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オルクス  作者: 和達譲
幕間
316/326

Episode52-4:空目



PM4:17。

2階ツインルームの前に立ったマナは、抱えた食料を落とさないよう気を付けながらドアをノックした。



「───誰だ?」



部屋の中から聞こえてきたのは、ここで守衛に当たっている者の声。ジュリアンの声だ。



「ボクだよ。マナ」



マナはすかさず名乗った。

ジュリアンも直ぐに返事をした。



「入っていいぞ」



手が離せないため出迎えには行けないが、入室自体は構わないらしい。

言われた通りにマナがドアを開けると、ぎしりと軋む音の向こうにジュリアンの姿があった。

窓際に椅子を付けた彼は、外の景色に隅々まで目を配っていた。



「お疲れ様。外の様子はどう?」



マナはジュリアンの元まで歩み寄っていった。

ジュリアンは振り返らずに答えた。



「特には変わらない、けど。さっき、ブラウンの大きい車が入ってきた。あれは────」


「多分それだ。東間くんのお友達の、神坂さんと青木さん?がちょうど着いたみたいだから」



ジュリアンの手前にあるチェストの上に、マナは持ってきた食料を置いた。



「やっぱりそうか。変な人だったらどうしようかと思った」


「だね」



神坂らがどんな車に乗って来るかは、事前に東間から通達があった。

手入れの行き届いた、ダークブラウンのワンボックスカー。黒川家で扱う法人車の一つで、主に神坂が外回りの際に使用している車種である。




「それ何?」



ふとジュリアンがマナの方を一瞥する。

マナはチェストの上に置いた食料を整理しながら微笑んだ。



「今さっきね、ウルガノと朔と廊下で擦れ違ったんだ。

そろそろ一息つきませんかって、みんなにティーブレイクを勧めて回ってるんだって」


「紅茶?」



すんすんと鼻を鳴らすジュリアンに、マナが頷く。



「そう、ダージリン。コーヒーと紅茶と好きな方をって言われたから。ジュリーも紅茶のが好きだったよね?」


「うん」


「だから二人分、みんなより一足先にもらってきた。まだ温ったかいよ」


「そうか。後でありがとうって言いに行かなきゃな」


「だね」




ジュリアンの元を訪ねる少し前、マナはトレーを手にしたウルガノ達と廊下で擦れ違った。

トレーには数人分の紅茶と焼き菓子が積まれており、ウルガノはティーブレイクの旨をマナに説明した。

丁度ジュリアンの部屋へ立ち寄るつもりだったマナは、せっかくだから彼には自分がと申し出た。

ウルガノは二人分の紅茶と焼き菓子をマナに分け、マナは受け取った食料を手に今こうしているというわけだ。




「お菓子の方は、さっき言った神坂さん達が差し入れに持ってきてくれたものなんだって」


「こんな時にか?」


「こんな時、だからかもしれないよ」


「そうか」



マナは二つある焼き菓子を片手に一つずつ持った。



「こっちがフィナンシェ、こっちのがガレットブルトンヌ。

フィナンシェはオレンジピール入りで、ガレットはココアフレーバーだって。どっちがいい?」


「マナから選んでいいよ」


「ボクはどっちでも美味しいよ」


「……じゃあ、ココアの方」


「ん」



マナはガレットの包みを開けてやってから、キャスターを転がしてジュリアンの側にチェストを寄せた。

ジュリアンは変わらず守衛に徹しつつ、さっそくガレットに齧り付いた。



「ボクも一緒に食べていい?」


「いいけど、ここにいて良いのか?」


「急ぎの仕事は片付けてきたから」


「なら良いよ」



マナはジュリアンが座っているのと同じ椅子をベッド脇から拝借し、もう一方の窓際に付けた。



「こうしてると、前を思い出すね」



自分のカップとフィナンシェを持ち、マナも用意した席に着く。

二つあるベッドをそれぞれ背にして、二つある窓からそれぞれ見張る。視界の端に映る互いの挙動を、時折気にしながら。



「前?」



ジュリアンは紅茶を一口飲み、首を傾げた。



「ジュリーとジャックがシグリムへ来て間もない頃にさ、アンリだけ別行動したことがあったじゃない?

ほら、ボク達はホークショーのホテルで缶詰でさ」



マナも包みを開けたフィナンシェを頬張る。



「ああ……。ガールフレンドに会いに行ったってやつか」


「そう、キオラさん。

あの時と今って、ちょっと状況似てると思わない?」


「そう───、かもしれないな」




あれは、ジュリアンとジャックがシグリム入りして間もない頃だ。

アンリは久しぶりにキオラと会うため単身ヴィノクロフへと飛び、マナ達は隣接するホークショーにて彼の帰りを待った。


安いビジネスホテルで缶詰。

スーパーの既製品を分けての夕食。

多忙続きの旅路では、特筆して印象的な一日ではなかった。

しかしマナにとっては、一つのエピソードとして深く胸に刻まれた思い出だった。




「あの時もボク、食べ物持ってジュリーの部屋に行ったよね」


「そうだな」


「ジュリーはピーナツバターのサンドイッチで、ボクはべーグルだった。

お惣菜のチキン、思ったより辛くて噎せたなあ」


「よく覚えてるな」


「覚えてるよ。あの時話したことも、風の冷たさも、床が軋む音も。ぜんぶ」




当時もマナは、食料を手にジュリアンの元を訪れていた。

これを機に仲良くなれたらと、淡い期待を胸にして。




「ジュリー、最近マスクしなくなったよね」




当時は一緒の食事を拒否された。

食べる時はマスクを外さなくてはならない、マスクを外しては素顔を晒してしまう。

自分の醜い本性を知られるのは嫌だからと、ジュリアンはなかなか心を開こうとしなかった。


けれど今は違う。

シチュエーションはあの時と同じでも、ジュリアン自身はあの時とは違う。

マナのいる前でも当たり前に菓子を頬張り、紅茶を啜る。

ポーズだけ仕方なしにではなく、マナの存在を負担に感じていない。心身共にリラックスできている。


なにより、件のマスクだ。

出会った当初から欠かさず被り続けてきたガスマスクを、ここ一ヶ月ほど彼は身に付けていない。

誰に言われるまでもなく、誰の目がある場面に於いても、顔を隠すという行動自体を取らなくなった。

抵抗がなくなったのだ。探られることにも、踏み込まれることにも。


誰に何を言われようと、誰にどんな目を向けられようと。

そのままで良いと言ってくれる人がいる。自分の人間性を理解してくれた人達がいる。

たとえ大多数に嘲笑(わら)われても、彼らが許してくれたなら、もう怖くない。

苦楽を共にしてきた仲間達のおかげで、ジュリアンは漸く自らのコンプレックスを脱却できたのだった。




「やっぱり、した方がいいか?」



ジュリアンは不安そうにマナの方をちらちらと窺った。

マナは笑みを携えて首を振った。



「ううん。嬉しいんだ。普通に目と目を合わせて話せるのが」


「……そう、そうか。おれも、マナの色が見えるの、嬉しいよ」




ジュリアンにとっても、マナとの毎日は一分一秒が思い出だった。

マナほど鮮明に記憶できてはいないけれど、時々の感情はよく覚えている。


マナと歩いたこと。マナと話をしたこと。

マナとお絵描きをして遊んだこと。マナとトレーニングで競ったこと。

マナと内緒で夜更かしをしたこと。マナと早起きし過ぎて暇を持て余したこと。

マナの髪を切ってあげたこと。マナに髭を剃ってもらったこと。

マナと笑ったこと、泣いたこと。マナに触ったこと、触ってもらったこと。


マスクを脱ぐきっかけをくれたのもマナだった。

最初はマナの前でだけ、食べたり飲んだりする時だけ、仕方なく素顔になった。

それが日に日に回数を増やし、アンリ達とも生活の殆どを共有するようになった。

やがては自ずとマスクを被らなくなった。脱ぐのに理由を要していたのが、被るのに理由を付け加えるようになった。




「ジュリーはさ」


「うん」


「これから先、どうしようと思ってるの?」


「先って?」


「今度の作戦が終わったらの話だよ。決めてることとか、あるの?」



夕焼けに染まった木々、反響する烏の声。

眼下の風景に意識を落とす傍らで、自分の中の自分が耳元でそっと囁きかける。


このまま、時が止まってしまえば。

このままここで、こうして皆で、穏やかに過ごしていられたら。

何もかも忘れられたら、どんなに良いだろう。


でも出来ない。無かったことにはならない。するわけにはいかない。

会いたい人がいるから。会いたい人に会うために、ここまで来たから。




「決めてることは、ない。

みんな無事だったら、悪いこと全部なくなったら、その時どうするか考える」



思考の末にジュリアンは答えた。

マナは背後のサイドボードに紅茶のカップを置き、ジュリアンに悟られないよう深呼吸をした。



「マノンは、見付かると思う?」



久々に上がった名前。

ジュリアンは反射的にマナの方を見遣った。

しかしマナはこちらを振り向こうとせず、ジュリアンも怖ず怖ずと視線を戻した。



「どう、だろう。見付かれば良いとは、思ってる」


「そう」


「どうして、そんなこと聞くんだ?」


「うん。ごめんね。でもずっと考えてたんだ」


「マノンのこと?」


「うん」




マナの探し人はチェルシー。

ジュリアンの探し人はマノン。

彼女達を取り戻すため、二人は旅を始めた。

はじめの一歩を踏み出さなければ、また会えるかもしれないと希望を抱くこともなかっただろう。


でも、ずっと二人三脚でとはいかなかった。

歩幅を合わせてきたつもりが、いつの間にか差が生じてしまった。

辿る道程は同じでも、迎えるゴールは一緒ではないと気付いてしまった。




「ボクが探してるチェルシーと、トーリが探してるお姉さんは、この国のどこかにいるって分かった。

例の研究所がそうかは分からないけど、虱潰しにいけば、いつかは見付けられる、と思う。

でも、マノンはそうじゃないでしょう」




東間が調べた結果、チェルシーとセレンの身柄はシグリムのどこかに在ると判明した。

起きているのか眠っているのか、生きているのか死んでいるのか。

どんな状態かは分からなくても、手を伸ばせば届く距離だと事実は告げている。

マナの言う通り、虱潰しに当たれば見付けられる可能性は十二分だろう。


対してマノンは、未だ行方不明のまま。

シグリム入りした記録がなければ、そもそも神隠しに遭ったかどうかすら断定できない。

研究所を暴いたところで、マノンだけは何の痕跡も出てこないかもしれない。


もし本当に、"巷"の人攫いに巻き込まれただけなのだとすれば。

ジュリアンが命を賭して戦っても、マノンには繋がらない。旅の全てが徒労に終わることになる。




「たまたま東間くんも見落としただけって可能性もあるけど、マノンの名前は出てこなかった。マノンがこの国に連れてこられたっていう証拠はなかった」


「そうだな」


「もしかしたら、どこか、ボク達とは全然関係ない、遠いところにいるのかもしれない。

探しても見付けられないくらいの、遠いどこかに」




今こんなことを言っても仕方がない。

今更こんなことを言っても遅い。

頭では分かっていても、マナは止められなかった。

ジュリアンは反論せず、黙ってマナの愚痴に耳を傾けた。



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