Episode08-2:彼女の背中には翼がある
「───いい時間になったし、そろそろ行こうか。どこかで昼食にしよう」
「うん。アンリは何が食べたい?」
「俺は何でも構わないよ。キオラの食べたいものが食べたい」
「そう?やった。じゃあそうだなー、二人とも美味しく食べられるものといえば────」
拭えない不信感を抱きながらも、アンリは出来るだけ当たり障りのない会話に努め、キオラとの一時を大切に過ごそうと心掛けた。
公園を出た後は近場のカフェで昼食をとり、そこでもじっくり話をした。
今まで会えなかった分を取り戻すように。
途中、聞き役に回るばかりのアンリにキオラが首を傾げる場面もあったが、彼女は無理に言及しなかった。
自分の話をしたがらないのには、きっと訳があるのだろうと察したからだ。
アンリの方から気兼ねなく切り出せるのは、お互いが出会った時の話や、旅先で見かけた珍しい物の話くらい。
本当は父や神隠しのことで頭がいっぱいでも、それをキオラに悟られてはいけない。余計な勘繰りをさせないためにも、余計なトラブルに巻き込まないためにも。
今のアンリに出来るのは、取るに足らない話題を、上っ面の笑顔で提供してやるだけだった。
「───アンリ?アンリ、大丈夫?」
「ん……?ああ、ごめん。聞いてるよ。それで?」
「……やっぱり、長旅で疲れてるんじゃない?早めに帰って休んだ方が────」
「そんなことないよ。君に会えるのを楽しみに今日まで過ごしてきたんだ。疲れなんかとっくに吹っ飛んだよ」
「本当に?無理してない?」
「ああ。それより、さっきの続き。聞かせてくれ」
以前のように、心から笑い合えなくなってしまった二人。
お互いが気付いていた。どうしたものかと悩みもしていた。
だが二人は、二人とも、開いてしまった距離を積極的に詰めようとはしなかった。
アンリもキオラも、相手の事情を慮るばかりに、ここぞの一歩がなかなか踏み出せない性分だった。
もどかしくとも、相手を傷付けるくらいなら、自分が傷付くくらいならと、踏み出す勇気より身を引く自制を選んできた。
尊重し合っているからこそ、平行線の仲を脱却できなかった。
あの時、自分が躊躇しなければ。自分に正直になっていれば。
後から悔いても、二度と時間は戻らないというのに。
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PM5:08。
朱く色付き始めた空に促されるようにカフェを出た二人は、別れる前にキオラの実家へ寄ることにした。
久々にご両親も交えて会食などどうかと、アンリが提案したのだ。
路線バスで国道を抜け、残りの小路を徒歩で行く。
目的地が迫るにつれ、二人の足取りは段々と重くなっていった。
別れの時が近い。
次また会えるのは、果たして何日、何ヶ月先になるだろうか。
こんなに寂しさを覚えてしまうのは、きっと自分だけに違いない。
互いにそう思いながら、何気ない振りをしている。
当たり前の体でいながら、一分一秒を噛み締めている。
「ご両親とお会いするのも随分久しぶりな気がするな。変わりないか?」
「うん。私なんかよりずっと元気だよ。どっちが若者か分からないくらい。
この間も、アンリがお土産に送ってくれたお菓子、喜んで食べてた」
「そうか。大したものじゃないが、気に入ってもらえたなら良かった」
キオラの髪が夕陽に照らされて、黄金色に輝く。
今は帽子を被り直したから良いが、カフェで素顔を晒していた時には、店内の誰しもが彼女に注目していた。
人の視線を集めやすい、興味を持たれやすいという意味ではアンリも同じ。
容姿が美しく生まれた人間ならば、人生必ず一度は通る道だ。
ただしキオラの場合、純粋な恋慕や憧憬以外にも注意を引き寄せてしまうことがあるから、厄介なのだ。
彼女の独特な気配を前には、老若男女問わず惹き付けられずにいられない。
それは時に悪意を、衝動を伴わせ、キオラやキオラの周囲に対して牙を剥かせることもある。
キオラが常に控えめでいようとするのは、これが理由だった。
特にアンリが傍にいる時は用心した。
自分が目立ってしまうことで、アンリにまで危害が及ばないように。
「そういえば、ヴィクトールとはあれきり一度も会ってないんでしょう?
連絡も全然とってないみたいだし、寂しいって言ってたよ」
「……そうだな。
俺と積極的にやり取りしてくれるのは君くらいだから、ついヴィクトールのことは後回しにしてしまうんだ」
「あはは。本人が聞いたら益々すねちゃうね、今の台詞。
……手が空いた時で構わないから、今度かわいそうな彼にメールの一通くらいは送ってあげて」
「キオラに頼まれたら断れないな。そうするよ」
ヴィクトールとは、キオラの幼馴染みの青年である。
血縁こそないが、幼少期から付き合ってきた彼のことを、キオラは兄のように慕っている。
アンリもキオラを介してヴィクトールと知り合ったが、残念ながらアンリはキオラほど彼に好意を持っていない。
彼自身の人柄が気に食わない以前に、彼が父の愛弟子と言われた人物だからだ。
「最近のヴィクトールはすごいよ。
この前なんて、木登りして降りられなくなっちゃった男の子を、いとも簡単に助けてみせたんだ。
その時の身の熟しが曲芸師みたいにしなやかでさ、周りにいた人達は拍手喝采だった。
昔は運動音痴だって言ってたのに、いつの間にあんなに身軽になったんだろう」
アンリの父・フェリックスは、部下は多く抱えたものの、弟子はとらない主義だった。
ところが、ヴィクトールだけは眼鏡に適ったようで、フェリックス自ら傘下に加わるよう頭を下げたという。
ヴィクトールの一体なにに、それほどの期待を寄せていたのかは不明だが、フェリックスはヴィクトールを誰より信頼していたようだった。
ヴィクトールもまたフェリックスに心からの敬服を示し、皮肉にも二人の関係は、息子のアンリを差し置くほどに良好であった。
そして現在。
急逝したフェリックスの遺言に従い、ヴィクトールは27歳という異例の若さで、キングスコート次期主席に就任した。
これにより、フェリックスの率いていた研究チームも存続が決定。弟子のヴィクトールを筆頭とした新体制で、活動は無事再開された。
今や、アンリすらも凌駕するほどの大物となってしまったヴィクトール。
キングスコートの長になったということは、シグリムの、この国の王になったも同じ。
彼が一つ声を上げれば、全州の主席は一堂に会し、彼の希望に添うよう努めなければならない。
総勢14名の主席は、互いに干渉しないこと、互いの治世に横から口出ししないことを原則として守っている。
だが創設者のフェリックスだけは、この枠に当て嵌まらない。
とどのつまり、彼の絶対的な権限は、本人亡き今ヴィクトールに全て明け渡されたのである。
「───アンリ?顔色良くないみたいだけど、大丈夫?少し休憩しようか?」
キオラが心配そうにアンリの顔を覗き込む。
ヴィクトールの名前が出た途端、アンリの意識はそちらに持っていかれて、ついキオラの話に相槌を打つのを忘れてしまったのだ。
はっと我に返ったアンリは、動揺を悟られまいと取り繕った。
「あ───。ああ、すまない。ご両親になんと挨拶しようか考えていたんだ。
面白いものが好きなお二人のために、笑える話を用意しておこうと思ってね」
笑いながら、アンリはキオラの髪を優しく手で払った。
「そう……。アンリが来てくれるだけでも、二人とも十分嬉しいと思うけどね」
"心配しないで。先生の代わりは、俺がきっちり務めるよ"。
"先生亡き今、彼女の闇を診てやれるのは、世界でただ一人"。
"俺しかいないのだからね"。
フェリックスがヴィクトールに委ねたものの中には、キオラの存在も含まれていた。
かつては幼馴染みとして、一人の友として。
大人になった今では、彼女の新しい主治医として。変わらず側に居続けている。
キオラとヴィクトールは、恋人同士ではない。
けれど彼等の間には特別な繋がりがある。
所詮ただの友人どまりである自分には介入できない絆が、二人にはある。
それが、アンリにはとても悔しかった。
"お前はいつか、このキングスコートを統べる頭となる"。
"人の上に立つからには、慢心も怯弱も許されない"。
"教育は与えよう。投資を認めよう。粗相も大目に見よう"。
"だが、私の歩みを妨げたならば、いかな努力も詮なく散ると知れ"。
己が進退にはよくよく留意し、父の期待を裏切ってくれるな"。
父は息子に、たくさんのものを遺した。
一生暮らしに不自由することのない、大きな力を授けた。
しかしアンリが本当に欲しかったものは、金でも権力でも、名声でもなかった。
無気力で無関心だった頃のアンリに生きる希望をくれたのは、実の父でも母でもなく、出会ったばかりの幼い少女だった。
キオラ。
彼女こそが、アンリにとっての全てだった。
いつか彼女が、自分の手を取ってくれたら。自分だけに愛を囁いてくれたなら。
心中では淡い期待を抱いているけれど、きっと叶わないだろうことをアンリは自覚している。
キオラが愛しているのは、自分ではなくヴィクトールであり。ヴィクトールもまた、キオラを心酔するまでに溺愛している。
二人が結ばれるのは、時間の問題でしかないのだと。
"この意味、賢い君なら解るよね?"。
だから、いつかキオラが、ヴィクトールを生涯の伴侶とする決断を下した時。
自分は祝福をしてやらなければならない。
初恋は実らない。
俺は君のために、上手に笑えるだろうか。




