Episode52-9:再会
「君のお母様───鷺沼藍子が、君を連れて研究所を去った後。程なくして、私も雲隠れをした。
自分の身を守るためと、君達の行方を追うために」
研究所にはたくさんの同僚がいた。全員が叡智に溢れた一廉の人物だった。
だが彼らは同僚であっても仲間ではなかった。彼らは賢いばかりで心を持っていなかった。
しかし一人だけ、瞳に生気を宿した女性がいた。
彼女だけが心を持ち、人間として立って歩いていた。
彼女も同じ目をこちらに向けていた。自然とよく目が合った。
互いに互いの器を計っていた。
互いが互いに人を感じていた。
互いのみが唯一だった。
「だが、見付からなかった。見付けられなかった。
地を這うほど、血眼になるほど必死に探しては徒労に終わった」
同僚であり仲間であり、たった一人の友だった。
足りないものを補い合い、余したものを譲り合い、風が吹いても雪が降っても支え合った。
どちらかが道に迷ったなら導く。道を誤ろうとしたなら止める。
この目の黒いうちは、君を畜生道には落とさせまい。
信頼はいつしか執着となり、執着はやがて惰性となった。
「だから、もう、生きてすらいないのかもしれないと思ったんだ。この管理された狭い国で、なんの痕跡も残さずに生き続けられるはずがない。
早々に研究所へ連れ戻されたか、用済みと葬られたか。いずれにせよ、藍子の方は無事では済まないだろうと」
気付いた時には遅かった。
彼女は文字通りの"奇跡"を生み出した。大役を果たしたと皆が喝采した。
母を"望んだ"彼女は喜び、母を"叶えた"彼女は困った。
偽りの我が子を抱いた場面が、彼女の気付きの時だった。
「だから、途中でやめたんですか」
霧のように消えてしまった。
足元に地獄ありと、忠告を最後にいなくなった。
奇跡を失った皆は悲嘆に座し、彼女を失った私は後悔に頽れた。
どうして、もっと早くに。
拙い一つ覚えは、未来の己から投げられた督促だった。
「本人を前にこんなことを言うのは忍びないけれどね。私の目的は、あくまで藍子だったから。
藍子の生を望めないならと、次第に及び腰になっていった」
何度も探した。
彼女を、彼女と共に消えた奇跡を。
だが二人は見付からなかった。痕跡どころか気配すら追えなかった。
「そうして時間が流れていって、あの一報が私の耳に入ってきた」
もしかしたら、もう死んでいるのかもしれない。
彼らに先を越されたのなら、彼女が無事であるはずがない。
奇跡を生かす価値はあっても、彼女を生かす理由は彼らにない。
元より人柱扱いだった彼女は、彼らにとっては無用の長物だ。
「プリムローズで起きた強盗殺人事件」
気力は日に日に失われ、体は段々と言うことを聞かなくなった。
彼女と生きて再会すること、彼女の役に立つこと。
指標はいつしか願望となり、願望はやがて妄想となった。
「被害者は30代女性。犯人の身元は未だ不明────」
今も何処かで、ひっそりと暮らしているなら構わない。
同じくお尋ね者となった己が無理に合流するより、女性二人だけの方が身を潜めやすいということもあるだろう。
諦めつつも、一縷の希望だけは捨てられなかった。
若いシングルマザーと街中で擦れ違う度、どうしようもなく胸が逸った。
「そのニュースを目にした時に初めて、私は藍子が生きていたことを知ったんだ。
"倉杜花藍"と名前を変えてね」
もしいつか、またいつか会えたなら、今度こそ支えになりたい。
そして、いつかいつかと先延ばしにしてきた想いを伝えたい。
「後悔したよ。もっと本気で取り組んでいれば、もっと前に辿り着けた。
電波越しの訃報なんかじゃなく、生身の再会をできたはずだった」
待ち望んだ"いつか"は唐突にやってきた。
テレビ画面に映った顔は笑っていて、懐かしい面影を残していた。
やっぱり生きていたんだと、喜びに天を仰いだだろう。
死亡のテロップが流れるのが、写真より先でなかったなら。
「驕りかもしれないが、私なら君達二人を救えたのではと、そう思わずにいられなかった」
勘違いだったなら、他人の空似であったなら、どんなに良かったか。
生きていたのだ。己が無為に食い潰した昨日を、彼女も生きていた。
絶対に助けられた自信はない。己が側にいたところで、死亡者が二人三人と増えただけかもしれない。
それでも、己が側にいたなら、違う未来があったかもしれない。
募るばかりだった後悔は、途方もない無念を連れてきた。
「これで友人を名乗っていたのだから、好い面の皮だ」
せめてもの幸いは、奇跡が達者であったこと。
母の愛を一身に受けて育った娘。名を朔と言うらしい。
きっと彼女に似て芯が強く、心根の優しい女の子に違いない。
「恨んでいたかい」
会ってみたい。会って話を聞いてみたい。
母となった彼女は、どんな女性だったか。母娘二人の所帯は、どんな様相だったか。
「いや。覚えてすらいないか。
恨まれているなんて、それこそ思い上がりだな」
会えるわけがない。会わせる顔がない。
名ばかりの友は最期まで手を差し延べなかった。臆病風に吹かれて穴蔵に篭ってばかりいた。
「私は彼女の覚悟に足る人間ではなかった」
だったら会うべきではない。会いたくない。
今更知り合ったところで、己は何も出来ない。何もしてやれない。
傷付けて傷付けられて、余計な煩わしさに頭を抱えるだけ。
「追い付けなかったのは当然だ」
会うべきじゃなかった。
会いたくなかった、のに。
『───私、この子を抱いた時、思ったの。』
生き写しと思った。
髪も目も、鼻も口も、睫毛の長ささえ、彼女と瓜二つ。
いっそ彼女の縮小版、彼女の幼少期を見ているようだった。
『───何でも出来る。何でもしてあげたい。』
反射的に藍子と呼ぼうとして、口をつぐんだ。
朔。この子の名前は朔。日本語にして、始まりの日、最初の月を意味する言葉。
『───この子のためなら、私は死んでもいいと思った。』
ああ、この子が朔か。
藍子が愛してやまなかった、命を賭しても構わないとまで言わしめた娘。
血が繋がっていないなんて嘘みたいだ。
だって、こんなにも懐かしい。こんなにも愛おしい。
ただの娘子に、こんな哀愁が湧くものか。
『───ねえウォレス。私達のやってることって、本当に正しいのかしら。』
仮初めの親子に過ぎないのに、なぜ彼女はこの子に対して、ああも強い母性を示したのか。
長らく疑問だったが、ようやく腑に落ちた。
『───みんなが平等に長生きできたら幸せでしょう。病気がなくなれば苦しむ人も居ないでしょう。』
それは彼女が使命を帯びていたから、情け深かったからではない。
彼女は紛れも無く人間だった。上でも下でもなく、右も左もなく、当代を見据えていた。
人間だからこそ、人類の幸福とは何かを見出だせた。
『───でも、病気の前になくすべきものが、世界には未だたくさんある。』
生も死も決して平等ではない。
『───差別が、貧困が、争いがなくならない限り、真の平等は訪れない。苦しみは絶えない。』
若くして死ぬ善人がいれば、老いても後ろ穢い悪人がいる。
揺り篭から墓場まで、誰もが何かしらの不条理を抱えている。
『───私達の作るべきは、誰もが死なない世界じゃなく、誰もが精一杯生きたと死ねる社会ではないの。』
それでも、命の在り方だけは平等だ。
『───私達に必要なのは、不老でも不死でもない。』
何人も突然の不幸は避けられず、天寿まで元気でいられる保証はない。
いかなる善行も悪行も、いつかは必ず終わる。
『───永遠なんて要らないわ。』
"生死"とは"リセット"だ。
完璧に正しい存在も、絶対に間違っている概念も。
人の尺度では計れないのなら、選ばなければいい。
人の手に余るものを、人の手で作り替えてはいけない。
『───命を繋ぐこと。託すこと。愛すること。』
生まれては死ぬを反覆し、終えては始まるが回帰する。
成功したらば倣いに、失敗したらば戒めに。
悪しきを摘むため、善しきを紡ぐため。
『───きっと、この子が答えなのよ。』
我々は繰り返す。
本当の正しさを、本物の幸せを求め続ける。
そうして常命の果てに悟るのだ。
求め続けた道すがらに答えはあったと。他愛ない日常をこそ尊ぶべきと。
いつの時代も、どこの国でも、人が人を愛する気持ちだけは変わらないから。
父が母が、我が子を守る強さだけは間違いじゃないはずだから。
繋ぐこと、託すこと。
命の営みそのものが不滅であり、今を息衝く己こそが普遍の象徴。
永遠なんて要らない。
彼女はきっと、それを言いたかったのだ。




