Episode51:決戦前夜
11月22日。AM7:27。
一階バスルームにてミリィが顔を洗っていると、程なくしてアンリがやって来た。
「────おはよう」
先客がミリィであることに気付いたアンリは、一瞬ためらってから朝の挨拶をした。
ミリィは水に濡れた顔を上げ、アンリと目を合わせた。
「……おはよう」
ミリィは蛇口を捻って水道を止め、手持ちのフェイスタオルで顔を拭った。
流水の音がなくなると、得も言われぬ沈黙が二人の間に流れた。
「体、もういいのか」
タオルで顔を覆ったままミリィは尋ねた。
「ああ。心配かけたな」
「別に。大事ないならそれでいい」
言動は淡泊だが、ミリィは決してアンリを軽んじているわけではない。
表に出さないだけで、昨夜も碌に眠れなかったほどアンリの身を案じていたのだ。
それを知っているアンリは、同じく表に出さないながらも、つい苦笑してしまった。
心配をかけて申し訳ない気持ちと、心配してくれた嬉しさのために。
「他の皆はどうした?」
「朝メシ食った後バラバラ。ヴァン達は引き続き哨戒に当たってくれてる」
「そうか。そちらにばかり働かせて悪いな」
「交代交代でやってるから問題ない」
洗顔を終えたミリィは、使用したタオルを持って洗面台を離れた。
「アンリも、メシ食ったら昨日と同じとこ集まって。全員揃ったら昨日の続きやっから」
「分かった」
一言告げてから、ミリィはアンリの横を通り過ぎてバスルームを出ていった。
残されたアンリはミリィの気配を暫く惜しみ、洗面台の鏡に目をやった。
「立つ瀬がないな、相変わらず」
青白い肌に浅黒い隈、渇いた唇に無精髭。
身嗜みに気を遣う性分の己が、こうも弊衣破帽な姿に成り下がるなんて。
まるで弟と出会った頃のようだとアンリは一人自嘲し、冷たい水を顔に浴びせた。
**
AM8:30。
アンリを含めた全員が覚醒したのを機に、昨夜の作戦会議の続きが行われた。
ヴァン、バルド、ジャック、ジュリアンは、自分達はリーダーの決定に従うものとして、引き続き周辺の哨戒に当たった。
そこにユーガス、リンチ、タイタスも助勢として加わり、屋敷内外に散り散りとなった。
残った8人のメンバーは昨夜と同じ場所、同じ席次で集まった。
中心のソファーに座るのは、自前のノートパソコンをテーブルに広げた東間だ。
「───じゃ、始めるけど」
東間は左隣に座るアンリに目配せをした。
「いいんですね、本当に」
「ああ。お願いするよ」
アンリの許可を得たところで、東間はパソコン脇に置いていたものを手に取った。
つい先程までミリィが預かっていたUSBメモリ。キオラがアンリ宛てに拵えたという、件の"鍵"だ。
東間がUSBをパソコンのポートに差し込むと、データの読み込みが始まった。
少し待つと、読み込みが完了した通知が画面に表示された。
東間は早速データの閲覧をしようと操作を進めたが、内容にはロックが掛けられているようだった。
「パスワードって分かります?」
「asvCpLC───……」
アンリは即答した。
このパスワードは、USBの存在を共有する際にキオラとアンリで設定したものである。
Anthurium、Sage、Verbena、Chinese milk vetch、Petunia。
Lily of the valley、Canterbury bells、Freesia、Lilac。
Ranunculus、Gentian、China aster、Violet、Tulip。
Agapanthus、Rose、Dogwood、Clover、Shepherd's purse。
意味は花。二人に縁ある花の名前をイニシャル一文字に省略し、ある条件順に並べている。
アンリに教えられた通りにパスワードを入力すると、無事ロックは解除された。
東間は念のため、他の仕掛けが施されていないかも隅々までチェックした。
「特に問題はなさそうですね。開きます」
調べた結果、このまま閲覧しても罠などは発動しなさそうだった。
東間は短く断ってから、USB内のストレージを覗いた。
「なんだこれ。OS……?」
矢先に東間の手が止まる。
「どうかしたのか?」
「ああ、いえ。画像と文書と別々にファイルが保存されてて、そっちは特に問題なさそうなんですけど……。
他にもう一つ、なんか怪しげなのがありまして……」
「怪しげ?」
「多分ソフトウェアなんですけど、こいつだけやたらと容量食ってるんですよね。
開くと同時に、おれのパソコンに自動インストールされる仕様みたいですし」
フォルダの中には、PNGの画像ファイルと、PDFの文書ファイルが複数保存されていた。
前者の画像は、キオラがアンリに見せたかったもの。後者の文書は伝えたかったことだ。
そしてもう一つ。
前者二つのファイルとは比べようもないほど大容量のソフトウェアが、アプリケーションの項目に仕込まれていた。
ソフトウェアは開くと同時に、コネクト中のパソコンへ自動インストールされるよう設定されているらしい。
東間曰く、正体はOSの類ではないかという。
オペレーティングシステム。主に操作や運用を司るシステムソフトウェアだ。
「逆に開かなければ、こいつに悪さを働かれる心配はないんだな?」
「ええ。キオラさんを疑うわけじゃないですけど……」
「そうだな。もしかしたらキオラも意図しなかったものかもしれない。
安全性が分かるまでは弄らないでおこう」
いくらキオラが託してくれたものといえど、キオラも関知しない第三者の手が加えられている可能性は否定できない。
もしOSが悪意あるマルウェアだった場合、インストールしてしまうのは危険だ。
OSがキオラの意図に含まれていると分かるまでは放置しておくことになった。
「なら、画像と文書、どっち先に見ます?」
「画像を先にしよう。一先ず大要を知りたい」
文書の方には諸々の説明が含まれているだろうから、目を通すには時間がかかるだろう。
そう判断したアンリは、PNGのファイルから先に見ることにした。
東間がPNGファイルの一つを開くと、ある画像が画面一杯に表示された。
どこの何とまでは明記されていないものの、とある建物の見取り図のようだった。
「これは……、見取り図か?」
東間の右隣に座るミリィが、画面を覗き込んで首を傾げる。
アンリはハッと何かに気付いて、東間に指示した。
「拡大してくれるか?」
アンリに言われるまま、東間は見取り図の一部を拡大させた。
細かい部分が見易くなると、それぞれの間取りも把握できるようになった。
「結晶部……、境界部……?」
ミリィは目についた一つ一つの文字列を何気なく読み上げていった。
それらに聞き覚えのあったアンリは、見取り図の正体とキオラの意図を理解した。
「分かった」
「知ってる場所か?」
「知ってるも何も、キオラの生まれた場所だ」
「それって……」
ミリィ達も察した様子で息を呑む。
「かつてフェリックスの活動拠点だった地下研究所。
恐らくは此処が、奴らの牙城だ」
この見取り図は、キオラや朔にとって切っても切れない場所。
FIRE BIRDプロジェクトの温床である、ゴーシャーク研究所の全容を記したものだった。
研究所の構造や住所について詳しく知っている者は、少なくともこの面子にはいない。
ただしアンリだけは、一部の情報をキオラから口頭で伝え聞いていた。
研究所の中では、日々どんな実験が行われているのか。キオラと研究所とは、どこまで密接に繋がっていたのか。
結晶部や境界部といった特殊な造語に覚えがあったのも、伝え聞いた情報の内に含まれていたからなのだ。
「てことは、キオラさんはここで生まれ育った……?」
「そうだ」
キオラのルーツと聞いて、見取り図に対する一同の目が変わる。
当事者の一人でもある朔に至っては、実感はないものの望郷に近い感情を覚え始めた。
「でも、なんでキオラさんが……。いくら関係者つっても、んな簡単に持ち出せるもんじゃないだろ、これ」
ミリィはまた首を傾げ、アンリは思案に口を閉ざした。
いくらキオラの生まれ故郷とはいえ、研究所の存在は表向き秘匿にされている。
キオラ自身も、自分の病気を診てくれるところ、医療施設としての側面しか知らないでいた。知らないと思い込まされていた。
改竄したキオラの記憶に矛盾が生じてはいけないと、研究所側が取り繕ったからだ。
では何故、彼女は見取り図を持っていたのか。
手引きしたのは当然、研究所の関係者だろう。
ならば何時、何処で、誰が。
彼女の記憶が蘇るきっかけになり兼ねない代物を、わざわざ本人に与えたのか。
「理由は今は後回しだ。もう二つの画像も確認してくれるか?」
経緯を掘り下げるのは保留とし、次に進むようアンリは東間に促した。
東間は頷き、残り二つのファイルも順に開いていった。
**
「───"鍵"であり"武器"か。なるほどな」
一通りを検証してから、アンリは納得した声を漏らした。
計三つの画像ファイルは、全て研究所の見取り図だった。
ゴーシャーク、マグパイ、リトルアウル。FBプロジェクトの要となる秘密組織の本拠。
前者のゴーシャークとマグパイはキオラの、後者のリトルアウルは朔のルーツだ。
今はまだ実感のない朔だが、彼女は幼児期健忘の症状が薄い。
研究所で保護されていた時期のことも、いずれは思い出すかもしれない。
「見取り図を託したってことは、オレらにそこへ踏み込んでほしいってことか?」
「本人は望んじゃいないだろうが、そうなる可能性については以前話した。
まさか、こんな後押しをくれるとは思ってもみなかったがな」
USBの中身をキオラは明言していなかったので、これはアンリにとっても予想外の支援だった。
活用するには実行に移す他なさそうだが、攻略の手掛かりを得ただけでも大きな前進だ。
「PNGのファイルはこれで全部なの?」
「あとは文書と、さっきのOSだけ。文書の方も見取り図に劣らず容量でかいよ」
トーリの問いに東間が答える。
キオラの言う"武器"が見取り図を指すならば、文書の方には"鍵"となるメッセージが残されているはずだ。
「文書の方も見せてくれるか?見取り図についても多分触れているだろうから」
「わかりました」
この際、見取り図入手の顛末はどうだっていい。
恐らく彼女は今ここにいる。この図面のどこかにいる。
ヴィクトールの膝元に幽閉され、アンリ達の前途を憂いでいる。
「(必ず迎えに行く)」
今すぐ飛んで行きたい気持ちを押し殺して、アンリは目の前にある一つずつから消化していくことに努めた。
文書のファイルには、キオラがアンリに宛てたメッセージが認められていた。




