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オルクス  作者: 和達譲
幕間
322/326

Episode52-10:再会



「───さっきの、仲の良かった友達のこと。おかあさんは、こうも言ってました」



ウォレスの呟きに返答はせず、朔は自らの意見を述べた。

ウォレスは物憂いながらも面を上げたが、今度は朔が俯いていた。



「いつか、また会えることがあったら、まず謝って、お礼を言いたいって」



花藍こと藍子は、存外にも自分を恨んではいなかったらしい。

ウォレスは一先ず安堵した。



「その友達は────」



朔が面を上げる。

藍子と同じ瞳がウォレスを見詰め、藍子に似た声がウォレスの鼓膜を撫でる。



「私にとって、初恋の人だったって」



初恋。初めての恋。話の流れ的に異質なフレーズ。

ウォレスは度肝を抜かれたが、とっさに飲み込んでしまった。

開いた毛穴と色付いた唇が、そんな馬鹿なと拒めなかった証拠。



「初恋……?私にか?」



世間一般の定義は頭に入っている。具体的にどんな状態を指すのかも心得ている。

理解に苦しむのは、その対象が自分であるということだ。


狼狽えるウォレスに駄目押しするように、朔は深く頷いた。



「まさか。私は人に想ってもらえるように出来てない。

聞き間違いか何か……、何かと勘違いしてるんじゃないか?」



朔は首を振った。



「初恋だったって教えてくれたのは一度きりでしたけど、あなたの話はたまにしてくれました。

あなたの話をする時、おかあさんはいつも嬉しそうで、寂しそうでした。

他の誰も、おかあさんにあんな顔をさせる人はいません」



忘れ形見の口から告げられたのは、母に代わった罵倒でも怨言でもなく、埃を被ったラブレターだった。



「おかあさんは、あなたを好きだったんです。

直接伝えることは、叶いませんでしたけど」



藍子はウォレスを好いていた。

人間としても男性としても、出来るだけ長く側にいられることを密かに望んでいた。

伝えなかったのは、自覚したのが遅かったから。せっかく築き上げた関係を、こちらの事情で駄目にしたくなかったから。

当のウォレスにどう思われていたかは、終ぞ知ることも気付くこともなかった。



「ウォレスさんは、どう思っていましたか?」



二つ目の瞼を開かずとも、朔にはウォレスの心情が手に取るように分かった。

分かった上で敢えて、答え合わせしたくて問い掛けた。



「おかあさんを、好きでしたか?」



ウォレスも分かっていた。

虚勢という化けの皮は、独りでに崩壊を始めている。

醜くかろうと卑しかろうと、剥き出しの熱は、もはや抑えが利かない。




「好きだった。ああ。好きだったとも」



まさか彼女の方も、自分を好いていてくれたなんて。



「君のお母様は素晴らしい女性だった。あんなに心の美しい人を、私は他に会ったことがない」



成就していたなら、彼女はどんな風に変わっただろうか。



「好きだった。愛していたんだ」



偽りの母を演じるなと止めたら、聞き入れてくれただろうか。




「生きていてほしかった」



せめて好きだと伝えたかった。とは言わない。言えない。

ただ、生きていてほしかった。自分との縁が切れても、彼女が生きてさえいてくれれば十分だった。


搾り出すような切ない声を漏らして、ウォレスはやる瀬なさそうに頭を抱えた。




『───どれくらいすきだった?』


『あなたの次くらい』



庭の景色を眺めて黄昏れる藍子を、朔はよく目にした。

どうして寂しそうな顔をするのかと尋ねる朔に、藍子はいつも友達の話をした。

別れ別れになってしまったが、かけがえのなかった友達の話を。



『いまでもすき?』


『そうね。時々思い出すくらいには』



朔に好きな人が出来ると、藍子も昔好きだった人の話をした。

初めて本気で愛した人の話。その人は、よく聞かせてくれた友達だった。



『おもいだすとき、なにをおもいだす?』



朔の父親のことは、藍子はあまり教えなかった。

嘘も真も、どちらとも朔にとっては毒となり得る。

せめて分別をつけられる大人になってからと、朔の好奇心が系譜に向かないよう努めた。



『元気にしてるかなって』



朔自身も、あまり強請らなかった。

優しい人だったこと、若くして死んでしまったこと。

藍子の当座凌ぎの作り話を受け取るだけで、紐解こうとはしなかった。



『げんきだとうれしい?』



朔は感じていた。

作り話が嘘でも真でも、自分の父は、母のかつての一番ではないことを。

藍子が想いを馳せる先は天国ではなく、空の向こうなのだと。


『そうね。元気に、静かに、普通に暮らしていてほしい』



藍子は毎日祈っていた。

どうか、あの人だけでも健やかに。

畜生道に落ちるのは、私だけにして。



『それだけ?』



この空の向こうには、きっとあの人がいる。

遠く離れても、生きてさえいれば心の中で繋がれる。

ウォレスが虚しく仰いだ空が、藍子には拠り拠だった。



『ええ。それだけ』



雨も風も雪も、恐ろしい雷でさえ愛おしかった。

あの人もこの景色を見ているだろうかと、車椅子のまま庭に出ては、追懐に胸を焦がした。



『すきだったのに?』



朔は、朔だけは、ずっと前から知っていた。

藍子には、生涯をかけて心に決めた人がいることを。

その人を愛していて、愛してはいけなかったことを。

思い出にするには、あまりに苦くて、辛過ぎることを。




『好きだったからよ』




朔の二つ目の瞼が無意識に開く。

映し出されたウォレスは、淡いブラウンに包まれていた。

奇しくも母、藍子と同じ色だった。




「───どうして泣く」



小さく嗚咽する息遣いが聞こえて、ウォレスは我に返った。



「わ、たし。わたしが、いたから、おかあさん、死んじゃった。わたしのせいで、おかあさんは────」



目元を腕で覆って、朔は咽び泣いた。



「なにを言う。君のせいではない。藍子を追い詰めたのは───」


「わたしが、生まれたから。わたしが生まれたせいで、ウォレスさんはおかあさんと離れ離れになって、わたしと一緒にいたせいで、おかあさんはずっと窮屈で、わたしを守ったせいで……っ。おかあさんは、死にました」



宥めようとするウォレスを無視して、朔は矢継ぎ早に続けた。



「わたしが、おかあさんのぜんぶ、とっちゃった。

世界で一番大好きな人なのに、わたしが、おかあさんの幸せをぜんぶ────」




救えなかった。

ウォレスが後悔していたように、朔も死ぬほど悔やんでいた。

母を害した世界を、母を殺した者達を。なにより、母を母たらしめんと縛ってしまった自分自身を。


自分を育てる役目なんてなければ、人並みの自由くらいはあったかもしれない。

自分を守る使命なんてなければ、命だけは助かったかもしれない。

自分を生んでさえいなければ、愛する人と別れずに済んだかもしれない。


湧きだした"If"は"罪"の数。

ウォレスの存在をはっきりと認識したことで、母も鷺沼藍子という一人の女性に過ぎなかったことを実感した。

やっと受け止めた"最愛の喪失"は、"最悪に近い形"で朔の喉元まで逆流した。




「違う。君は奪ってなどいない」


『───大丈夫。こわがらないで。』



自分の配慮に欠けた言動が、ここまで追い詰めてしまったのか。

ウォレスは辛抱たまらず立ち上がった。



「彼女は、無責任に命を作り出したと懺悔しながらも、喜んでいたんだ。

この子のためなら死ねると言ったほど、君の誕生を喜んでいたんだよ」


『絶対に、あなたを傷付けない。誰にも傷付けさせない。』



まだ朔の涙は止まらない。

ウォレスは朔に近付いていった。



「君のおかげで、彼女は母になれた。与えること、守ることが幸せだと知った。

私には授けてやれなかったものだ」


『あったかい家で、おいしいごはんを食べるの。

いっぱいの愛情をあげるわ。』



ウォレスは朔の頭に恐る恐る手を延ばし、ぎこちなく触れた。

すると朔の涙は少しだけ収まった。



「勝手なことは言えないが、君と過ごした日々はきっと、楽しかったはずだ」


『生まれちゃいけなかったなんて、言わせないから。証明してみせるから。』



ウォレスは朔の前で膝を折り、朔と目線を合わせた。

頑なな腕をそっと外してやると、泣き腫らした赤い目が露になった。



「私も、君と会えて嬉しい」


『私が、あなたを守るわ』



いつぞやの藍子とウォレスの面影が重なる。

あれは、研究所を脱した藍子が、間一髪にプリムローズの町まで逃げ延びた時だ。

人気のない路地で蹲った藍子は、おくるみに包まれた朔を大事に抱えて言った。



『私が、あなたのお母さんになるからね』



私が、あなたの母になる。

これからどうなるか不安でいっぱいで、だけど母としての自覚は既に備わっていた。

あの時の、泣きながら囁く母の笑顔と、目の前にいる強がりの狼が、朔には重なって見えた。



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