Episode42:硝子の城
11月15日。PM2:10。
アンリとミリィの両一行がベシュカレフの宿で集まっている間、キオラは一人エリシナの自宅へ向かっていた。
ちなみに、今回家を空けることについては、前以って両親に説明済みである。
しかし、病院以外の場所で外泊をするのは、キオラにとっては滅多にないこと。
なので、まずなんと言い訳をしようか、そもそもどんな顔で会えばよいのか。
道中バスに揺られている間も、キオラの頭はそんな思案でいっぱいであった。
「────ただいま」
自宅に着くと、キオラは玄関前で一つ深呼吸をしてから、勇気を出してドアを開けた。
続けて誰もいない室内に向かって声をかけると、ダイニングの方からパタパタと慌ただしい足音が響いてきた。
どうやら、先程の細い声も家人は敏感に拾ったようだ。
「キオラ…!お帰りなさい。遅いから心配してたのよ」
腰巻きのエプロンで手を拭いながら現れたのは、母のソフィアだった。
ソフィアは、キオラの姿を見るなりほっと胸を撫で下ろすと、心配そうにキオラに歩み寄っていった。
「ただいま、お母さん。
ごめんね、来る途中移動に手間取っちゃって。
予定より遅くなっちゃった」
ソフィアからの抱擁を受けながら、キオラは帰りが遅れたことを謝った。
ソフィアは、キオラの背を優しく撫でながら、二度首を横に振った。
「いいの。いいのよ。無事に帰ってくれたら、それでいいの」
そう言ってそっと体を離すと、ソフィアはキオラの顔を見詰め、キオラの頬を撫でた。
「でも、少し顔色が悪いわね。
出先で体調を崩したりしたんじゃない?」
「平気だよ。
今朝は少し気圧が低いから、まだ眠気が覚めていないだけ」
「そう…?なら良いんだけど…。
あ、お腹の方はどう?昼食はもう済ませたの?」
「ううん、まだ。せっかくだし家で食べようと思って。
なにか残ってるものはある?」
「勿論よ!そろそろ帰ってくる頃と思って用意してたの。
さ、一緒に遅めの昼食としましょう。
安心したら私もお腹が減ってきたわ」
先程までとは打って変わり、ぱっと明るい表情になったソフィアは、先導してダイニングに戻っていった。
キオラは、そんな母の後ろ姿にちくりとしたなにかを覚えながら、笑顔で後を付いていった。
「この匂い…。もしかしてフレンチトースト?」
ダイニングのドアを開けると、懐かしい甘い香りがキオラの鼻孔を擽った。
「そう!付け合わせは先に作ったから、少し冷めてしまったけど…。
フレンチトーストの方はついさっき仕上げたところだから、まだ温かいわ。
早速だけど食べる?」
嬉しそうに答えるソフィアに、キオラもまたはにかみながら返す。
「うん。付け合わせも、冷めたままでいいよ。
先に手を洗ってくるね」
「分かったわ。うがいも忘れずにね」
一言断ってからキオラが洗面所へ向かうと、ソフィアは早速料理の盛り付けに取り掛かった。
たった一日会わなかっただけなのに、ソフィアの態度はまるで一日千秋のそれから解放されたかのようだった。
一方、洗面所へとやって来たキオラは、いつもより乱暴な手つきで顔と手を洗った。
そして、タオルを手に取る前に背筋を伸ばし、鏡に映った自分の姿に目をやった。
「………今日は見えないのか」
言いながらキオラは、鏡の中の自分の顔にゆっくりと指を這わせた。
その昔、幼いキオラが洗面所で朝支度をしていた時のこと。
ふと、目の前にある鏡の奥に、自分以外の不審な影が現れたことがあった。
驚いたキオラは、慌てて背後に振り返って影の正体を探した。
だが、そこにはなにもなく、再び確認した鏡の中にも、もう影は映っていなかった。
それを、当時のキオラはただの見間違いと解釈したが、全ての記憶を取り戻した今のキオラには、あの時の影の正体に見当があった。
はっきりと姿は見なかったものの、あれは恐らく、自分の半身とされる者の影であったのだろうと。
―――――
間もなく、支度を済ませたキオラがリビングに戻ると、そこには先程まで不在だった父、イヴァンの姿があった。
脱いだ上着をソフィアに預けているのを見る限り、たった今帰ってきたところなのだろう。
「───お父さん。お帰りなさい」
キオラが声をかけると、ソフィアとイヴァンの両者が同時に振り返った。
「キオラ。お前こそおかえり。体調の方はどうだ?」
イヴァンはにこやかに返事をし、ソフィアはイヴァンから受け取った荷物をリビングの方まで移動させていった。
「大丈夫だよ。どこもなんともない。
お父さんこそどうしたの?今日は遅くなる日じゃなかった?」
キオラが歩み寄っていくと、イヴァンは一日ぶりの再会を喜ぶようにキオラの肩に触れた。
「だからだよ。今夜は母さんの夕食が食べられないから、代わりに昼食をと思ってね。
なに、今は昼休みだから、少しくらい抜けても差し障りはない」
「そう…。
でも、そういう日はいつもお弁当にしてもらってたよね?
今日は違ったの?」
「そうだな。いつもだったらそうしていたところだが…。
昼頃にお前が帰ってくる予感がしたからな。どうせなら、家族水入らずがいいと思ったんだよ。
なあ母さん」
少し気恥ずかしそうに訳を話すと、イヴァンはソフィアに向かって声をかけた。
リビングから戻ってきたソフィアは、くすくすと笑いながらそうですねと返した。
「では、無事に三人揃いましたし。
楽しい話は一旦後にして、まずはごはんにしましょう」
ソフィアの一声を合図に、各々定位置に着席していく。
すっかりテーブルメイクされた食卓には、温かいフレンチトーストとその付け合わせ、根野菜のスープが人数分並んでいた。
「みんな席に着いたな?じゃあ、まずはお祈りをして」
全員が着席したのを確認すると、イヴァンはキオラとソフィアに順に視線を送り、おもむろに両手を組んだ。
キオラとソフィアも、いつものように食卓の上で手を組み、目を伏せた。
「作ってくれた母さんと、温かい食事にありつける今この時に。
そして、変わらずの安寧を見守って下さる我らが父に、感謝して。頂きます」
「頂きます」
イヴァンに続いてキオラとソフィアも発声し、いつもより少し遅めのランチタイムは始まった。
「───それで、話の懇親会とやらはどうだったんだ?
ヨダカくんは元気にしていたか?」
付け合わせのソテーをフォークでつつきながら、イヴァンはキオラに問うた。
キオラは、口に入れたフレンチトーストを軽く噛んで飲み込むと、自然な笑顔で答えた。
「うん。いつもと変わらず優しかったよ。
夜には仕事終わりのヘイズ先生も合流して、三人でボードゲームに興じたんだ。
二人とも、ご両親によろしくって言ってた」
実はキオラは、今回家を空ける理由として、ヨダカ達とお泊り会をするためだと両親に説明していた。
以前にも何度かそのような会を設けたことがあったので、今回もそれを隠れみのとすることになったのだ。
無論、こんな嘘をついた理由は、両親に余計な心配をかけないため。
まだなにも確定していない段階で訳を話すより、一段落ついてから事後報告した方が混乱を防げると考えたからだった。
結果として、それ以外にも秘密にしておいて正解だった理由が増えることになるなど、当初は誰も思っていなかったのだ。
「そうか。それは良かったな。
……ところで、仕事終わりにと言ったが、ヘイズくんは就業中なにをしていたんだ?
聞いた話によれば、掛かり付けの患者を一時的に余所へ移していたそうじゃないか。
そんなに大事な用件があったのか?」
キオラの話に一部引っ掛かるところがあったイヴァンは、思い出したように尋ねた。
どうやら、人づてにダヴェンポート診療所であったことを耳にしたらしい。
しかしキオラは、核心に迫られても一切の動揺を見せず、すぐさま尤もらしい言い訳で返した。
「ああ、うん。
滅多に来ない特別な患者さんが来るとかで、当日はその人の治療に集中することになったんだって。
お蔭様で、その人の具合も随分良くなったって言ってたよ」
「ほう…。一日貸し切りにするほどとは、相手はよほど事情のある人だったんだな。
なんにせよ、誰も辛い目を見ていないのなら、良かった」
詳しい事情は聞き及んでいなかったイヴァンは、キオラの嘘をすっかり信じた。
すると、今まで黙っていたソフィアも思い出したように口を開いた。
「あ。そういえば、そうよ。
昨日お隣りのマリサさんから聞いたんだけどね、昨日アンリくんが町にいたらしいのよ!」
突然出たアンリという名前に、付け合わせを突いていたキオラのフォークがぴくりと動きを止めた。
「アンリくん?キオラに会いに来たのか?」
「さあ…。マリサさんも一瞬見掛けただけと言っていたから、よくは分からないんだけれど…。
そこのところ、どうなの?キオラ。彼にはもう会った?」
こちらも詳しい事情は知らないようで、ソフィアは無邪気にキオラに尋ねた。
キオラは、見掛けたのがソフィア本人でなくて良かったと内心安堵しながら、もう一度顔に笑みを貼り付けた。
「ううん。会ってない。
こっちにいるって連絡も来てないし、なにか別の用があったんじゃない?
後でメールして聞いてみるよ」
「そう…。まあ、そういうこともあるわよね。
アンリくんにだって、アンリくんなりの事情があるでしょうし。干渉してはだめよね」
納得したソフィアは、少し残念そうに肩を落とした。
それを見てイヴァンは、こんな提案をした。
「そう残念がるな、ソフィア。なにも、これを逃せば二度と会えないわけじゃないんだ。
そのうちに、彼の都合に合わせて、また食事会でも開こう。
私達は、彼がいつ訪ねて来てもいいように、部屋の掃除だけ欠かさなければいい」
「……そう、よね。私達は家族ですもの。
アンリくんが帰って来たい時に迎えてあげるのが、家族としてのマナーよね。
ね、キオラ。キオラも、そうするのが一番って思うわよね?」
ふと、近くに座るソフィアが、何気なくキオラの二の腕に触れた。
キオラは、一気に笑顔が崩れていきそうになるのをぐっと堪えて、無理矢理に口角を上げた。
「───うん。今度来てくれた時には、私もご馳走を作って持て成すよ」
いつも通りの何気ないやり取り。
変わらない笑顔。食卓を囲む時間。
この家に流れる空気は、両親の優しさは、今も昔も変わっていない。
変わったのは、私だけ。
美しいものだけを見るようにと、この目の奥で膜を張っていたフィルターが、あれきり剥がれ落ちてしまっただけだ。
少し前まで、あんなに色鮮やかだった景色が、今はこんなにも薄暗い。
少し前まで、あんなに温かかった我が家が、今はこんなにも肌寒い。
少し前まで、あんなに愛おしかった両親の声が、触れる体温が、今は、こんなにも。
知りたくなかった。
嘘でも構わないから、愛されている喜びを、いつまでも噛み締めていたかった。
「これでまた、楽しみな予定が増えたな」
「あら、気が早いのね。
まだそうと決まったわけじゃないわよ」
ねえ、お父さん。お母さん。
どんな思いで、私に話し掛けているの。
どんなつもりで、私に触れているの。
今まで、ずっと。
私のこと、どう思っていたの。
私が怪物だって、知っていたんでしょう。
本当は、怖かったんでしょう。
本当は、首輪を繋げてどこかに閉じ込めておきたかったんでしょう。
こんな茶番はもう終わりにしたいと、何度もうんざりしたはずでしょう。
見たくない。
見ていられない。
上辺だけの笑顔も、私を映さない瞳の向こうも。
もうなにも見たくない。
全て偽りだと知った上で、以前のように気安く触れられるはずがない。
お父さんお母さんと呼ぶ度に、抵抗を覚えないはずがない。
「こんな平和な毎日が、この先もずっと続いてくれたらいいわね」
「そうだな。こうして共に過ごせる瞬間が、なにより幸せだ」
もっと嫌な人達だったら、迷わず嫌いになれたのに。
もっと冷めた仲だったら、遠慮せず割り切ることが出来たのに。
こんな思いをするくらいなら、偽物の家族なんて欲しくなかった。
こんな結末が待っていると知っていたら、触れ合ったりしなかった。
「……キオラ?どうした?ぼんやりして」
「あら…。スープ、口に合わなかった?」
こんな家、今すぐ出ていってしまいたいと思うのに。
こんな人達、もう顔も見たくないと思うのに。
そんな目で、見ないでほしいのに。
「………ううん。なんでもない。
お母さんの料理は、いつも美味しいよ」
優しくしてくれるのは、フェリックス先生がそうしろと言ったから。
愛してくれているように見えるのは、元からそういうお芝居が得意な人達だったから。
別に、私に対して情が湧いたわけじゃない。
御役御免の御達示が出れば、いつでもすぐに他人の関係に戻る。
そこに特別な意味が付加されることは、これからもこれまでもない。
分かってる。
分かってる、けど。
置いていけない。
捨てていけない。
嫌いになれない。
たとえ偽物でも、確かに私は、あなた達の優しさに救われてきたから。
たとえあなた達が私を疎んでも、憎んでも、私には。
『My world has changed.』




