Episode07-3:鋭い瞳に鮮烈な朱が宿る
「───だーめだ。まるっきり無視ときた。
私もあんまり気が長い方じゃないんだけどな」
ふと立ち上がったシャオが、溜め息混じりに両手を挙げてアンリ達に振り返る。
「もっと自由にやらせてくれれば、もっと手短に口を割らせることも出来るんだけどね?」
そう言ってシャオは、左手の親指を自分の首に宛がった。
真横に線を引くように示してみせたポーズは、いわゆる首斬りの意。
つまりシャオは、脅迫もしくは暴力に訴えて吐かせる方が簡単だろうと、無言でアンリに意見しているのだ。
「だめだよそんなの。抵抗してないんだから、こっちも穏便にいこう」
対してマナは、一方的にいたぶるのは良くないと冷静に反論した。
「まあ、銃でも持ってるというなら話は別なんだがな」
アンリはシャオと犯人の元へ歩み寄っていった。
「苛立つのは解るが、シャオ。ここはマナの言う通り、出来るだけ穏便に済ませたい。抑えてくれ」
「じゃどーすんの?さっきのブタに引き渡してやんのか、それとも警察まで届けてやる?
どっちも面倒臭そうだから、私はこのまま全部放置して行きたいけどね」
「警察には連絡しなくていい。少し、彼女と話をしてみたい」
アンリの言葉に反応したのか、彼女もとい犯人が僅かに面を上げる。
シャオからは何を言われても取り合わなかったのに、アンリの言うことには一応の聞く耳を持つようだ。
「ふーん……。ま、いいや。リーダーは君だ。考えがあるというなら従うさ」
シャオは面白くなさそうに鼻を鳴らしつつ、やむを得まいと一人その場を離れていった。
アンリは側にあった自動販売機でミネラルウォーターを一本購入し、犯人の目の前で膝を折った。
「喉、渇いてるだろ」
犯人と距離を縮めて、アンリはペットボトルを差し出した。
犯人は帽子の鍔から鋭い瞳を覗かせると、低いトーンで呟いた。
「施してやってるつもり?やめてよ。半端に同情されても迷惑なだけ。
あんたみたいなタイプ、心底嫌いだわ」
ようやくアンリと目を合わせた犯人は、飢えた獣のような顔をしていた。
黄昏色の瞳は陰り、曇天色の頬は泥で汚れ、砂塵色の唇は端が切れて、血が滲んでいる。
けれど、それでも彼女は清廉に見えた。
悪ぶってはいるけれど、心底まで悪に染まりきってはいない。
全身から針を突き出しているようで、内に秘めた本心はきっと丸い。
何より声が、純真そのものに澄んでいて、美しかった。
「警察に突き出すってんなら連れてけばいいし、そうじゃないならさっさと逃がしてよ」
「言い分を聞いてやろうというのに、ずいぶんと行儀の良いことだな?」
アンリは差し出したペットボトルを一旦引っ込め、地面に置いた。
犯人の女は嫌みっぽく鼻で笑うと、真正面からアンリを睨んだ。
「あんたらは善いことしたつもりでいるんだろうけど、私一人捕まえたところで無駄だから。ゴロツキを一匹やっつけたくらいで、この町の治安が良くなったりしないわ」
「ゴロツキね。他にも仲間がいるのか?」
「仲間じゃないわ。けど、似たようなのはそこらにいっぱいいる。
関係ないくせに、説教垂れてくるだけの奴もいっぱいいる。
……あんたみたいに常識ぶって、上から目線で絡んでくる大人はいっぱいいるのに、誰も本気で止めようとしない。
あんまり深く関わって、責任持たされることにでもなったら面倒だから、みんな遠巻きに喚くだけなのよ」
黙ってアンリ達のやり取りを見守るマナは、女の言う現実を想像して表情を歪めた。
シャオは素知らぬ振りで煙草を吹かしているが、耳ではしっかり女の話を聞いている。
「あんただって、本気で私をどうこうしようってんじゃないでしょ。
ただ見て見ぬふりをするのが嫌だから、とりあえず行動しただけ。
あんたの自己満足にあたしを巻き込まないで。ほっといてよ」
早口にそう捲し立てると、女は再び俯いて自分の衿元をぎゅっと掴んだ。
彼女にとって、このような事態になるのは今回が初めてではない。
これまでにも何度か、スリや万引きに失敗して、是非なく人と関わったことがあった。
パン屋でパンを盗んだ時には、通りすがりの一般人に捕まってしまい、店の主人に差し出された。
観光客と思しき男の荷物をスった時には、その土地に馴染みがなかったこともあり、逃げ道を見失って袋小路に入ってしまった。
そして、結局捕まった。
どちらも警察沙汰にはならずに済んだが、相応の報いは受けた。
被害者達には罵声を浴びせかけられ、胸倉を掴まれ、殴り飛ばされた。
時には、無関係な野次馬でさえ、どさくさに紛れて唾を吐いていくこともあった。
捕物劇の始終を面白がって撮影する輩もいた。
その度に女は酷く惨めな思いをしたが、自分のしでかした咎への罰ならと、往生際まで抵抗はしなかった。
むしろ、それ以上に不快だったのは、優しく声をかけてくる者達の方だった。
罰を受け、身も心もボロボロになって漸く解放された頃に、彼らは音もなくやって来る。
"こんなことをしていても君のためにならない"
"犯罪に手を染めるのはもうやめて、真っ当に生きるべきだ" と。
一見すると女の身を案じた親切のようだったが、女にはそう思えなかった。
ためにならないなどと、そんなことは端から承知している。
真っ当に生きろと言うのなら、どうすればまともに生きられるのか教えてほしい。
誰だって、最初から望んで盗みを働いたりしない。
ただ、他にやり方を知らないから。そうすることでしか命を繋ぎ止める方法を知らないから、仕方なく、そうするしかないだけ。
罪を犯すなと言うなら、そうせずに済む方法を示してよ。
普通の人みたいに、普通に働いて、普通に食べて寝て、普通に生きるためには、まずどうしたらいいのか教えてよ。
具体的な教授は一切ないくせに、ああするべきこうするべきと、ただ高いところから口を出すだけ。
無責任な発破をかけるだけで、決して手を差し延べてはくれない。
女には、それがとても嫌だった。
最初は優しさと感じたけれど、次第に空虚で無意味なものであると気付いてしまった。
所詮は他人のくせに。
本当はどうでもいいと思っているくせに。
彼女にとっては、蔑んだり嬲ってきたりする横暴な者達よりも、彼らの方がずっと忌むべき存在だったのである。
「───そうだな。確かにこれは、俺の自己満足だ。
君を見逃したら、俺は犯罪の片棒を担いだも同然。だから捕まえにきた」
「………。」
「でも俺は、君を警察には引き渡さない。このまま逃がしてやるつもりもない」
「……なによ。回りくどい言い方はやめてよ。はっきり言え」
アンリは片膝を地面に着き、女に向かって右手を差し延べた。
「俺達と一緒に来る気はないか?」
女は驚いて目を丸め、あんぐりと口を開けた。
「なに言ってんの、あんた。馬鹿じゃない。
どこに、どこの世界に、好き好んでゴロツキを連れたがる馬鹿がいるのよ」
「馬鹿ならここにいるさ。
君さえ嫌でなければ、俺は君を連れて行きたい」
淡々と言ってのけるアンリを、女は信じられないといった様子で見詰める。
「あんた、おかしいよ。そんなことして、あんたに何の得があるっていうの。
第一、そんな話急すぎて直ぐには────」
「急なのは当然だ。いつまでも呑気にしていれば、被害に遭った男か警察が嗅ぎ付けて此処へやって来るかもしれない。
さあ、どうする?君は逃げられない。俺達が逃がさないからな。
このまま不貞腐れて同じことを繰り返すか、良くも悪くも変化の道を行くか。
選ばせてやるから、好きな方を言え」
言葉尻にアンリが帽子の鍔を摘まみ、勢いよく上に引っ剥がすと、女の素顔が露になった。
鮮やかなオレンジの髪。
自分で散髪しているのか、不揃いの毛先からは微かに汗の匂いがした。
女の瞳に、彼の赤が映し出される。
途端に影が晴れていき、女の虹彩に本来の煌めきが戻っていった。
"選ばせてやるから、好きな方を言え"
女は視線を彷徨わせ、下唇を噛み締め、何度も自分の心に問い掛けた。
そして出た答えは、先程よりも凛とした声で紡がれた。
「ここから出して。連れていって、私を。
引っ張り上げてくれるなら、私はあなたの手を離さない」
女の願いに、アンリが微笑む。
女は思わず泣き出してしまいそうなのをぐっと堪え、恐る恐るアンリの手をとった。




