃない。
他の三人にはニコニコ愛想よくしてんのに、私のことは視界にも入れたくないみたいで」
「それは君の被害妄想だろ。私は誰に対しても平等に紳士だ」
「胡散くさ」
「……まあ、強いて言うなら?
君だけは出会い方が特別、だったからかな。違いがあるとすれば」
「ほらね。なんだかんだ言いつつ、ちょっと前まで盗っ人やってたような女とは仲良くしたくないだけでしょ」
「そうとは言ってないだろ」
まともに会話をしようとしないジャックに、いよいよ痺れを切らしたシャオはテーブルを強く叩いた。
そしてズカズカと大股で彼女に近付いていき、ぐいっと顔を寄せた。
急に迫られたジャックは驚いて目を丸めた。
「オマエ、昔の俺にそっくりなんだよ」
一際低い声でそう呟くと、シャオは一歩二歩と引き下がってジャックから離れた。
「そっくりって……。まさか顔じゃないでしょ」
「正確には"顔立ち"じゃなくて"顔付き"かな。
その何もかも斜に構えてるような、見るもの全て敵とでも言うような。全身から針が出てるみたいなピリピリした雰囲気が、餓鬼の頃の俺とおんなじだ」
気怠げに肩を竦めたシャオは、ベッドの一つに腰掛けてズボンのポケットを探り始めた。
取り出されたのは、使い込まれたジッポライターと、ニコチン濃度の高い煙草だった。
シャオは慣れた手付きでボックスから一本引き抜くと、口に銜えて着火した。
「ホラ」
「────っと。まったく品がないなあ」
ジャックは側のサイドテーブルにあった灰皿を、シャオの顔面目掛けて乱暴に投げ渡した。
顔面キャッチすれすれで受け取ったシャオは、どこか嬉しそうに喉を鳴らした。
「似てるってことは、アンタも昔はゴロツキだったってこと?
それって、今みたいに情報屋とかやる前?」
「そうだな。ゴロツキもゴロツキ、家無し宿無しのテンプレートな浮浪者だったよ。
8歳の頃に親に捨てられちゃってね。それからずーっと、どぶの中を這いずり回って生きてきた」
溜まった煙を吐き出すと、シャオの視界一杯に白い靄が広がった。
シャオは幼少期に思いを馳せ、つい懐かしいなと感傷を覚えた。
「父親が北欧の生まれで、母親が純中国人。
生まれた場所は母の地元の北京。育ちも含めれば、天津も出身になるか、半分は」
「三人で暮らしてたの?」
「いいや。物心つく前から父はいなかった」
「シングルマザーだったってこと?」
「便宜上はそうなるな。
俺自身、父に関する記憶は一切持ち合わせがないんだよ。最低限の個人情報が割れてるだけで、どこで何してんのかはサッパリ。会う機会どころか写真の一枚さえなかった。
お前の父親は遠い異国の人だ、なんて母が言い聞かせてくる度に、またいつもの妄言が始まったと思ったものさ。幼いながらにね」
銀色の雪原、悴む手足。
たまらず息を吐き出せば、眼前は今のような白い靄で覆われた。
あの日、たった一人の肉親に置き去りにされた日のことを、シャオは時々夢に見る。
「ふーん……。道理で、アジア系らしからぬ見た目をしてるわけね」
「まーあね。
けど、母と二人で生きるのも、7つの終わりまでだった。
8つの誕生日を迎えて間もなくに、母は俺を捨てていった。それ以来、俺は自由気儘に天涯孤独の身の上ってわけ」
母一人子一人の生活はとても厳しいものだったが、それでもどうにかやってきた親子だった。
しかし、生活は右肩下がりに困窮していくばかり。
働き詰めの母は段々と窶れていき、シャオは学校に通ったことすらなかった。
やがて、シャオが8歳を迎えた頃。
今日は特別な用事があるからと、母はシャオを突然の遠出に連れ出した。
向かった先は、辺境の地の、名もなき集落。
そこにシャオを一人だけ残し、母は理由も告げずに姿を消したのだった。
「あの頃はとにかく、毎日食うために必死だったよ。
物乞い、万引き、喝上げ。人として汚いこと、みっともないことは一通りやった。
空腹が紛れそうなものなら、果物の皮でも種でも、道端に吐き捨てられたガムでも、何でも口に入れた。体を壊さなかったのは奇跡だね」
最後に見た母の顔は悲しそうで、残された言葉は謝罪だった。
少しだけ、ここで待っていてほしいと。
必ず迎えに来るからと。
無垢な少年は母との約束を信じ、ひたむきに帰りを待ち続けた。
けれど、どんなに待っても、母が少年を迎えに来ることはなかった。




