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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
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Episode09-3:白い荒野に優しい雨が降る



303号室の前に立ったマナは、抱えた食料を落とさないよう気を付けながらドアをノックした。



「───誰だ」



部屋の中から聞こえてきたのは、303号室の主の声。

成人男性の、太くて低い、強張った声だった。



「ボクだよ。マナ」



マナはすかさず名乗った。

主は短く沈黙した後、先程より幾分柔らかくなった声で返した。



「開いてる」



シャオのように出迎えにくる気配はないが、入室自体は許可してもらえたらしい。

言われた通りにマナがドアを開けると、ぎしりと軋む音の向こうに、主ことジュリアンの姿があった。

せっかくソファーがあるのに、彼は相変わらず地べたに胡座をかいていた。



「夜食を持ってきたよジュリー。

良ければ一緒に食べない?これからのこととか、話したいこともあるし」



マナはジュリアンの元まで歩み寄り、隣に座ってもいいかと尋ねた。

ジュリアンは小さく頷くと、マナの服が汚れないよう床を手で払ってやった。


とても、静かだ。

開けられた窓から時折流れ込む夜風が、ゆらゆらとはためくブラウンのカーテンが、一層の孤独感を煽る。

シーリングライトは眩しいほどなのに、どことなく薄暗いような物寂しさが、空気中に漂っている。


テレビもラジオも点いていない。点けられた形跡がない。

シャオのように読み物に耽っていた様子も、バスルームを行き来した様子もない。


きっと彼は、部屋に来てずっと、このまま。

なにをするでもなく、なにをしようと考えもせず、ただただこうして座っていたのだろう。

無益な時間が過ぎていくのを、ひたすら待つように。



「甘いパン、好きでしょ?」



そっとジュリアンの隣に腰を下ろしたマナは、持参した食料の中からピーナッツバターのサンドイッチを取り出した。

ジュリアンはまた頷くと、恐る恐るの手付きでサンドイッチを受け取った。

マナも自分用のべーグルを取り出すも、ジュリアンは何故かサンドイッチに口を付けようとしなかった。



「食べないの?」



不思議に思ったマナは首を傾げた。



「あとで食べるよ」



そう言うとジュリアンは、サンドイッチの包みをサイドテーブルの上に置いてしまった。

マナは壁に力無く背を凭れ、たった今取り出したばかりのベーグルを膝の上で握り締めた。



「(だめか)」



ジュリアンは決して、誰かと食事を共にしない。

これまでにも何度か機会はあったが、その度に彼は自分抜きでやってくれと断ってきた。

はっきりとした理由は述べていない。マナ達も誰も真相は知らない。

知らないけれど、皆なんとなく分かっていた。

ジュリアンがこうも頑なに、他人とテーブルを囲みたがらない訳を。


食事をするということは即ち、マスクを脱がなければならないということ。

つまりジュリアンは、人前で自分の顔を晒すのを嫌がっているのだ。


マナは勿論、アンリもシャオも、ジャックでさえ、そんな彼に気付いていた。

だから無理強いはしなかった。食事時になると決まって姿を消す彼を、敢えて探そうとしなかった。

いつかは五人揃って、ランチもディナーも楽しめるようにと願いながら。



「(ボクの思い上がり、なのかな)」



でも、今なら。

一番よく話をする自分と二人きりの時なら、彼も気張らずに受け入れてくれるのではないか。

そう意を決して声をかけてみたマナだったが、やはり。


打ち解けてきたようだと感じているのは、自分だけなのかもしれない。

ジュリアンにもジュリアンなりの事情があるとはいえ、マナは少し悲しい気持ちになった。




「ねえジュリー」


「なんだ、マナ」


「ジュリーはボクのこと、嫌い?」


「え……。い、いきなり何言うんだ、マナ。

おれ、マナに嫌いだなんて、言ったことない」


「じゃあ、嫌いじゃなくても、好きじゃない?」



三角座りをしたマナは、立てた膝にすっぽりと顔を埋めてしまった。

自分の言動が彼女を傷付けたと思ったジュリアンは、あたふたと狼狽えながら弁明した。



「ぁや、えと……。マナは、いい人だ。アンリも、シャオライも、ジャクリーンも。みんな、優しくていい人だ。いい人は、好きだ」



屈強な見た目や淡白な言動に反し、ジュリアンはとても繊細な人物である。

ただ、自分の気持ちを表現するのが苦手なだけ。優しくしたい相手にどう接すれば良いか、折り合いをつけるのが下手なだけ。


マナは理解している。

ジュリアンの個性を尊重するならば、彼の方から心を開いてくれるのを待つべきと。

同時に、このままではいけないとも。




「ジュリーは────」



マナは顔を上げ、ジュリアンのマスクをぼんやりと見詰めた。



「どうして、マスクを被るの」




誰しもが気になっていて、誰も触れられなかったこと。

そもそもジュリアンは、どうしてマスクを被るようになったのか。


本人に聞けば答えてはくれるだろうが、答えが聞けても距離が縮まるとは限らない。

本人にとって最も恥ずべき秘密であるなら、追求した分だけ溝は深まるかもしれない。


踏み込む側と、踏み込まれる側。

どちらとも神経を磨り減らす行為だが、臆してばかりでは何も得られない。

時に、傷付け合った先にこそ生まれる信頼もある。




「う……。───、────っ」



ジュリアンは言葉に詰まってたじろいだ後、ばつが悪そうにマナから目を逸らした。



「だめ、なんだ、おれは。

おれは、マスクを被らないと、いけない人間なんだ」


「どうして?誰もそれを強制してない。必要なんてないんだよジュリー」


「いいや駄目だ。

おれは、醜いから。醜い顔をしてるから、人が見たら、嫌な気持ちになるんだ」


「……醜いって、誰かに言われたの?」


「昔は、よく言われた。言わないのは施設の子供達だけだ。大人の人はみんな、おれの顔、醜いと思ってる。

今は、おれの周り、子供いないから。みんな大人ばかり、だから。だから、マスクつけるようになった。

子供達、に、会いに行かなくなってから、おれはマスクをするようになったんだ」



急にそわそわと落ち着きがなくなったジュリアンは、マスク越しに自分の頬に触れた。

マナは無意識に奥歯を噛み締め、眉間に皺を寄せた。




"───おい見ろよ、木偶の坊が一丁前に買い物なんかしてるぞ。"


"───まったく良いご身分だよなあ。どうせ国から貰った金で飯食ってんだろ?"


"───あんな役立たずにバラ撒いたところで糞にしかなんねーんだから、そのぶん俺達の給料上げてほしいよなあ。"



どこの世界にも、心ない人間はいる。

なにも悪いことはしていないのに。普通に生きようとしているだけなのに。

少し人並みから外れているというだけで、笑い者にして良い理由にはならないのに。



"───なあ、アジア系って野蛮人が多いってほんとか?"



かつてはマナも、差別を受けた経験があった。

出身はアメリカ、血は日本。

親に捨てられた過去、孤児院育ち。

珍しい生い立ちを哀れむ人もいれば、嘲る人もいた。



"───マナ、一緒に遊ぼう。"

"───マナ、一緒に帰ろう。"


"───また明日ね、マナ。"

"───ずっと仲良しでいようね、マナ。"



近所の友達と公園で遊んだり、学校のクラスメイトと寄り道して帰ったり。

同じ年頃の子供達は、隔てなく仲良くしてくれた。

けれど、彼らの親もそうであるとは限らなかった。



"───あの子とは遊んじゃ駄目よ。"



肌の色が違うというだけでバイ菌扱い。

施設で暮らしているというだけで下種呼ばわり。

直接手を出してくるような乱暴な大人も、一人や二人じゃなかった。


食事をする時も、勉強をする時も。

晴れた日に外を散歩していただけの時も、通りすがりの犬や猫を可愛いなあと眺めていただけの時も。

いつも何となく肩身が狭くて、"心の底から楽しむ"を出来なかった。


好きに物を選ぶ権利も、意見を主張する資格も。誰かを愛し愛される才能も、価値も。

生まれ持たず、生きて与えられず、この世界に存在していい許しさえ授かった気がしない。

親に捨てられたからそうなってしまったのか、元々そうだったから捨てられたのかも分からない。

自分が何者であるのか、自分の方が知らない。



"みんな、優しくていい人だ。"

"いいや駄目だ。おれは、醜いから。醜い顔をしてるから、人が見たら、嫌な気持ちになるんだ。"



マナにはジュリアンの気持ちが少しだけ解った。

辛さの度合いも境遇も異なるけれど、根っこの部分が二人は似ているのだ。


世の中には確かに悪い人もいるけれど、良い人だってたくさんいる。

彼らの温もりに一度でも触れてしまえば、また求めずにはいられない。


どんなに人に蔑まれても、自らは人を憎みきれず。

傍観者のふりをしながら、我関せずに徹しきれず。

本当の本当は寂しくて、愛されたくて。

誰かが心のドアをノックしてくれるのを、密かに待っていることを。



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