Episode01-2:王子より咎人に告ぐ
男は困惑していた。
というのも、つい先程まで最期の審判が下される時を待っていたというのに、今の自分は何故か檻の外にいるのだ。
目の前に聳え立つのは、大きな白い収容所。
玄関を出る最初の一歩を踏み出すまで、自分もこの中にいたとは思えないほど、目下の状況は男にとって現実味のないものだった。
突然の来訪者は、魂の回収に来た死神などではなく、ただの人。
聞こえてきたのは、己の終末を告げる鐘の音ではなく、格子の鍵を開ける音。
あの赤毛の青年。
彼こそが、男を檻から解き放った張本人だというのだ。
収容所を出る際に、看守は男に言った。"お前は運がいいな"と。
それは島に送られて僅か数日で出所できたことを言っているのか、しかし看守は腑に落ちた顔をしていた。
自分という大罪人が、相応に罰されぬまま再び世に放たれようというのに。
嫌に納得した様子でそれを許した看守が、男には酷く不気味だった。
なぜ、自分だけ。
自分はまだここでなにもしていないし、されていない。
こんなことが、以前にもあったのだろうか。ここは地獄の入口ではなかったのか。
芽生えた疑問は尽きることなく、湧き出る謎には際限がなかった。
こうなればもう、考えるだけ時間の無駄というもの。
結局答えを導き出せなかった男は、やがて考えることを放棄した。
**
背筋を伸ばし、首を回して骨を鳴らす。
五日ぶりの外の空気を思い切り吸って、男は緩やかな歩調で歩き出した。
現在時刻は午後の2時。天気は晴れ時々曇り。
晩夏の爽やかな風に吹かれつつ男が向かうのは、青年と待ち合わせた場所だ。
途中までは、行き先を変更するべきか悩みもした。
素直に言うことを聞いてやる義理もなし、いっそこのまま行方をくらましてやろうかと。
だが、男がそれを実行に移すことはなかった。
ここで逃げ出したところで、結局は無意味になることを理解していたからだ。
島を出るためには船が必要であり、船に乗船するためには、乗船許可証を持った人間に同行してもらわなければならない。
つまり男が本当の自由を得るためには、あの青年の言うことを聞くしかないのである。
それに、彼には聞きたいこともあった。
一体どんな思惑があって、自分を選び、自分を解放したのか。
その訳を知るまで、自分は娑婆には戻れない。
どちらにせよ、男は青年の存在を無視できないということだ。
「(さっきのと、もう一人……?)」
収容所の正門を抜けると、長い階段を下りきったところに青年の姿があった。
青年は男に気付くと、人懐っこそうな笑みを浮かべて来い来いと手招きをした。
「思ったより早かったな。看守のオッサンとはちゃんとお別れしてきたか?」
飄々とした口ぶりで話し掛けながら、青年は男の二の腕を軽く叩いた。
返事の代わりに男が頷くと、青年の背後からもう一人若い男性が顔を出した。
「へえ、これが噂の」
八二分けの茶髪に、ナイロールのスクエアフレーム眼鏡。
ダークグレーのスリーピーススーツに身を包んだその男性は、赤毛の青年と同じほどの年頃に見えた。
青年の方がいくらか幼い顔立ちをしているが、肌つやや背筋の伸び具合は両者とも若々しい。
「やっぱり写真で見るのとは違うね。でかいし、迫力ある」
男性は青年の隣に並び立つと、腕を組んで男の全身をじろじろと眺めた。
初対面の相手に対しては不躾ともいえる態度だが、男性からはどこか洗練された気品のようなものが感じられた。
「(赤毛のと比べると、眼鏡の方が幾分育ちが良いんだな)」
ぼんやりと思案した男もまた、静かに男性の目を見つめ返した。
「ま、詳しい話はこのあと船の中でするとして。まずは自己紹介だな」
改めて男の正面に立った青年は、ようやく自らの名を名乗った。
「オレの名前はミレイシャ・コールマン。ミリィでいいよ。
歳は22。お前を探してここまで来たんだ、よろしくな。
あ。ちなみにその服は、オレからの最初のプレゼントね。
お前くらいのサイズ探すの大変だったんだから、大事にしてよ」
そう言うと青年は、おもむろに右手を男に向かって差し出した。
男も恐る恐る自分のものを青年に差し出すと、青年は男の手を取って半ば強引に握手した。
青年ことミリィの言うプレゼントとは、いま男が着ている服装のことを指している。
黒のジャケットにアイボリーのカットソー、カーキのパンツに丈夫そうなミリタリーブーツ。
どれも新品のようで、下ろし立ての香りが微かに残っている。
男は今一度視線を下げて自分の全身を確認し、再びミリィの顔を見た。
だが、いくら凝視しても彼の心中は読めず。
彼が自分にここまでする理由が、男には分からなかった。
「そしてこっちが───」
ミリィがもう一人に向かって目配せすると、今度は眼鏡の青年が男に近付いた。
「僕はトリスタン。トリスタン・ルエーガー。今はトーリって呼ばれてる。
歳はこの人より一つ上で、生まれはオーストリア。
今後のことはどうなるか分からないけど、一先ずはよろしくね」
トーリと名乗った眼鏡の青年は、ミリィの方を横目で一瞥してから男に向かって右手を差し出した。
先程ミリィがしたのと同じように。
ミレイシャとトリスタン。
初めて会う二人の若者と順番に握手を交わし、男は益々不思議な気分になった。
今まで生きてきて、こうして誰かと触れ合ったことなどなかった人生だった。
ましてや今日が初対面で、男の方は二人のことをなにも知らない。
「(こんな得体の知れない相手と握手をするなんて、かつての自分だったら有り得ないことだな)」
感慨深げに目を細めた男は、自らの掌をしばらく見詰めた。
「───看守から、あんたが俺を解放したと聞いた。
一体なにをしたんだ?なんのために、こんなことをした」
気持ちを切り替えた男が初めて口を開くと、ミリィとトーリは驚いて目を見合わせた。
トーリはミリィに説明を任せ、ミリィは不敵に笑って男に告げた。
「買ったのさ。金でね。
お前を探してここまで来たって、さっきも言っただろ?
噂のジョブキラー、ミスターヴァン・カレン」
ミリィの言葉に、今度は男・ヴァンの方が目を丸めた。
「どこまで知ってるんだ、俺を」
「そうだな、大体のことは。お前有名人だし。
ヴァンっていう名前が本名じゃないことも知ってる」
ヴァンの周囲をくるくると周りながら、ミリィは饒舌に話し続けた。
「ヴァン・カレン。他にもいくつか通り名があるみたいだけど、一番有名なのはこれ。
年齢は32歳。けどこれも確かじゃない。国籍も同じく不明。
白い髪に褐色の肌、ファンタジーのエルフみたいに尖った耳で、死んだ魚みたいな目をしてるのが特徴。
お気に入りのハンドガンはデザートイーグル。でも銃は滅多に使わない。そんなものなくても簡単にターゲットを始末できるから。
……と。それから、これはただの噂だけど。
どんなに金を積まれても、女と子供は絶対に殺さないっていう、優しい殺し屋だって…。
どう?オレの情報。頑張って予習してきたんだ。答え合わせしてよ」
言い終えると同時に正面の位置に戻ってきたミリィは、顔の前で人差し指を立てた。
ヴァンは僅かに眉を寄せたが、ミリィからは悪意を感じなかったので腹を立てたりはしなかった。
「合ってる。最後以外はな」
「へえ?じゃあ、あの噂はデマなんだ?」
「確かに、女子供は頼まれても殺さない。だがそれは、あくまでそういう依頼は受けないってだけだ。
仕事の妨げになったり、必要な時には殺すこともある。
俺はただの殺し屋だ。優しくない」
「……なるほど。
パーフェクトな回答だよ、ヴァン。気に入った」
低い声で淡々と語るヴァンを見て、ミリィも薄ら笑いを引っ込めた。
「オレも殺生は嫌いだ。けど、今はそんな甘いことも言っていられなくなった。
殺したくなくても、そうしなければならない時には、やるしかない。躊躇いはこちらの命取りになる。
その点、君は理想だよ。ヴァン。
君のように、考え方はシビアだけれど、心を失っていない人がオレは好きだよ。本当さ」
真っ直ぐに見据えてくるミリィに対し、ヴァンはばつが悪そうに目を逸らした。
「別に、好かれなくていい。
俺が聞きたいのは、あんたが俺になにを望んでるのかってことだけだ」
ヴァンの素直な反応が嬉しかったミリィは、一つ手を打って無邪気に笑った。
「よくぞ聞いてくれた!
オレが君に望む……というか、これはもう既に決まったことなんだよね。
悪いが君の意思は尊重しない。強制だ」
明るい調子で言ってはいるものの、ミリィの言い分は実に一方的で身も蓋もないものだった。
「(こんな若僧に、言われたい放題だな)」
ヴァンは内心不服を覚えたが、金で買われた以上は仕方がないとも観念していた。
経緯はどうあれ、彼は自分の命の恩人。
その恩に報いるためにも、というのは建て前にしろ、どの道もう今までのような生活には戻れないのだ。
人の口に戸は立てられぬ。
逃げおおせた先で再び自由を得たとしても、そんなものは所詮仮初めの自由に過ぎない。
いずれは誰かに自分の罪を看破されるだろうし、密告されればまたここに送り返されるはめになる。
となれば、ヴァンに残された生き方は最早一つしか残っていなかった。
「(せめてほとぼりが冷めるまでは、この若僧に従ってやるのも悪くないか)」
前向きに考え直して、ヴァンはミリィの次の言葉を待った。
「オレ達は今、あるものを探して旅をしている。
そこへ辿り着くためには、まず世界中に散らばったヒント。鍵を集めなくちゃならない。
そしてその鍵の一つが、君だ」
ミリィがヴァンの胸板を指差すと、ヴァンは不思議そうに首を傾げた。
「俺?」
「そう。詳しい事情は後回しにするが、とにかく我々には君が必要なんだよ。
さっき言った鍵としても、純粋な戦力としてもね」
「……それで、具体的に俺はなにをすればいい?」
ミリィは目一杯口角を上げると、ヴァンの胸板を拳で叩いた。
「オレのものになれ、ヴァン。
オレを守り、オレに従い、いついかなる時もオレの側を離れるな。
引き換えにオレは、お前を生かしてやる。お前の自由を貰う代わりに、お前に安息を与えてやる。
そしていつか、共に見てやろうじゃないか。集めた鍵で開かれる扉。その向こうには、一体どんな化け物が待ち構えているのか。
……何故お前がここにいるのか。どうしてオレと出会ったのか。
最後には必ず教えてやる。お前が知りたいと思ったことすべて。
だから、オレに力を貸してよ、ヴァン。
オレには君が必要だ」
この青年は、まだまだ青二才の年頃で、うら若く瑞々しい顔をしているくせに、既に天地の全てを知り尽くしたかのような風格があった。
ミリィの独特なオーラに圧倒されたヴァンは、彼の言葉に沸々と全身が滾らされるのを感じた。
"君が必要だ"
殺し屋だった自分。
これまで手にかけた人間は数知れず。
そんな彼に、ただの殺しの道具に過ぎなかったヴァンに、そのような言葉を贈った者は終ぞいなかった。
こんな10も年下の男に、心躍らされている。
少し悔しい気もしたが、それでもヴァンは己のすべてを青年に預けてもいいと直感した。
いつか来る別離の時まで、彼に従い、彼に付いて行こうと。
どうせなら、自分を必要としてくれる人に仕えたい。
機械のように殺し続けてきたヴァンにとって、生まれて初めて人間らしい感情が芽生えた瞬間だった。
「よく分からんが、あんたの言う扉の向こうってやつ、俺も少し見てみたくなった。
だから、付いて行くよ。この借りを返すまではな」
頷いたヴァンの表情は、当初と比べて幾分晴れやかになっていた。
「ん」
ミリィはまた嬉しそうに笑うと、ヴァンの目の前に拳を突き出した。
「………?」
「これは約束事を交わす時にする……、言うなれば儀式みたいなもんだよ。
ほら、同じように拳だして」
ヴァンが首を傾げると、ミリィは照れ臭そうに行動の意味を説明した。
そして二人は互いの拳を打ち付け合い、契約はここに成立。
ミリィとヴァンは期限のない契りを結んだのだった。
「───で、そろそろいいかな?一応僕もいるんだけど」
いつの間にか階段の手摺り部分に座っていたトーリは、少し不貞腐れた口ぶりでミリィ達に話し掛けた。
ミリィはごめんごめんと謝りながら、トーリに近付いてハイタッチをした。




