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オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
250/326

Episode39-4:亀裂



「君は、これからどうしたい?

記憶を取り戻した今、何を望む?」



内容を変えてもう一度アンリが問うと、キオラはしばらくの間を置いておもむろに立ち上がった。


そこから少し歩みを進めていくと、例の窓の前で立ち止まった。


先程まで暗がりに溶けていた顔に月光が当たると、ようやく本来の輪郭があらわになった。

両の足でしっかりと体を支え、窓の向こうの更に向こうを見るような女の顔が。



「望むことはないよ。ただ、私に為すべきことを為すだけ」


「それは?」


「……この命を、無駄にしないこと。

名前を貰うまでもなく散っていった、たくさんの同胞達のためにも。

彼らの犠牲を無駄にしないためにも、私は、この体を世界のために捧げる義務がある」



キオラの返答を聞いて、アンリの顔はみるみる動揺に染まっていった。



違う。

そんなことを言わせるために問い掛けたわけじゃない。


そんな焦燥と後悔からとっさに出た足は、迷わず月明かりの方へと向いていき、ついにはキオラの隣に並び立った。




「死ぬ気なのか、君は」



キオラの端正な顔が、ゆっくりとアンリの方を向く。


その表情は先程よりよく見えるようになったけれど、瞳の中にある感情は先程より見えなくなっていた。



「死なないよ。死んだら、それこそ先生のやってきたことはただの殺戮になる」


「じゃあ、」


「私が生まれたことをマイナスにしないためには、私の体を礎にするしかない。

今はまだ無理でも、私の血や骨を調べれば、本物の万能薬を作る近道になるかもしれない」


「そのために、実験用のマウスに徹するっていうのか。

医学の進歩を促すために、自分の名前も幸せも捨てるっていうのか」


「そうだよ。知らんぷりしていたって、いつかはそうなる時がくる。

そうしろと迫られる時が、必ずくる」



フェリックスの手でなかったことにされた者達の命は、もう二度と取り戻せない。


ならば、彼らを蘇らせることが叶わないのならば、唯一生き残った存在が証人となるしかないのだ。


彼らの命が犬死となるか、尊い犠牲となるか。

その天秤は最早、彼女の判断にこそ委ねられている。



自らの体を、一生を、未来へ繋ぐ懸け橋とする。

一見するとそれは名誉ある生き様のようにも思えるが、実情はもっとずっとシビアだ。


実験用のマウスとしてその身を差し出すということは、己の人生そのものを差し出すということになる。


多少融通されることはあっても、人並みに家庭を持ち、人並みに夢を追うことは恐らく叶わなくなるだろう。


つまりは、自らの未来を、愛する人との温かな日々を代償にすることと同義。


キオラは、アンリと幸せになる理想よりも、自分にしか為せない役目を引き受ける現実を選ぶ、と言っているのである。



「君は、被害者なのにか。

生まれたことも、ここまで生きてきたことも君の罪ではないのに、なのに君はそれさえ購おうというのか。

誰になんと言われようと、憎まれて然るべき連中の業を君が肩代わりする道理なんてないのに」


「アンリ」



どうしても納得がいかないアンリは、更に続けてキオラに説いた。


するとキオラは、それ以上反論はせずに、ただ一言アンリの名を呼んで、じっとアンリの目を見詰めた。



既に心は決まっている、とでも言うような頑なな目付き。


自分が傷付くことはいくらでも許容するのに、自分のせいで誰かが困るようなことは堪えられない。


彼女は昔からそういう意地っ張りなところがあって、その度にアンリは譲歩させるのに苦心してきた。


自分はいらない人間なのかもしれない。

そんな卑屈な弱さを抱えてきた彼女を、ここまで自然な笑顔のできる女性に変えたのは、他でもないアンリだった。



けれど、昔と今とではまるで意味が違う。


必要とされていないかもしれない、と落ち込む人を励ます言葉はいくつかあるだろう。


でも、必要とされていることを自覚している人がいて、現実にその人を必要とするなにかが存在するならば。

恐らく、双方を平等に説き伏せる言葉は、どれだけ探しても相応しいものは見つからない。


故にこそアンリは、これ以上の問答でキオラの心が動くことはないと確信して、最早ぐっと息を呑むしかなかった。




「………君は、俺との未来を、望んではくれないのか?」




やっとの思いで絞り出した声は、微かに掠れていた。


そんな痛々しい声を聞かされたキオラは、驚きにはっと目を見開いた。

けれど、先の言葉を否定することも撤回することも、今の彼女にはできなかった。



「……叶うなら、そうしたいよ。

全部なかったことにして、アンリと一緒に、なんでもない毎日を笑い合いたい」



悲痛に顔を歪めたキオラは、一つ深呼吸をしてから静かに語り始めた。


だが、アンリは途中で一切相槌を入れようとしなかった。


前向きな切り口から始まった先には、必ず否定が待っていることを察したからだ。



「でも、それはきっと無理だよ。

さっきは義務なんて偉そうな言い方をしたけど、本当は自分の気持ちが晴れないだけなの。

髪形を、経歴を、名前を変えて、アンリと一緒に逃避したとしても、私は生涯逃げられない。

街中で擦れ違う幼子を見る度に、あの子達の哀れな姿を思い出して、きっと私は上手に歩けない。

そんな、爆弾を抱えた自分を、アンリにだけはお世話させたくないの」



震える声でそう吐露すると、言葉尻にキオラは一歩後退した。


それを見てアンリもすかさず一歩踏み出し、尚も彼女の情に訴えるべく言葉を紡いでいく。



「どうしてそう俺を遠ざけようとする。

君の醜態を見せびらかされるより、君に離れていかれることの方が俺にはずっと辛いんだって、分かるだろう?」



ふと、キオラの目に感情的な涙が浮かんだ。

それに伴って、息遣いも徐々に浅くなっていく。



「でも、アンリだって聞いたんでしょう?私、これ以上歳取れないんだよ?

アンリが人並みに老いていく一方で、私はいつまで経ってもこの姿のまま。

同じようにおばあちゃんにはなれないし、対等に並んで歩くこともできない。

そんなの絶対やだよ」



またキオラが一歩後ずさり、アンリも一歩詰め寄る。



「だったら、俺と一緒に普通に戻れる方法を探せばいい。

俺と別れることと被験体になることは必ずしもイコールじゃないはずだ」


「そんなことしたら、いつかアンリも居場所をなくすよ。妙な女を連れてるやつがいるって色眼鏡で見られる。

下手をしたら私と同じ生き物だって誤解されるかもしれない」


「そんなの構うもんか」


「私は構うよ」


「言い訳ばかりせずにそろそろ本心を明かしたらどうだ。あまり卑屈になられても気分が悪いよ」


「これは言い訳じゃないし、私は自分を卑下してるんじゃない。客観的な事実として判断しただけだよ」



鼬ごっこのような押し問答が続き、二人のテンションは徐々にヒートアップしていった。


最初は、互いを尊重しているが故に冷静に、声は上擦っても決して語尾を荒げることなく。


そしてしまいには、先に堪忍袋の緒を切らしたアンリから生理的な大声が上がった。



「ッこの分からず屋!!」


「お願いだから分かってよ!!」



喧嘩、と呼ぶにはあまりに慎ましいやり取りかもしれないが、こんな風に怒鳴り合うことは二人にとって初めてのことだった。



片や、愛する人のためならば、世界なんてどうなろうが構わないという決意を持つ男。


片や、愛する人を想えばこそ、その人の住む世界のためになりたいと意思を固めた女。


互いに必ずしも間違いというわけではなく、確かな正論というわけでもない。

ただ、互いに見ているものが違うから、こうして衝突してしまっているだけ。



もし、ここにシャオやマナといったストッパーが同席していたなら。

適当に宥めて、一旦の落としどころへ誘導していた局面だったろうが。


この二人が二人きりで相対すれば、平行線になるのは当然のことだった。


何故なら、言い分こそ違えど、そもそもの根っこは昔から酷似しているのだから。



「………分かるわけ、ないだろ。

愛してるんだよ、君を、ずっと。

俺はただ、君と、生きていきたいだけなんだよ」



自分の血肉は世のためになるはずと、キオラは信じている。

同時に、自分が側にいない方がアンリのためになると信じている。


だが、それは所詮彼女の独りよがりであり、アンリにとっての世界とは"彼女"そのものであった。


あらゆる名誉も名声も、ありったけの富も称号も。

世界を失えば当然全てのものを消失するし、あの頃は良かったと過去を思い耽ることもなくなる。


つまり、世界そのものに等しい誰かを失うことは、輝かしいすべてのものから輝きが失われるということなのだ。



本気で愛した相手を失うと、人はどうなるか。


アンリの場合、不仲だった母を失った時にも相当悲しんだ。

だからこそ、キオラを失った時のショックが未知数で、なにより恐れている。


一方で、キオラにはその経験がない。


今まで生きてきて、目の前で親しい人の死が現れたことはなかった。

産みの親は既に亡くなっていると知った時には悲しかったけれど、"既に亡くなっていた"から実感は湧かなかった。


要は、彼女はそういう意味では酷く欠落しているのである。

アンリを失うことを想像すると怖いくせに、自分を失ったアンリがどうなるかは深刻に捉えられないのだから。



「キオラ、」



アンリの右手が、濡れるキオラの頬に触れようと伸びていく。


するとキオラは、アンリの指先が掠める前にまた後ずさって、よろよろと月明かりの中から出た。


窓の形に縁取られた月光の世界にはアンリだけが残り、そこから退出したキオラは再び夜の闇に溶けていった。



「わた、しは。私も、愛してるよ。アンリ以上に大切な人はいない。

だから、分かって。愛してるからこそ、見せたくないものもあるの。一緒にいられない理由があるの。

私は、もう、アンリにだけは、触ってほしくないの」



涙を流しながらも、抑揚のない渇いた声でキオラは言った。



女心と呼ぶには深刻で、自虐と言うには平静で、妥協とするには心残りがありすぎる。



並の男であれば、こんな面倒な女はこっちから願い下げだと引き下がるところかもしれない。

ここまで言われて、それでも諦めたくない気持ちにはならないかもしれない。


でも、残念ながらアンリとキオラの間にあるものは"並"ではない。


自分にとっての損得や、客観的な見方では最早頭が働かなくなるほど、互いの存在はあまりに大きくなりすぎた。

今更別れるには、別れがたい理由が増えすぎてしまった。



愛しているから一緒にいたい。一緒にいられない。


共に譲ることのできない意見を合致させるには、せめて立場を対等にするしかない。


怪物のキオラを、アンリと同じ人に戻すか。

もしくは、人のアンリを、キオラと同じ怪物に変えるか。


どちらかの結末を迎えない限り、キオラがアンリの想いに応えることはもうないだろう。




「ごめんね」




共に恋人を持った経験がなく、家族と笑い合った思い出がない者同士。


些細な擦れ違いから生じた膿は、次第に海となって双方の平常心をさらっていく。



"私はもう、あなたを愛せない"



あの時の言葉の真意を、アンリはこの時ようやく分かった気がした。








『I must die』



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