Episode49-3:ビター
「ああ面白くない。あいつが来てから俺はずっと面白くない」
キオラの上でヴィクトールはぼやいた。
どれほど抵抗しても微動だにしないヴィクトールに、キオラは観念して祈る他なかった。
「あいつの何がそんなに良いんだ?ルックス?血統?まさか天性なんて言わないよな」
一方的に捲し立てるヴィクトールは俯いていて、キオラからは表情を窺えない。
「君を守ってきたのは誰だ?君を支えてきたのは誰だ?最初に君の心に触れたのは誰だ?
俺だろう?俺が一番に君を見付け守ってきた。誰もが君を道具として扱う中で俺だけが君に人を見た」
ヴィクトールが顔を上げてキオラを見る。
限界まで見開かれた目は充血し、瞳は爛々とした狂気を湛え、唇から覗く歯は白く舌は赤い。
獣じみた、という表現では生温い。
悪魔のごとき兇猛さを伴ったヴィクトールに、最早かつての面影はなかった。
キオラは恐怖で喉を引き攣らせ、背中を弓なりに仰け反らせた。
「死ぬほど努力してきた。真面目に先生に尽くしどんな誹謗中傷にも耐え無理難題に応えてきた。
いつか君を救うために。誰にも君を傷付けさせないように」
ヴィクトールの熱い吐息がキオラの頬を掠める。
「君の半身は俺の盟友だった。俺達は二人で君を守ろうと誓った。
そうさ誓ったんだ。君が救われた暁には俺が君を貰ってもいいと君の半身が言った。俺には君を自分のものにする権利があるんだよ」
キオラの手首を掴むヴィクトールの握力が強くなる。
「なのに、どうして。
どうして君は俺を見ない」
締め付けられる痛みと伸し掛かられる息苦しさに、キオラは堪らず眉を寄せた。
しかしヴィクトールはお構いなしに、どんどんキオラに体重を乗せていった。
「あいつが呑気に自分の時間を過ごしている間も、俺は四六時中君を想った。君のためになる人生を生きようと走った」
ヴィクトールの脳内で、いつぞやのアンリの記憶が思い起こされる。
「世界の誰より君を愛してるのは俺で、誰より君に必要なのは俺のはずなんだよ。なのに」
キオラと仲睦まじく話す姿。
キオラと手を取り合って歩く姿。
キオラの声を、体温を、笑顔を独占している姿。
自由自在に塗り替えられる精神世界でさえ、いつもキオラの隣にいるのはアンリだった。
現実でも空想でも、ヴィクトールの目に映るキオラはヴィクトールを選ばなかった。
自分には、彼女と結ばれる夢を思い描くことも許されないのか。
何よりキオラとの未来を望む"自己"を"自身"が否定する"己"に、ヴィクトールは腸が煮え返りそうだった。
「どうして同じだけ、君は俺を愛してくれない。君だけが俺を愛さない」
ヴィクトールの鼻血が垂れ、キオラの頬に滴り落ちる。
「あいつが現れるまで、君の一番は俺だったのに。
なぜ、横入りしてきた男に横取りされなくちゃならない。
なぜ、尽くした俺ではなく、あいつばかりが良い目を見る」
ぎりりと奥歯を噛み締めたヴィクトールの口元から、鼻血とは別の血が滲む。
「───ッなんで!!なんであいつなんだよ!!
なんで君は俺を選ばない!愛してくれない!
俺はこんなにも君を愛しているのに!なんで君は応えてくれないんだよ!!!」
箍が外れたようにヴィクトールは叫び、キオラの顔全体に彼の唾液が飛び散る。
瞬きも忘れるほどヴィクトールの怒りを浴びたキオラは、数秒放心した末に一筋の涙を流した。
「違うよ、ヴィクトール」
キオラの細い声が、ヴィクトールの衝動に一時の凪を投じる。
「愛じゃない」
ヴィクトールの鼓動が大きく跳ねる。
キオラの声は針となり、鼓膜を擦り抜けてヴィクトールの大脳皮質を刺激する。
「あなたのそれは、愛じゃない」
ヴィクトールの鼓動が更に大きく跳ねる。
針が槍に変わり、ヴィクトールの海馬を弾丸のごとく貫く。
内出血を起こしたような頭痛と、臓腑を潰されたような圧迫感がヴィクトールを襲う。
キオラの目から溢れ出た涙が、ヴィクトールから零れた鼻血と混ざり合ってシーツに伝っていく。
ぱったりと動かなくなったヴィクトールの瞳から、生気の光が失われていく。
キオラの手首を押さえ付けていたヴィクトールの握力が緩くなる。
ヴィクトールの呼吸が再開し、キオラの呼吸が楽になる。
「ああ、いけない。酷い醜態を晒してしまった」
暫くの沈黙の後、ヴィクトールは上体を起こした。
鼻血と唾液を手の甲で拭う様子は、我に返ったように見える。
少しは冷静になってくれたのだろうか。
キオラは心配そうにヴィクトールを見詰めた。
ヴィクトールは笑みを取り繕うと、キオラのシャツのボタンを徐に外し始めた。
「なにをされても、私の心は変わらないよ」
跳ね退けはしないものの、キオラは揺るがない意思をヴィクトールに向けた。
ヴィクトールは鼻で笑うと、露になったキオラの首筋に指を這わせた。
「まさか。俺が君の尊厳を汚す真似をするはずがないだろう」
名残惜しそうにヴィクトールの指が離れる。
力づくでキオラを犯すつもりはないようだ。
キオラは内心安堵して、ヴィクトールの動向を窺った。
ヴィクトールは不意に右手を自らの腰に回すと、スラックスのポケットからある物を取り出した。
「大丈夫。最初から想定していたことだから」
ヴィクトールの手に握られたのは、一本の注射器だった。
中で波打っている赤い液体は、ヴィクトールにもキオラにも酷く覚えがあった。
これから起こることを本能で察知したキオラは、急ぎ逃げ出そうと身を捩った。
しかし直ぐにヴィクトールに捕まり、今度は俯せに押し倒されてしまった。
「や、め……っ。───いやだ!!」
キオラの逼迫した叫びが部屋中に小霊する。
ヴィクトールの左手はキオラの両腕を後ろ向きに捩じ上げ、彼女の背中に押し付ける形で拘束した。
右手は注射器を構え、付属のプロテクターは前歯と唇を使って器用に取り除いた。
「怖がらないで。優しくするから」
ヴィクトールの長い指が注射器のフィンガーフランジを押し上げる。
針の先端から無駄な空気が抜け、零れた薬液がシーツに点々と染みを作る。
その光景を横目に捉えたキオラは、過去のトラウマが全身に巡っていくのを感じた。
「……っ意味なんか、ない。
私が忘れても、私の半身が覚えていてくれる!」
「彼は俺の味方なのに?」
「それでも────」
「無意味なのは君の強がりだよ。
今度のは俺が手を加えた改良版。二者に別れるまでもない。君の魂ごと染めてくれる代物だ」
注射器のシリンジを口に一旦くわえると、ヴィクトールは空いた右手でキオラの長い髪を分けた。
「いや、だ。まって、いや。
おねが、ヴィクトール。話を、話をしようよ。話をさせて」
もはや成す術のなくなったキオラは、嗚咽混じりに懇願した。
「話なら聞いたよ。俺の嫌いな詰まらない話」
「そうじゃなくて、私の。私が話、聞くから。
貴方の望むこと、私が聞くから。だから、アンリ達のことは───」
「またそれ?流石にくどいよ」
「くどく、ても、なんでもいいから。アンリ達、みんな、アンリ、殺さないで。ヴィクトール。殺さないで。おねがい」
円満解決が望めないなら、せめて犠牲を最小限に。
自分だけに荷を課して、他は自由にしてほしい。
ここまで追い詰められて尚、逃げ口上よりアンリの安否を優先するキオラ。
ヴィクトールの苛々はピークに達した。
「自分は散々殺してきたくせに?」
ヴィクトールの冷めた一言が引き金となり、キオラのフラッシュバックが炸裂する。
何度も助けてくれと懇願された。
けれど自分は聞き入れなかった。
誰に何を言われようと、お前達の流血は止まらない。
自分の歎きが癒えるまで、自分の怒りは鎮まらないのだと。
人殺しは自分も同じ。
殺戮に興じてきた自分に、正否も善悪も語る資格はない。
半身の犯した罪だからとは、もう言えない。
支離滅裂な死生観こそ、キオラとクリシュナの分岐点。
実感した瞬間、キオラはクリシュナと身も心も溶け合った気がした。
そうなるように、ヴィクトールが仕向けた。
「心配しないで。次目覚めた時には、俺しかいないから」
キオラの首筋に物理の針が突き刺さる。
憎らしくも懐かしい、底無し沼に引きずり込まれる感覚。
シーツに爪を立てても、目一杯息を吐いても、"それ"からキオラは逃がれられない。
あなたとの思い出が消されてしまうのが悲しい。
いつかにそう言って泣いていたヴィクトールが、あの時の理不尽を自ら反復する。
「ァ、──────」
いやだ。もう繰り返すのは嫌だ。
忘れたくない。喰われちゃ駄目だ。
戦意とは裏腹に、キオラの四肢から余力が抜けていく。瞼が閉じていく。
強制的な眠りの誘いに、抗う気骨ごと削がれていく。
「最後に一つだけ、君達の間違いを正してあげるよ」
キオラの耳元に口を寄せ、ヴィクトールは解けない呪いをかけた。
「先生は死んでない」
キオラの視界が暗転する。
「あん、り………」
次目覚める時には、彼の人の名前も思い出せない。
完全に喪心したキオラを前にヴィクトールは満足げに笑い、彼女の髪を一房すくって口付けた。
『Do not refuse me.』




