Episode41:ヴァン・カレン
いつから自分はここにいるのか。
どんな親を持ち、どんな名前を貰い、どうして話し方を身に付けたのか。
なにも覚えていなかった。
なにも思い出せなかった。
ただ、気付いた時にはそこにいた。
硝煙と汚物の悪臭に満ちた、薬莢と血痕の散乱する凸凹道を、気付いたら裸足で歩いていた。
「お前見ない顔だな。
その頭はどうした?一夜で百年分老け込んじまったのか?」
中東西部に存在する、とある貧民窟。
時に銃声が飛び交い、時に飢餓の骸が道を塞ぐその地域で、俺はひたすらに歩き続けていた。
ここはどこで、自分は一体何者なのか。
最初は必死に思い出そうとしたし、道ゆく人に話を聞こうともした。
だが、どれだけ思考を巡らせようにも答えは出ず、誰かに助けを求めようにも手段がなかった。
あの時の俺は、どういう訳か声を失っていた。
だから、言葉は理解出来ても受け答えができず、読み書きが苦手だったから文章で伝えることも叶わなかった。
いや。
たとえコミュニケーションの術があったとて、誰も俺のSOSになど取り合わなかっただろう。
あそこに生きる人間は、みな自分の生を繋ぐことに手一杯で、見知らぬ子供に歩み寄るほどの余裕はなさそうだったから。
「ちょっと口開けてみろ。……舌は抜かれてないみたいだな。
俺の言ってることが分かるんなら、外国人ってわけでもなさそうだ。
……ま、食って寝て糞して寝てりゃ、そのうちまた喋れるようになるだろ。
とりあえず、こんなとこで寝んねしてたら野犬の朝飯になっちまう。
運んでやるから、噛み付くなよ」
そうして一夜二夜と放浪を続け、やがて三日目の暁を迎えた頃だった。
二日も飲まず食わずで限界だった俺は、最早成す術なしと歩みを止め、道端で行き倒れた。
直にやって来るであろう餓死の予感と、腹を空かせた野犬が集まってくる気配を感じながら。
しかし、冥府の迎えが来るより先に、俺を拾ってくれた人がいた。
現地の人間とはやや異なる顔立ちをした、痩身の若い男。
この男こそが、後に俺の人生を変える師になろうとは、当初は思ってもみなかった。
「紹介するよ。こいつら全員俺の弟分。
今のお前と同じように、そこらで死にかけてたのを保護したんだ。
お前も、どうせ行く当てがないんだろ?犬の腹に収まるよりかはマシだと思うし、しばらく一緒に来るか?」
俺より十ほど上の体躯に、古めかしい民族衣装。
日に焼けた浅黒い肌に、毛先の不揃いな黒髪。
そして、後天的な発症と思われる、強度の上斜視。
これらの目立った特徴を持った男は、自らをフラウと名乗り、自力で歩けない俺を抱えてある場所まで向かった。
着いた先は、比較的紛争の少ない集落で、俺はそこでささやかな食事と寝床を振る舞われた。
しばらくして眠りから覚めると、フラウから連れを紹介すると言われ、いつの間にか集まっていた四人の子供と引き合わされた。
上は15歳から、下は7歳までの幼い少年達。
見るからに貧しそうな身なりをした彼らは、全員フラウが個人的に保護した孤児であるという。
俺は悩んだが、自分達と一緒に来るかというフラウの誘いに最後には乗ることにした。
彼には既に一宿一飯の恩義があったし、なにより自分はこの地の右も左も分からぬ浮浪の身。
なんの当てもなくまた行き倒れることになるよりは、せめて記憶が戻るまでの間、この男の庇護を受けるのも悪くないだろうと。
最初は、嫌になったらいつでも別れるつもりで、フラウとその子分達と行動を共にすることを決めたのだった。
「ここ違う。ここも前と同じ間違いしてる。あとここは文法の前後が逆。
はいやり直し。済んだらまた見せに来い」
「っとにドジだなー。あの手の若いのは警戒心が強いから獲物にならないんだよ。
狙い目なのは、そうだな……。ああいう恰幅の良い、白人の年増なんかがいい。
現地の人間はピリついてる上に懐が寂しいからな。真っ先に目を付けるべきは、隙の多い外国人だ。覚えとけ」
「この辺りはドンパチが絶えない地域だから、家具もそのままに残ってる家屋が多い。
たまに盗賊や兵士がうろつくこともあるが、お前は娘じゃないからそう手酷い真似はされないだろう。
ま、穴さえ空いてりゃ何でもって連中も中にはいるし、用心に越したことはないがな。
精々背後には気ィ付けな」
俺を新しい子分として迎えたフラウは、各地を旅しながら俺に様々な教育を施してくれた。
単純な物書きをはじめ、足の付かないスリの手順や、数日根城に出来そうな空き家の見つけ方など。
人間として正しい行いかはさておいて、生きていく上で無駄にならないことを徹底的に仕込んでくれた。
他の子分達に話を聞くと、彼らも同様にフラウから生きる術を教わったという。
それはまさに、父親が実の我が子にするようなもので、俺は何故フラウがそこまでしてくれるのかずっと不思議だった。
「カルラなら、今朝はこっちに来てないよ。
新しい履物を探してるって言ってたから、今頃市場の方で物色してるんじゃないか?」
「お前、ゾゾの連れだよな?こんなとこでなにしてる?
……誰って、お前のこと世話してる男だよ。まさかあいつの名前も知らねえのか?」
「フラウ?……ああ、ロザマリアのことか。
ふーん。君達にはそんな風に呼ばせてるんだね。
といっても、俺達が知ってる通り名はみんなバラバラだから、どれが本当の名前か誰も知らないんだけどね」
フラウは、尋ねればなんでも教えてくれた。
本人は碌に学校も出ていない阿呆だと言っていたが、その博識さはどんな教職より箱入りより見上げたものだった。
だが、貴方は何者なのかという問いに対しては、いつも頑なに口を閉ざしていた。
他人が迷惑を被る話は平然とするくせに、自分のこととなると彼は急に二の句を継がなくなった。
人づてに話を聞いた限りで、彼についてかき集められた情報は以下の三つ。
出身は中東諸国ではないようだということ。
通り名が少なくとも五つ以上はあるということ。
そして、時折金品と引き換えに、金持ち共から汚れ仕事を請け負っているらしいということ。
これだけ。
最も付き合いが長いとされる人物でさえ、フラウに関して把握していた情報はこれだけだった。
ゾゾ。
カルラ。
アデライード。
ロザマリア。
そしてフラウ。
呼び名によって身なりを、話し方を、生き様を自由自在に変える彼の真の姿を知る者は、俺を含めて一人もいなかった。
ただ、仲間に優しく敵に厳しく、懇意にしておかないと損しかない相手であると、誰もが口を揃えて彼を評した。
まるで、蜃気楼かなにかの噂でもするように、人目を憚った低い声で。
「アデライードは確かに賢いやつだけど、あんまり深入りはしない方がいいぜ。
その服一着しか持ち合わせがないんならな」
彼らのいう敵とは、具体的に誰のことを指しているのか。
そもそも、フラウは何故外国からこの地へ降り立ったのか。
時折請け負っているという仕事は、何故に汚れているなどと人に語られるのか。
あくまで"フラウ"としての顔しか知らなかった俺は、正直どんな噂を聞いても半信半疑だった。
お前らがどう思っているかはさておき、少なくとも俺の前では温厚で親切なだけの奴だと。
他人の評価など、所詮はそいつが勝手に抱いているイメージに過ぎないのだと。
だが、彼の美しい側面ばかりを信じていられた期間は、思いの外短かった。
「なあ、―――。一つ相談があるんだが、いいか」
「なんだよ。記憶ならまだ戻っていないぞ」
「それは知ってるさ。ただ、ちょっとお前に手伝ってほしいことがあってな。
前に話したことがあったろ?たまに俺が単独でやってる小遣い稼ぎだよ」
「……いいけど、どんな仕事なんだ?
みんなは汚れ仕事だって言ってたけど、馬糞の始末とかだったら嫌だぞ」
「ハッハ。汚れ仕事ってのはそういう意味じゃねえよ」
「じゃあどういうことだ?」
「………お前、人が死ぬとこは見たことあるか」
俺がフラウの子分の一人になってから、三ヶ月程が経過した頃だった。
いつもの軽い口調でふと切り出してきたフラウから、思ってもみなかった提案をされた。
"特定の人物を内密に消してほしいと依頼を受けた。
良ければお前にその手伝いをしてほしい"と。
要は、俺達の手で人殺しの仕事を受けないかという話だった。
これまでにも、フラウと俺は協力してあらゆる悪事を働いてきた。
人から物を奪ったり、脅して身ぐるみを剥いだり。
時には民家に堂々と侵入して、その家の風呂やキッチンを借りていったこともあった。
だが、"人を殺す"のは。
人間の行う悪事として最も凶悪であるその行為は、実行したことがなければ想像さえ及ばなかった。
なるほど。
フラウを知る人々が口々に噂していた汚れ仕事というのは、そういう意味だったのか。
この時、フラウの輪郭をようやく掴み始めた俺は、僅かにフラウの人間性に疑いを持った。
しかし、自分でも不思議なほど、疑うだけで離反しようなどという気は全く起きなかった。
「こういうのは"習うより慣れろ"だ。まずは俺がやってみせるから、お前はそこで流れを見てろ。
手伝いは後始末に協力してくれるだけでいい。今はな」
それからというもの、俺はフラウの助手という形で、時折殺しの仕事に同行するようになった。
相手が善良な一般市民であったなら、もう少しくらいは抵抗や後ろめたさが芽生えたのかもしれないが。
俺の脳は、フラウの手によって為される殺生の数々に、大した罪の意識を覚えなかった。
ターゲットとして指定されるのは、いつも悪人顔をした薄汚い男達ばかりだったから。
だから、無意識に彼らの命を軽視していたのかもしれない。
俺達のやっていることは、所詮取るに足らない存在を利益に変換しているに過ぎないのだと、都合よく解釈していたのかもしれない。
彼らと自分の命にどれだけの差があるかなんて、知らずとも分かっていたはずなのに。
「回数もこなしたし、そろそろお前もいい塩梅になってきた頃だろ。
視覚と思考さえイカしちまえば、後は手足を動かすだけでいい。要はいかに腹を決めるかって話だ。
……これだけ手本見せてやったんだ。お前にだってもうやれるはずだ。
今後は一緒に、汚く賢く稼いでいこうぜ。相棒」
何故彼らは殺されなければならなかったのか。
彼らを殺せと命じた連中はそこまで彼らを憎んでいたのか。
何故フラウは、俺達子分にはあんなに親切なのに、彼らに対しては一切の慈悲なく命を摘み取ることができるのか。
なにも分からず、なにも考えず、ただ俺はフラウの後を付いて回ることこそが正しい選択だと信じていた。
いや。
信じるなどという聞こえの良い言い方は、この場合逆に不適切か。
もっと単純に、俺は深く考えることを放棄していただけだ。
知らない奴の血に濡れる度、知らない奴の骸を跨ぐ度、結局は人事だと目を逸らしていただけだ。
我ながら酷い話だと思う。
自分が窮地に追いやられた時には、無視をして通り過ぎていく人々を恨みがましく見ていたくせに。
いざ自分がそちら側に立つと、こっちにだって都合があるんだなどと勝手な台詞が口をついて出るのだから。
それでも、当時はそうするしかないと本気で思っていたんだ。
これはあくまで成り行きで、是非もなかったこと。
記憶さえ戻ればいつでも自分の家へ帰れるし、こんな血みどろな日々ともおさらばできるはずだと。
不安でも、ただ信じていたかったのだ。
それが、一度踏み込んだら二度と抜けない底無し沼であるなんて、信じたくなかったから。
「───よ、聞いたぜ。こないだの掃除は血の一滴も残さずに始末したそうじゃねえか。
ソロで始めてからまだ一月しか経ってねえってのに、お前の順応性ときたらたまげるよ。
俺のお得意さんも、うかうかしてっとお前に持ってかれちまうかもしんねえな」
フラウの子分になってから一年が過ぎても、俺の記憶は全く戻らなかった。
反面、新しく始めた分野の方は頗る順調で、ついにはフラウ抜きで依頼を受けるまでに至った。
誰の手も借りず、自分一人の力で殺しの仕事を全うできるようになったのだ。
主なターゲットとして指定されるのは、フラウの下に付いていた頃から同様。
金持ち共の周囲をハイエナのように徘徊する、戸籍すら持たない物乞いやジャンキー達。
立場的には自分とそう変わらない、世から見捨てられた徒人達だ。
それを、顧客の金持ち共の目に入らない場所で始末し、文字通りの意味で掃除する。
そこで誰かが死んだこと、死んだ誰かが誰なのかを誰にも気付かれぬよう、出来るだけ痕跡を残さずに。
要は、集ってくる小蝿を羽音のうるさい順から叩くのと一緒だ。
金持ちは金を儲けるために忙しいから、寄ってくる羽虫を気にしている暇などない。
だからこそ、俺達を殺虫剤代わりに買収し、自らの手を汚さず邪魔物を処理するわけだ。
多分、あいつらの目には札束の数字しか映っていないんだろう。
確かに、物乞いもジャンキーも執着されては厄介な存在だ。
お綺麗なセレブ達と商いをしているあいつらからすれば、汚い格好で道を塞がれるだけでも営業妨害に違いない。
だが、いくら目障りといえど、少し施してやればそれで済む話だ。
中には金品ではなく、パン一つ分け与えるだけでも喜んで去っていく者もいるかもしれない。
なのに、あいつらはそうしない。
何度も付き纏われては迷惑だと、一度も対処することなく叩き潰す選択を最初に取る。
根気強く説得するより、一度だけ恵んでやるより、一発で叩き潰した方が合理的だと鼻で笑って。
「調子の方はどうよ?
近頃はお前の方が出ずっぱりだから、オニーサンは寂しいぞー」
「茶化すなよ。出番が増えたって褒められたことじゃないんだ。
むしろ前より寝付きが悪くなって困ってる」
「なんだよ、目付きの割に随分繊細だな。
相手はパン一つ分の価値にも満たない成りそこないだぜ?」
「そんなことないだろ。
どんな奴でも、金にしようと思えばシルク一枚分くらいにはなる」
「やれやれ。優しいんだか容赦ないんだか分からん奴だな。
……お前だって、一度は見たことあるだろう?澄まし顔の一般人ですら、どさくさ紛れに奴らへ唾を吐いていくんだ。
ここに生きる人間も、ここじゃないどこかで生きている人間も、みんな汚いものは早々に処分してしまいたいのさ。
その対象が犬であろうと人間であろうとね」
「……じゃああんたは、どうして俺を拾ったんだ」
「あん?なんだよ急に」
「急じゃない。初めて会った時から何度も聞いてきた。
その度にあんたははぐらかしたけどな」
「………。」
「食い物を与え、寝床を与え、賢くなれと知識まで与えて、俺達のような孤児を飼い馴らしているくせに、あんたはその見返りを一度も求めない。
何故だ?仲間なんかいなくても、あんたなら充分一人で生きられるはずだ。
なのにどうして、わざわざ分け前を減らすような真似をする」
他人の命を奪うこと自体は、思っていた以上に辛くはなかった。
ただ、手にかけた相手を運んでいる時や、事が済んだ現場を片付けている時。
最中ではない瞬間に、ふと疑問に思うことがあった。
彼らと自分の在り方は紙一重だというのに、何故俺達の命運はこうして別れてしまったのかと。
俺はフラウに拾われたおかげで命を留めたし、フラウの教えのおかげで食い繋げている。
じゃあ、彼らは?
彼らもフラウのように導いてくれる存在があったなら、あんな風に地べたに額をこすりつけるようなことをせずに済んだんじゃないか?
どうしてフラウは、俺のことは助けてくれたのに、彼らには手を差し延べてやらないのか?と。
一人、また一人と痩せた体に終止符を打つ度に、そんなもやもやが頭を巡ってイライラした。
でも、本人にそのことを尋ねても、返ってくる答えは決まってこうだった。
「さあ。俺も、自分で自分が分からないよ」




