Episode52-12:凸凹
"振る舞ってくれたコーヒーのお礼がしたい"。
適当な理由で、バルドは朔を小休止に誘った。
一瞬ためらった朔は、他ならぬバルドの誘いならばと考え直した。
もし他の誰かが相手であったなら、朔は泣き顔を晒した恥ずかしさと後ろめたさで逃げ出していただろう。
バルドだから、無条件に信頼できる。バルドの前なら、下手に気取ったりせずに済む。
朔以外にも、彼に対して理想の父親像を見ている者は多い。つい先日出会ったばかりのリンチさえもが、その一人だ。
人間としても父親としても失格だなどと貶めているのは、悲しいかな本人だけ。
「───誰もいないな」
「そうですね」
無人のダイニングキッチン。
先程までシンクに並んでいたティーポットやコーヒーメーカーは、用を終えたウルガノがすっかり片付けた後だった。
「お、なんかあるぞ」
六人掛けのテーブルには、白いメモ用紙が伏せられていた。
気付いたバルドが内容を確認すると、ウルガノからのメッセージが綴られていた。
「"ユーガスさんから事情は伺いました。残りは私がお配りしておきましたので、ご安心を"。───だってさ」
「そうですか。押し付けた形になっちゃいました」
「"追伸。私はこれから守衛を行うので、なにかあれば3階まで"……」
「次の当番はウルガノさんだったんですね」
「だな」
メッセージに目を通したバルドは、メモの側に置いてあった紙袋を広げた。
紙袋は神坂達が持参したお菓子で、まだ全種類残っている。
「朔はコーヒー飲めないんだったよな?」
「あ、はい。まだちょっと苦手で……」
「紅茶のことは、俺はよく分からんけど────」
朔は、紅茶なら茶葉を問わず飲めるが、コーヒーはあまり馴染みがない。
バルドは、コーヒーなら道具を問わず煎れられるが、紅茶はあまり詳しくない。
ならば、二者のどちらでもないもの。朔が美味しく頂けて、かつ自分が作れるもの。
ある程度の目星を付けたバルドは、キッチン上段の棚を開けた。
「ホットチョコレート、なら大丈夫だよな?」
取り出したのは、いわゆる板チョコレート。
滞在中に誰かが食べるだろうと東間が買ってきたのを、バルドは把握していたのだ。
「あ、はい。好きです」
「良かった。すぐ出来るから、座って待っててくれ」
「はい……」
バルドに促され、朔はテーブル席の端に腰掛けた。
バルドは冷蔵庫から牛乳も取り出すと、さっそく作業に取り掛かった。かと思いきや。
「朔」
ホットチョコレート作りを始める前に、バルドは私物のハンカチを朔に差し出した。
「!つめたい……」
とりあえず受け取った朔は、予想外の感触に驚いた。
「中に保冷剤いれといたから。できるまでソレ、"ここ"に当てときな」
"ここ"、とバルドは自分の目元を人差し指と中指で叩いた。
「冷やすってことですか?」
「ああ。早めに冷やすと腫れにくいって、前にテレビでやってた」
「へー……。ありがとうございます」
実はバルドは、牛乳と別に保冷剤も冷凍庫から取り出していて、それをハンカチに包んだのだ。
布を一枚隔てたおかげで、冷たすぎない適温が肌に伝わる。
「(きもちいい)」
朔の瞼に保冷剤が触れる。
生理的に帯びた熱と、感情的に高ぶった熱が、じわじわと吸い上げられていく。
朔は心地好さに身を委ね、ほっと溜め息を吐いた。
「───できたな」
しばらくして、電子レンジが鳴った。
ぴくりと肩を揺らした朔は、保冷剤を取って背筋を伸ばした。
バルドは湯気の立つマグカップをシンクへ移動させ、牛乳とチョコレートをスプーンでしっかり掻き混ぜた。
「ほら」
完成したホットチョコレートが、朔の前に差し出される。
「わー、いいにおい……」
朔は立ち上る湯気にすんすんと鼻を鳴らし、うっとりと破顔した。
「熱いから気を付けてな」
「はい。いただきます」
バルドが朔の向かいに座る。
朔は服の袖をグローブ代わりにマグカップを持ち、念入りに冷ましてからホットチョコレートを一口飲んだ。
「おいしいです」
「そうか」
無邪気な朔につられて、バルドも自然と頬が緩む。
「あ、お菓子も一緒に食うか?」
「いいえ。さっき頂きましたので、もう十分です」
「……そうか」
さっき、とは廊下で擦れ違う前のことか、もっとずっと前のことか。
頂いた、とはお菓子のことか、お菓子と紅茶と両方のことか。
やや含みのある朔の返答に、バルドは思考を深めた。
「思ったより平気そうだな」
「え?」
しまった。
心の声をつい表に出してしまい、バルドは焦った。
「ああ、いや。深刻って顔でもなかったが、やっぱりな。泣くほどの何かがあったんだなと、心配した」
「あ……」
「詮索して悪い。ただ……。
お前が嫌じゃなければ、何があったのか、話してみてくれないか?」
バルドと擦れ違った時の朔は、泣き腫らした顔の割に雰囲気は重くなかった。
誰かと喧嘩をしたり、迫られた結果なら、ああも落ち着いた態度ではいられないだろう。
しかし、経緯はどうあれ、涙は涙。
もし悩んでいることがあるなら、幼い女の子一人に抱えさせたくはない。
不躾を承知で、バルドは尋ねずにいられなかった。
「お茶を、したんです」
朔はマグカップをテーブルに置いた。
はぐらかすつもりはないようだ。
「お茶?誰と?」
「ユーガスさんと、ウォレスさん、と。
本当はお二人の分を渡したら直ぐ出ていこうと思ったんですけど、せっかくだから一緒にって、ユーガスさんが言ってくれて。
このお菓子も、その時に頂いて」
「……すまん。そうとも知らずに、ここまで連れて来ちまって」
「いえ、いいえ!これ、すごく美味しいですし!バルドさんとゆっくりお話できて嬉しいです!」
"これ"、と朔はマグカップを持ち上げてみせた。
厚意をかけてもらった手前、お茶ならもう済んでいるとは言い出せなかったのだ。
バルドは失敗したなと項垂れ、ありがとうを返すしかなかった。
「で、話したのか。ウォレスと」
「はい」
「お母さんのことか?」
「……はい」
ウォレスと花藍の過去は、ミリィとアンリ両一行の間で周知されている。
だが当人同士の機微までは不明で、今やウォレスしか真相を語れない。
「ウォレスさんとお母さんは、話に聞いてた以上に仲が良かったらしくて、ウォレスさんは───……。お母さんを、とても大切な人だったと、言ってくれました」
「うん」
「でも、お母さんは死んで、もう会えなくて。
わたしから母親を奪ったのも、ウォレスさんから大切な人を奪ったのも、そもそもは全部、わたしなんだなって思ったら、なんか、涙が止まらなくなって……」
ウォレスとの会話を思い起こしながら、朔はとつとつと話した。
バルドは、どんなに朔の説明が拙くても注意したり訂正したりせず、じっと耳を傾けた。
「その時、ウォレスはなんと言ったんだ?」
「そんなことないって、言ってくれました」
「それだけか?」
「……わたしに会えて嬉しいって。お母さんはきっと幸せだったって」
「それを聞いて、お前はどう思った?」
「ウォレスさんは優しくて、わたしは泣いてるから、そう言うしかないだろうなって……」
「本当にそう思うか?」
「え?」
「泣いてるお前を慰めるために、ウォレスは優しい嘘をついたんだと思うか?」
バルドが朔を真っ直ぐに見詰める。
朔は否定も肯定も難しくて俯いた。
「なんとなくだが、ウォレスがどういう気持ちでそう言ったのか、俺には想像できるよ」
バルドは朔の友人として、朔と同じ年頃の娘がいた身として、ウォレスが抱いたであろう感情を推察した。
「今のお前を見ていれば分かる。お前は深い愛情を受けて育ったんだってな」
「……どうしてですか?」
朔は恐る恐る顔を上げた。
バルドはカードケースを仕舞ったポケットの辺り、心臓の近くに手を当てた。
「人間らしさを持ってるからだ。
ウォレスに悪くて泣いたり、自己嫌悪に苦しんだり……。さっきの、俺達にコーヒーを配ったのだってそうだ。人に優しくしたり、傷付いたり出来る心が、お前にはある」
「そんなのは、人として当たり前のことで────」
「いいや朔。この世に当たり前なんてないんだよ。誰かのためを思うことは、誰にでも出来ることじゃない。
もしそれを当たり前だと本心から言えるなら、それがその人にとって一番の強みってことだ。愛して愛されて、人間らしく成長した証だ」
「あかし……」
朔は自らを優しいとは思えなかったが、愛されて育ったという指摘には納得した。
「お前の言いたいこともよく分かる。たった一人のお母さんを失うのは、言葉にならないくらい、辛くて悲しいことだよな」
「はい……」
「でもな、親っていうのは、自分以上に子供が大事なもんなんだ。子供に先に死なれるっていうのは、自分が死ぬ以上に辛いことなんだよ」
ふとバルドの瞳に陰が落ちる。
今の台詞が単なる説教でないことに気付いた朔は、伝染したように眉を寄せた。
「だから、お前のお母さんが死んで良かったことは絶対になくても、お前が生きていて良かったことは確かだ」
細かいニュアンスは異なれど、ウォレスとバルドの言い分は同じ。
花藍の死を悼むと同時に、朔の無事を喜ばしく思っている。
これからも朔が笑顔で生きていけるように、朔が生きたい世界であるように、願っている。
「お母さんは本当に、わたしがいて、幸せだったと思いますか」
まだまだ子供の朔には、大人の気持ちも、ましてや親としての気持ちも、理解するには余りあるけれど。
「こんなに可愛い娘と一緒で、幸せじゃないわけないだろう」
母を失うくらいなら、自分が代わりに死にたかった。
そう切望してしまうほどの悲しみは、よく知っている。
だから、バルドが負った傷も何となく分かるし、もし自分と花藍の立場が逆だったらの想像もできる。
自分を失った花藍がどんなに悲しむか、理解できる。
「俺も、お前と会えて良かったよ」
朔はまた涙を流した。
今度の涙は、冷やす必要がなかった。




