Episode09-4:白い荒野に優しい雨が降る
「ねえジュリー、マスクをとって。
ボクに、あなたの本当の姿を見せて」
這ってジュリアンの正面に回ったマナは、ぐいっと彼に詰め寄った。
「で───、きない。それは、できない」
ジュリアンは千切れそうなほど激しく首を振った。
はっきりと拒絶を示された。
しかしマナは、尚も怯まずに語りかけた。
「施設の子供達には平気でも、ボクに見られるのは嫌?
どうしても、絶対に無理なこと?」
「……おれの顔、見たら、マナが嫌な思いする。マナ、おれのこと嫌いになる。
おれは、もう嫌われたくないんだ」
「嫌ったりしないよ。笑ったり、馬鹿にしたりもしない」
マナはその場でしゃがみ込み、幼子に対するようなトーンで続けた。
「ボクはね、ジュリー。あなたと友達になりたいんだよ。あなたのことを、もっとちゃんと知って、ちゃんと好きになりたい。
ジュリーは、ボクとは友達になりたくない?」
孤児院の子供達と接してきた彼と、孤児院で子供時代を過ごしてきた自分と。
こうして巡り会ったのには、なにか特別な意味があるのではないか。
ジュリアンと初めて言葉を交わした瞬間から、マナは彼に運命的なシンパシーを覚えていた。
ジュリアンもまた、他の誰にでもない特別な感情をマナに向けていた。
異性なのに同性のようで、年下なのに年上のようで。守るべき対象であると同時に、唯一甘えさせてくれそうだと感じる相手。
血の繋がりにも似た安心感、解放感を。
「とに────」
ふとジュリアンの動きが止まった。
しばらくの沈黙を経て漸く返ってきた返答は、先程の拒絶とは裏腹なものだった。
「本当に怖がらないと、嫌わないと約束してくれるか」
深く頷いたマナは、邪魔にならないようジュリアンの側から一旦離れた。
目線を下げたジュリアンは、震える指でマスクに触れた。
慣れた手つきでヘッドハーネスを解き、タブ、バンドの順に外していく。
最後にもう一度だけ躊躇ってから面体部分を取り外すと、ジュリアンの顔が露になった。
「───マナ。おれが、こわいか」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら、ジュリアンは初めて肉眼でマナを見た。
マスク越しの景色は、いつも灰色で暗かった。
マスク越しのマナは、黒い髪で、白い肌で、どこか儚げな姿をしていた。
だけど、今は違う。
真っさらな視界に映った彼女は、とても綺麗だった。
黒い髪にはライトの光が反射し、白い肌には仄かに赤が差している。
モノクロに見えていた服は、本当は鮮やかなオレンジだ。
ああ、君は。本当はこんな色をしていたんだね。
マナが初めてジュリアンの顔を見るように、ジュリアンも初めて、マナが本当は何色であるかを知ったのだった。
「こわくないよ。ボクの思った通り、とても───……。優しい顔をしてる」
そっと手を伸ばしたマナは、指先だけでジュリアンの顔に触れた。
驚いたジュリアンは肩を揺らしたものの、跳ね退けようとはしなかった。
固い皮膚に、大きな鼻。
一切手が加えられていない、自然なままの眉。
岩のように凹凸のあるその顔は、確かに人によっては怖いと感じるかもしれない。
しかし何より、ジュリアンは瞳が美しかった。
髪と同じブロンドの睫毛に縁取られたそれは、晴れた空の色をしていた。
更に上へと腕を伸ばしたマナは、小さな掌でジュリアンの大きな頭を撫でてやった。
ジュリアンは気持ち良さそうに目を閉じ、微かに口角を上げた。
固い肌とは真逆に柔らかい質感をした髪は、まるで洗い立ての羽毛のようだった。
やがてマナが手を引くと、ジュリアンは名残惜しげに目を開けた。
瞼の向こうにいた彼女は、音もなく涙を流していた。
彼女の頬を伝って下降していく雫は、小さな音を立てて床に落ちた。
「醜く、ないよ。全然、醜くない。
あなたの姿は、ちっとも、醜いなんて────」
言いながら崩れ落ちたマナは、自分の目元を両手で覆って、声を殺して泣いた。
彼を醜いと思うのは、その人の勝手だ。
心の中で何度彼を罵倒しようと、卑しめようと自由だ。
でも、それを形に、言葉にしてしまったら、個人の自由は相手への悪意害意となる。
たとえ本人にとっては何気なくとも、向けられたジュリアンにとっては刃物も同然だ。
こんな頑丈なマスクを被ってまで隠そうとするほどだ。きっと一度や二度ではなかったのだろう。
"───どうしてこんなことも出来ないんだ!"
"なにも出来ないなら、なにもしようとするな!"
彼のおどおどとした態度を、拙い言動を不愉快に感じることもあるだろう。
すぐには理解できない知能を、馬鹿だと怒りたくなることもあるだろう。
けれど、それらは決して彼の本意ではない。
彼なりに頑張って、努力しているけれど、結果が思うように伴わないだけなのだ。
"おれの顔、見たら、マナが嫌な思いする。"
こんなに、優しい彼に。
人より少しだけ鈍いところはあっても、それでも同じ人間だ。
慈しむ機微を、尊ぶ感性を持ち合わせた人間だ。
教科書の問題は解けなくても、なにも分からないわけじゃない。
傷付けば血が出るし、悲しい時は涙も流す。
皆と変わりなく、痛いも苦しいも平等に感じている。
彼にも確かに心がある。
それがどうしようもなく、悲しくて。
彼が今までどれほど辛い思いをしてきたか、想像するだけでマナは我がことのように胸が苦しかった。
「泣かないで、マナ」
今度はジュリアンの大きな掌が、マナの小さな頭を撫でた。
酷く不器用ながらも、思いやりに満ちたジュリアンの人肌。
涙で流れ落ちてしまった分だけ、じわりじわりとマナの胸に沁みていく。
「ジュリーは、ボクが醜いと思うかい?」
マナは濡れた頬をインナーの袖で拭うと、ジュリアンの右手を自分の両手でぎゅっと握り締めた。
「え───、まさか。そんなはずない。
マナはとても綺麗だ。マナも、優しい人の顔をしてる、と思う」
「そっか。でもそれは、ジュリーから見たボクだ。みんなもそう思ってるとは限らない。
人によっては、ボクの顔が世界一醜いものに見えるかもしれない。見え方は人それぞれで、普通に基準なんてないんだ」
いつも自分に自信がなくて、自分の悪いところばかりを取り上げて。
人恋しいくせに、一緒にいてほしいと素直に言えなくて。
そんな人を、マナはジュリアンの他にも知っていた。
「誰にも、人の美醜を、良し悪しを決め付ける権利なんてない。
あなたのことを醜いと言った人達は、たまたまあなたとは反りが合わなかっただけ」
「マナ……」
「だから、ジュリー。これからは、せめてマスクを被る理由を変えよう。
あなたは醜くなんてない。あなたを美しいと思う人に、まだ出会ってないだけ。
でも、今日からはボクが第一号だ。ボクから見るジュリーは、とても美しい人間だよ」
マナが微笑みかけると、ジュリアンも少し困ったように笑い返した。
「おまえの言うことは、ちょっと難しいな」
マナの言う全てを、ジュリアンは理解できなかった。
ただ、マナが自分に何を言おうとしているかは、ジュリアンにもしっかり伝わった。
美しい心を持つ人の周りには、本当に美しいものが集まってくる。
この夜、ジュリアンの白い荒野に、マナの優しい雨が降り注いだ。




