Episode52-10:再会
「───さっきの、仲の良かった友達のこと。おかあさんは、こうも言ってました」
ウォレスの呟きに返答はせず、朔は自らの意見を述べた。
ウォレスは物憂いながらも面を上げたが、今度は朔が俯いていた。
「いつか、また会えることがあったら、まず謝って、お礼を言いたいって」
花藍こと藍子は、存外にも自分を恨んではいなかったらしい。
ウォレスは一先ず安堵した。
「その友達は────」
朔が面を上げる。
藍子と同じ瞳がウォレスを見詰め、藍子に似た声がウォレスの鼓膜を撫でる。
「私にとって、初恋の人だったって」
初恋。初めての恋。話の流れ的に異質なフレーズ。
ウォレスは度肝を抜かれたが、とっさに飲み込んでしまった。
開いた毛穴と色付いた唇が、そんな馬鹿なと拒めなかった証拠。
「初恋……?私にか?」
世間一般の定義は頭に入っている。具体的にどんな状態を指すのかも心得ている。
理解に苦しむのは、その対象が自分であるということだ。
狼狽えるウォレスに駄目押しするように、朔は深く頷いた。
「まさか。私は人に想ってもらえるように出来てない。
聞き間違いか何か……、何かと勘違いしてるんじゃないか?」
朔は首を振った。
「初恋だったって教えてくれたのは一度きりでしたけど、あなたの話はたまにしてくれました。
あなたの話をする時、おかあさんはいつも嬉しそうで、寂しそうでした。
他の誰も、おかあさんにあんな顔をさせる人はいません」
忘れ形見の口から告げられたのは、母に代わった罵倒でも怨言でもなく、埃を被ったラブレターだった。
「おかあさんは、あなたを好きだったんです。
直接伝えることは、叶いませんでしたけど」
藍子はウォレスを好いていた。
人間としても男性としても、出来るだけ長く側にいられることを密かに望んでいた。
伝えなかったのは、自覚したのが遅かったから。せっかく築き上げた関係を、こちらの事情で駄目にしたくなかったから。
当のウォレスにどう思われていたかは、終ぞ知ることも気付くこともなかった。
「ウォレスさんは、どう思っていましたか?」
二つ目の瞼を開かずとも、朔にはウォレスの心情が手に取るように分かった。
分かった上で敢えて、答え合わせしたくて問い掛けた。
「おかあさんを、好きでしたか?」
ウォレスも分かっていた。
虚勢という化けの皮は、独りでに崩壊を始めている。
醜くかろうと卑しかろうと、剥き出しの熱は、もはや抑えが利かない。
「好きだった。ああ。好きだったとも」
まさか彼女の方も、自分を好いていてくれたなんて。
「君のお母様は素晴らしい女性だった。あんなに心の美しい人を、私は他に会ったことがない」
成就していたなら、彼女はどんな風に変わっただろうか。
「好きだった。愛していたんだ」
偽りの母を演じるなと止めたら、聞き入れてくれただろうか。
「生きていてほしかった」
せめて好きだと伝えたかった。とは言わない。言えない。
ただ、生きていてほしかった。自分との縁が切れても、彼女が生きてさえいてくれれば十分だった。
搾り出すような切ない声を漏らして、ウォレスはやる瀬なさそうに頭を抱えた。
『───どれくらいすきだった?』
『あなたの次くらい』
庭の景色を眺めて黄昏れる藍子を、朔はよく目にした。
どうして寂しそうな顔をするのかと尋ねる朔に、藍子はいつも友達の話をした。
別れ別れになってしまったが、かけがえのなかった友達の話を。
『いまでもすき?』
『そうね。時々思い出すくらいには』
朔に好きな人が出来ると、藍子も昔好きだった人の話をした。
初めて本気で愛した人の話。その人は、よく聞かせてくれた友達だった。
『おもいだすとき、なにをおもいだす?』
朔の父親のことは、藍子はあまり教えなかった。
嘘も真も、どちらとも朔にとっては毒となり得る。
せめて分別をつけられる大人になってからと、朔の好奇心が系譜に向かないよう努めた。
『元気にしてるかなって』
朔自身も、あまり強請らなかった。
優しい人だったこと、若くして死んでしまったこと。
藍子の当座凌ぎの作り話を受け取るだけで、紐解こうとはしなかった。
『げんきだとうれしい?』
朔は感じていた。
作り話が嘘でも真でも、自分の父は、母のかつての一番ではないことを。
藍子が想いを馳せる先は天国ではなく、空の向こうなのだと。
『そうね。元気に、静かに、普通に暮らしていてほしい』
藍子は毎日祈っていた。
どうか、あの人だけでも健やかに。
畜生道に落ちるのは、私だけにして。
『それだけ?』
この空の向こうには、きっとあの人がいる。
遠く離れても、生きてさえいれば心の中で繋がれる。
ウォレスが虚しく仰いだ空が、藍子には拠り拠だった。
『ええ。それだけ』
雨も風も雪も、恐ろしい雷でさえ愛おしかった。
あの人もこの景色を見ているだろうかと、車椅子のまま庭に出ては、追懐に胸を焦がした。
『すきだったのに?』
朔は、朔だけは、ずっと前から知っていた。
藍子には、生涯をかけて心に決めた人がいることを。
その人を愛していて、愛してはいけなかったことを。
思い出にするには、あまりに苦くて、辛過ぎることを。
『好きだったからよ』
朔の二つ目の瞼が無意識に開く。
映し出されたウォレスは、淡いブラウンに包まれていた。
奇しくも母、藍子と同じ色だった。
「───どうして泣く」
小さく嗚咽する息遣いが聞こえて、ウォレスは我に返った。
「わ、たし。わたしが、いたから、おかあさん、死んじゃった。わたしのせいで、おかあさんは────」
目元を腕で覆って、朔は咽び泣いた。
「なにを言う。君のせいではない。藍子を追い詰めたのは───」
「わたしが、生まれたから。わたしが生まれたせいで、ウォレスさんはおかあさんと離れ離れになって、わたしと一緒にいたせいで、おかあさんはずっと窮屈で、わたしを守ったせいで……っ。おかあさんは、死にました」
宥めようとするウォレスを無視して、朔は矢継ぎ早に続けた。
「わたしが、おかあさんのぜんぶ、とっちゃった。
世界で一番大好きな人なのに、わたしが、おかあさんの幸せをぜんぶ────」
救えなかった。
ウォレスが後悔していたように、朔も死ぬほど悔やんでいた。
母を害した世界を、母を殺した者達を。なにより、母を母たらしめんと縛ってしまった自分自身を。
自分を育てる役目なんてなければ、人並みの自由くらいはあったかもしれない。
自分を守る使命なんてなければ、命だけは助かったかもしれない。
自分を生んでさえいなければ、愛する人と別れずに済んだかもしれない。
湧きだした"If"は"罪"の数。
ウォレスの存在をはっきりと認識したことで、母も鷺沼藍子という一人の女性に過ぎなかったことを実感した。
やっと受け止めた"最愛の喪失"は、"最悪に近い形"で朔の喉元まで逆流した。
「違う。君は奪ってなどいない」
『───大丈夫。こわがらないで。』
自分の配慮に欠けた言動が、ここまで追い詰めてしまったのか。
ウォレスは辛抱たまらず立ち上がった。
「彼女は、無責任に命を作り出したと懺悔しながらも、喜んでいたんだ。
この子のためなら死ねると言ったほど、君の誕生を喜んでいたんだよ」
『絶対に、あなたを傷付けない。誰にも傷付けさせない。』
まだ朔の涙は止まらない。
ウォレスは朔に近付いていった。
「君のおかげで、彼女は母になれた。与えること、守ることが幸せだと知った。
私には授けてやれなかったものだ」
『あったかい家で、おいしいごはんを食べるの。
いっぱいの愛情をあげるわ。』
ウォレスは朔の頭に恐る恐る手を延ばし、ぎこちなく触れた。
すると朔の涙は少しだけ収まった。
「勝手なことは言えないが、君と過ごした日々はきっと、楽しかったはずだ」
『生まれちゃいけなかったなんて、言わせないから。証明してみせるから。』
ウォレスは朔の前で膝を折り、朔と目線を合わせた。
頑なな腕をそっと外してやると、泣き腫らした赤い目が露になった。
「私も、君と会えて嬉しい」
『私が、あなたを守るわ』
いつぞやの藍子とウォレスの面影が重なる。
あれは、研究所を脱した藍子が、間一髪にプリムローズの町まで逃げ延びた時だ。
人気のない路地で蹲った藍子は、おくるみに包まれた朔を大事に抱えて言った。
『私が、あなたのお母さんになるからね』
私が、あなたの母になる。
これからどうなるか不安でいっぱいで、だけど母としての自覚は既に備わっていた。
あの時の、泣きながら囁く母の笑顔と、目の前にいる強がりの狼が、朔には重なって見えた。




