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オルクス  作者: 和達譲
Side:A
44/326

Episode08-3:彼女の背中には翼がある



「───キオラ?」



ふと、キオラが立ち止まって動かなくなった。


目的地までは、まだ幾分の距離がある。辺りに通行を妨げる障害物もない。

なのに、本当に何もない道端のど真ん中で、彼女は棒のように突然動かなくなってしまった。



「キオラ、どうした?」



異変に気付いたアンリが声を掛けても、彼女は返事をしなかった。

髪と同じ色の目を見開いて、じっと前を見据えるのみ。


一体どうしたというのか。

困ったアンリは、催促する前に彼女の視線の先を辿ってみた。

すると、前方からこちらに向かって来る一台の乗用車が目に入った。

一見なんの変哲もなさそうな車に見えるが、制限速度を少しオーバーして走行しているようだった。


その車が二人の横を通り過ぎた刹那。

キオラはすかさずUターンし、車の後を追い掛けていった。

キオラが地面を蹴った瞬間、風に靡いた彼女の髪がアンリの鼻先を掠めた。


なにが起きたんだ。

とっさに反応できなかったアンリも一拍遅れて振り返ると、キオラの背中は早くも三分の一ほどに小さくなっていた。

他の通行人達をするりするりと躱しながら駆けてゆく様は、まるで風を裂く弾丸。もはや彼女自身が風と言っても良かった。



「待っ────」



アンリも慌ててキオラに続くも、二人の距離は一向に縮まらない。

アンリが遅いのではない。キオラが速すぎるのだ。

スポーツは不得手を自称し、自らの鈍さを恥じてさえいた彼女はどこへやら。

あっという間に先程の車を追い抜き、それでもまだ加速をやめない。



「(まさか)」



アンリの悪い予感は的中した。

がくんと車線から飛び出した車が、速度を維持したまま弓なりに左へ逸れていったのだ。

車の行く手には小さな商店と、白いポスト。

軒先には、5歳ほどの男の子が一人立っている。


どこからともなく悲鳴が湧く。

往来は途切れ、人々は蜘蛛の子を散らすように商店の側から離れていく。

しかし、ポストの影に隠れてしまっている男の子の存在に気付く者はない。

誰しもが本能的に我が身を優先させ、恐怖で狭まった視野に小さな彼は映らなかった。



「───ッ走れ!!!」



溢れ返る人波に揉まれながらアンリは叫んだ。

男の子はびくりと肩を揺らしたが、自らに迫る危機を理解するには至らなかった。


車が迫る。

男の子が手にしていたアイスクリームが、音を立てて地面に落ちる。

男の子の視界から、車以外の全てが消える。


駄目だ。間に合わない。

半ば諦めつつも、アンリは遠く離れた男の子に向かって必死に手を伸ばした。



誰のものとも分からない、一際甲高い女の悲鳴が残響する。

人波を押し退けた向こうには、更に小さくなったキオラの背中と、風に飛ばされた彼女の帽子があった。

思わず足を止めたアンリは、脊髄反射で帽子をキャッチした。


タイアのスリップ音が轟く。

キオラは躊躇なく車の前に飛び出すと、走り様に低く右腕を広げ、男の子を掬い上げた。

男の子は呆然としたままキオラの脇に抱えられ、キオラは次の一歩を大きく踏み出した。


重力に従って、男の子ともどもキオラの体が前傾していく。

キオラは男の子を胸に抱え直し、彼の頭と背中を両腕でしっかりカバーして、横向きに倒れた。


抉るような曲線を描いて現れた車が、サイドミラーの一部をポストに激突させる。

その破片はキオラにも降りかかったが、間一髪のところで接触は免れた。


キオラ達の転倒と、車が商店に突っ込んでいったタイミングはほぼ同時だった。

コンマ数秒でも救出が遅れていたら、男の子は間違いなく即死しただろうし、キオラ自身も巻き添えを食っただろう。


まさに奇跡だった。

車の異変を察知してからでは、きっと間に合わなかった。

随分前から行動を起こしていたキオラだからこそ、この奇跡を引き起こすことが叶ったのだ。




「───えらいことになったな」


「───おい大丈夫か!」


「───すごい勢いで突っ込んでったぞ」


「───中の様子は?」


「───怪我人こっちに集めてくれ!」



衝撃の影響で周囲に白煙が上り始めると、商店の中も沸々と騒がしくなっていった。

店構えは酷く損壊してしまったが、店内にいた人達に大事はないようだった。


ただただ驚きに放心する者、手助けをしようにも何処から処理すれば良いのか頭が回らない者。

事故現場を前に狼狽える人々が四方を取り囲む中、唯一思考の停止していないアンリはキオラの元へ駆け寄っていった。


救急車や警察への連絡は人任せでいい。

これだけ野次馬がいれば、他の誰かが代わりにやってくれるだろう。

今のアンリにとっては、事故の規模や被害者の数などは二の次で、とにかく想い人の安否が心配だった。




「───キオラ!!!」



男の子を抱えたまま、キオラは死んだように地面に伏せていた。

アンリが大声で呼び掛けると、男の子が先に反応して顔を上げた。

次いでキオラもゆっくりと上体を起こし、男の子の体を離してやった。



「ぼうや、大丈夫かい?

どこか痛いところ、苦しいところはある?」



男の子の煤けた頬を撫でながら、キオラは優しく問い掛けた。

男の子は特に怯えも泣き出しもせず、ぼんやりと頷いた。

あまりに一瞬の出来事だったので、未だ状況を分かっていないようだ。


それは偏に、キオラが身を挺して守ったおかげ。

彼女が命懸けで助けに向かったからこそ、男の子は少しの恐怖も痛みを感じるまでもなく、完璧な無傷で済んだのである。




「───サイラス!サイラスどこにいるの!?」



そこへ、一人の若い女性が大童で店内から出て来た。

"サイラス"という人物を探しているようで、事故の残骸などには目もくれない。

白いスカートが汚れても、煙を吸って噎せ返っても、足場の悪い軒先を大股で越えてくる。

やがて女性はキオラと男の子の姿を視界に捉え、はっとした表情で二人に駆け寄っていった。



「ママ!」



女性に気付いた男の子は、たちまち明るい笑顔になって叫んだ。

どうやら"サイラス"とは彼のことで、あの女性は彼の母親らしい。

母親の買い物が終えるのを、サイラスはアイスを食べながら待っていたようだ。



「ああ、サイラス……!良かった……!」



立ち上がって両手を広げたサイラスを、母は思い切り抱きしめて涙を流した。

サイラスも母をそっと抱きしめ返し、穏やかに言葉を掛けた。



「なかないで、おかあさん。ぼく、どこもいたくないよ」


「本当?どこも怪我してない?血は?本当に痛いとこない?」


「ない。だけど……」


「だけど?」


「かってくれたアイス、おとしちゃった。ごめんなさい」



そう言うとサイラスは、ここに来て初めて悲しそうに肩を落とした。

母は"アイスなんて幾らでも買ってあげるわ"と泣きながら笑い、傍観していたキオラとアンリもつられて笑ってしまった。




「あの……。お姉さん、お兄さん」



サイラスの額に一つキスをしてから、母はキオラ達の側まで這っていった。



「この子を、助けて頂いて、有難うございました。本当に、なんとお礼を言ったらいいか……」



母はキオラとアンリの二人に対して、土下座に近いほど深々と頭を下げた。

ここは自分の出る幕でないと判断したアンリは、黙って成り行きを見守った。



「いいえ。サイラスくんに怪我がなくて良かったです。

……ただ、ヴィノクロフはとても治安のいい街ですけど、こういった不慮の事故がないとも限らないので。出来るだけ、お子さんの傍から離れないであげてください」


「は、はい。申し訳ありません。サイラスも、一人にしてごめんね」


「ううん。このひとがぎゅってしてくれたから、ぼくはだいじょうぶ。

でも明日からは、もうやめるね」


「え?」


「ぼくが一緒に行ってあげなかったから、ママさみしかったんでしょ?

だから、明日からはもうしない。お買いもののときは、アイスかわない。

ママとずっと一緒にいてあげるから、ママもうさみしくないよ」



自分と離れた寂しさから母は泣いているのだと感じたらしいサイラスは、あやすように彼女の頭を撫でてやった。

年頃の割に、サイラスはなかなか肝の据わった子供のようだ。




「───ええ、そうです。はい。

怪我人は……、幸い重傷者はいないようなので……、はい。運転手の方は────」



サイラス自身に加え、彼の保護者も無事だったとなれば、もう親子の心配は要らなそうだ。

キオラがほっと安堵の息をつくと、店内から更に一人青年が出て来た。

青年は携帯電話を耳に当てたまま、店内と事故現場とを何度か行き来した。

言動から察するに、病院へ救急搬送の連絡を入れているのだろう。


青年によると、事故を起こした車の運転手は70代男性。

持病は特にないとのことだが、運転中にぷつりと意識が飛んでしまい、クラッシュの瞬間は完全に失神していたらしい。

商店に突っ込んだショックで目覚めた後は、近隣住民達による手当てと事情聴取に応じている。受け答えも正常だという。


結果として、張本人が一番の重傷を負ったわけだが、それでも腕の骨折と顔の裂傷程度で済んだ。

死者が出なかったのは不幸中の幸い。ただの交通事故とはいえ、滅多にトラブルの発生しないヴィノクロフでは一大事だった。




「───もう行って大丈夫ですよ」


「え?でもお姉さんが────」


「彼女は俺が診ますから。お二人は早く静かなところへ。いつまでも子供に事故の空気を吸わせるのは良くない」


「あ……。すみません、ありがとうございます。

本当に、本当にお世話になりました」



アンリに促された母は、改めてキオラとアンリに頭を下げた。

サイラスは何も言わずにアンリを見上げ、アンリは彼の目線に合わせてしゃがんだ。



「おにいさんは、おねえさんの恋人なの」


「……いいや。でも大事な人」


「おねえさん、だいじょぶなの」


「大丈夫。俺が付いてるから。

君はお母さんと居てあげて。手を繋いで。はぐれないように」


「……わかった」



アンリと男の約束をしたサイラスは、最後にもう一度だけキオラに近付いてハグをした。



「おねえさん、ありがとう。げんきでね」


「……うん。サイラスくんとお母さんも、元気でね」



後ろ髪引かれた様子ながらも、サイラスは母に手を引かれて去っていった。

親子を見送ってから、アンリは再びキオラに向き合った。



「遅くなった。無事かキオラ」


「あー……はは。酷い格好でしょ。全身煤だらけだし、服もボロボロだ。

でも大丈夫だよ。ちゃんと受け身はとったし、大した怪我は────」


「自己判断は良くない、キオラ。大した怪我じゃないって、ここ血が出てるじゃないか」



本人は何事もなかったように笑っているが、転倒の際に腕を強く擦りむいたらしい。

疎らに穴の空いたそこからは血が滲んでいた。



「応急処置くらいしか出来んが、手当てしてやる。袖捲って見せてくれ」



キオラは首を振った。



「手当ては必要ない」



おもむろにジャージの前を開けたキオラは、右腕だけを袖から抜いて、アンリに差し出してみせた。

患部をよく見てみると、破けたインナーから覗く傷口はすっかり消えてなくなっていた。



「アンリも知ってるでしょ?私、怪我の治りだけは人一倍良いみたいだから。

もうなんともないよ。痛みも引いてる」


「そう、だった気もするが……。

だとしても、完治するのが早過ぎやしないか。怪我をしたのはついさっきなのに、もう痂すら残ってないなんて」


「最近は特にね。前はもう少し時間食ったはずなんけど……。こういう、ちょっとした傷なら、数分もしない内に消えるようになった」



自らの掌に刻まれた生命線を見詰めながら、キオラは自嘲するように目を細めた。



「不思議だよね。持病以外なら特に病気もしたことないし……。

なんの取り柄もない私に、神様が情けでくれた力なのかな。これって」



キオラの回復力が人並み外れているのは、今に始まったことではない。

本人も言うように、昔からあっという間に怪我を治してしまうのだ。これといった処置を施さずとも、自然治癒で。


しかし以前までと比べて、早さが桁違いに高まっている。

傷を負っても瞬時に塞がり、跡も残らないとなれば、初めから無傷であるのと変わらない。

確かなのは、その瞬間は痛みを感じるということだけ。


謎が深まる。

年若い分、新陳代謝が活発なのは頷けるが、それとこれとは訳が違う気がする。

日毎にキオラの特異体質は上書きされている。

生まれついての根深い病は、今も彼女の体を蝕み続けているというのに。



「だとしても、頼むからあまり無茶をしないでくれ。

いくら治りが早いとはいえ、痛みを感じないわけじゃないし、不死身じゃないんだ。

今回は奇跡的に無事で済んだから良いものを、一歩間違えれば大変なことになってたんだぞ」



ジャージを着直すキオラの髪を手櫛で整えてやってから、アンリは拾った帽子を彼女の頭に被せた。


決して声を荒げず、手付きも壊れ物を扱うように優しい。

一見するといつも通りのアンリだが、冷静なのは外見だけ。内心では静かな怒りに震えていた。

無鉄砲に行動を起こしたキオラにも、何の役にも立てなかった自分自身に対しても。



「ごめん、心配かけて。自分でも、無茶なことしたって分かってる。

けど───。考える間もなく、勝手に体が動いちゃったんだ。とにかく、無我夢中で……。

だから、どうやってサイラスくんを助けたのかも、正直記憶にない」



アンリの怒りは尤もだと理解しているキオラは、自らの正当性を主張することはしなかった。

ただし、落ち度は認めても、過ちを犯した自覚はあまり無いようだった。



「そういえば、随分前から車の異変に気付いていたよな。

あれは一体なんだったんだ?君はあの時なにを見て、なにを感じて、とっさに動いた?」


「なんで、だろう。わからない。

ただ、あの時なにか、すごく嫌な感じが、して……」



キオラは額に手を当て、苦しげに眉を寄せた。



「おかしいな、なんで……。思い出せない」



当時の状況を顧みようと思考を巡らせたものの、結局キオラは答えを見出だせなかった。

本能の赴くまま、俗にいうトランス状態であったがために、最中の思考回路だけストップしていたのかもしれない。



「いや、いい。なんであれ君の行いは気高かった。任せきりにして悪かったな」


「謝らないでよ。私が勝手に突っ走っちゃったんだから。

……まあ、お互い大事なく済んだわけだし、さ。終わり良ければってことで、許してくれる?」


「許すも何も、俺は怒ってないよ」


「嘘だあ」


「本当だよ。立てるか?」


「ありがと」



飲み込もうにも落ちていかない違和感が、しぶとくアンリの胸に閊える。


あの時、サイラス少年を救出にいった時のキオラは、まるで別人のようだった。

人並みには身体能力を備えている彼女だが、あの俊敏さは有り得ない。

なにか特別な訓練でも受けていない限り、とっさの行動であれだけの動きをするのは不可能だ。


仮に、野性的な勘が働いたとする。

不吉な前兆を運良く察知できたなら、誰より早く先手を打てる。

いつにない俊敏さを発揮できたのも、火事場の馬鹿力だったのかもしれない。


全てのことは、突き詰めればきっと説明がつく。

聡明で視野の広いキオラならば、不自然なれど不思議な話ではない。

それでもアンリは、やっぱり腑に落ちなかった。



「この後どうしようか。家まで直行する?」


「その前に、まずは病院だ」


「ええ?大丈夫だって」


「君が大丈夫でも俺が大丈夫じゃないんだ。本当に無事だっていう証明がないと安心できない」


「遅くなっちゃうよ?」


「ご両親には俺から連絡しておく。つべこべ言わずに行くぞ」



車を追って踵を返した彼女は、今までにない表情を浮かべていた。

なにかが彼女の体を操ったような、乗り移ったような。

彼女の雰囲気が一変した瞬間を、アンリは確かに目にした。



「心配性だなあ、アンリは」



あれは、俺の知るキオラではない。







『I heard somebody calling.』



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