Episode41-6:ヴァン・カレン
例の件があってから五日後の夜。
俺は密かにフラウの元を去った。
行く当てはなかった。
記憶も戻っていなかった。
新天地でやりたいことも、なりたい自分にも特に見当がなかった。
ただ、これ以上あいつの側にはいられないと、いてはいけないと思った。
だから離反した。
あいつの行いを本気で抑止しようと思うならば、恐らく刺し違えるほどの覚悟が必要となる。
いや、実際に息の根を止めない限り、あいつは際限なく人を、子供を殺し続けるだろう。
とどのつまり、俺はその現実と向き合うことから逃げたのだ。
フラウの思想に賛同は出来ず、かといって殺してでも止めようという勇気もない。
ならば、二度と相見えぬよう、袂を分かってそれぞれの道を行くしかないと。
客観的に見ると酷く無責任な選択だが、あの時の俺はとにかく、二度と子供が殺される様を見たくなかったのだ。
そのためなら、根本的な解決にならずとも、悪質な傍観者のレッテルを貼られようとも構わないほどに。
「頼まれてたパスポートと免許証、持ってきてやったぜ」
「ああ。代金はこれで足りるか」
「……おう。ちゃんと"本物"の紙幣だな。まいどあり。
にしてもお前さん、まだ若いだろうに。
こんなもん使わねえと飛行機にも乗れねえなんて、一体どんな悪さやらかしたんだ?」
「関係ないだろ。途上国にはよくあることだ。
一応はそれで飯を食ってるなら、無駄口利いてないでさっさと巣に戻れ」
「ははは。手厳しいねえ。
ま、お前らみたいなのがいるおかげで、俺らの商売も成り立ってるわけだからな。
今の無礼は水に流してやるよ」
生まれは不明、育ちはスラム。
これまでに生業としてきた仕事は人殺しの代行。
通常であれば、こんな怪しさ全開の輩は海を渡るどころか、国境を越えることさえ許されないだろう。
だが、それはあくまで"通常"であればの話。
フラウから身分詐称のノウハウを仕込まれていた俺には、国境などあってないようなものだった。
偽造パスポート、偽造国際免許証の入手。
外国語の習得、嘘八百の経歴とプロフィールの裏付け。
時に闇市で買収し、時に一から創作したそれらは俺の一部となり、俺の人権を保証してくれた。
全ては、フラウの教えあってこそ。
フラウの教育を受けていなければ、そも俺はあの街から出ることさえ出来なかったかもしれない。
フラウの支配下から逃れるため、フラウの教えに従って立ち回る。
よくよく考えると矛盾している気もするが、そのことに気付いたのは随分後になってからのことだった。
「報酬は言い値で払おう。やってくれるか?」
「報酬の前に、まず相手とあんたの関係を詳しく教えろ。
引き受けるかどうかはそれから決める」
スーダン、トルコ、パキスタン、インド、タイ、北京、ブラジル、メキシコ、アメリカ……。
これまでに渡り歩いた国家は数知れず、気まぐれに試した日雇いの種類は三桁にも上った。
しかし、一度手持ちが底を付けば、すぐに安易な手段に手を出した。
どれほどの激務も、阿漕な商売も、対価にすれば人一人分の命には遠く及ばない。
要するに、一日汗水垂らして働くより、一時間で他人を殺した方が合理的に稼げるということだ。
『な、なあ。あんた、――――に頼まれたんだろ?
聞かなくても分かるよ。俺をここまで怨んでるやつなんざあいつしかいねえ。
……いくら貰ったんだか知らねえが、俺がその倍の額をあんたに払うよ。
だから、逆にあいつを殺してくれよ。
俺は命を拾い、あんたは予定していた以上の金を手にする。悪くない話だろ?
あんたのことは誰にも言わない。今日あったこともなかったことにする。
だから、……ッた、頼むから、命だけは───』
その日の晩飯を食うために人を殺し、銃弾を補填するために人を殺し、返り血を濯ぐために人を殺す。
特別な事情も、ドラマチックな経緯もなにもない。
ただ、最も簡単な仕事だから殺す。
なんてことはない日々の足しにするため、金に換えるために人を殺す。
明日また人を殺すため、今日も人を殺す。
それだけの行為。それだけの殺生だ。
相手の尊厳など知らない。
ジョブキラーを差し向けるほどの恨みとはいかほどのものか、そんなものは考えるまでもない。
考える必要性を感じない。
確かなのは、俺の空腹を満たすため、俺の垢を落とすために、目の前にいるそいつは死ぬのだということだけ。
「悪いが、その相談は聞いてやれない。
あいにくと俺は、一日に一人しか殺さないと決めている」
そうして血みどろな日々を費やしていくうちに、ふと思った。
何故、自分はここにいるのか。
こんなことをしているのかと。
そもそもの発端は、フラウという男から離れたくて独り立ちしたことから始まった。
外国へ渡ったのも名前を変えたのも、今までとは違う生き方をしてみたかったから。
フラウの側を離れさえすれば、俺も毒気が抜けて、治安のいい街に馴染めると思っていたからだ。
なのに、どうしてだ。
どうして、気付いたら俺の手はグリップを握っている。
頸動脈を絞めている。
あれほどフラウの在り方を否定していたくせに、何故今の俺は、あいつと同じことをしているのだ。
『どうして…っ。どうして僕がこんな死に方しなきゃならないんだ!』
『なにも知らないくせに、金を渡されたからって俺を殺すのか…?
それでも貴様は人間か!』
『こんなことしても、あんたは一生幸せにはなれないぞ。
今まで、何人殺したのか知らないが。
いつか必ず、殺した分だけ報いを受けることになる』
労せず手に入れた金は、ステーキに換えても女に換えても味気がなく。
たどり着いた安住の地は、銃声が聞こえなくなった代わりに、俺の名を呼んでくれる者もない。
誰にも関心を持たれていないはずなのに、常に誰かに見張られている気がする。
誰の足音がなくとも、常に銃が手元にないと心許ない。
どこへ移っても、どんなに良いベッドで寝ても、悪夢に登場するのはかつて殺めた者達ばかり。
いかに難を逃れようと、屁理屈をこねようと、この身に染み付いた死臭は未来永劫消えることはない。
これのどこが変化だというのか。
新しい自分だというのか。
結局俺は、散々偽善を並べておいて、変われていない。
変わろうとしていない。
既に汚れているから、今更善人ぶったところで無意味だと。
程度の低い言い訳を繰り返すばかりで、善人になろうと努力さえしていないじゃないか。
『『『人殺し』』』
なにも変わらない。俺もお前も。
フラウの言っていた通りだ。
俺のやっていることは、ただの人殺し。
俺という人間は、ただの殺しの道具だ。
必要とされていると都合よく解釈していた。
俺にしか出来ない仕事をしているんだと思っていた。
俺が悪役になることで救われる人間もいるはずと思い込んでいた。
本当は、なにもかも全て虚無だ。
必要とされているのは俺の技能であって俺じゃない。
誰にでも出来ることを偉そうに振りかざしていただけで、演じるまでもなく俺は悪人だ。
「そう。二階建ての、グレーの外壁の一軒家だ。
やり方は任せるが、くれぐれも怨恨による殺害とは悟られないように。
あくまで突発的な、間抜けな強盗がミスを犯して殺人に至った風に装ってくれ」
一度でいいから、誰かに心から求められてみたかった。
ジョブキラーとしての俺じゃなく、一個人としての俺を愛してくれる手を、握り返してみたかった。
なんと愚かな。
なんと残酷な。
これほどに血生臭い男を誰が愛そうか。
誰が触れようか。
あの日道端で目覚めた時には、既に俺は死神だった。
いつか記憶が戻る日が来ても、もうこの身は人には戻れないだろう。
「角地にある、SUMMERSKILLというバーで落ち合うんだな?
………分かった。じゃあ先に行って待ってる」
罪人島。
世界指折りの重犯罪者のみが収容される監獄島。
人ならざる者どもが、せめて最期に人として葬られる場所。
そこへ送られたことは、ある意味俺にとって救いだったのかもしれない。




