Episode39-3:亀裂
PM11:02。
シャオとマナが密かに話し合っている一方で、2階上のアンリの客室ではアンリとキオラが共に過ごしていた。
というのも、ダヴェンポート診療所を後にして以降、キオラの体調がずっと優れないままなのだ。
そこでアンリは、付きっ切りで介抱に当たるためにも、彼女を自宅には戻さずに自分の側へ置いておくことを選んだのである。
「キオラ。キオラ?………眠ったか」
そして、日付を跨いだAM1:17。
ベッドに横になったキオラがようやく寝息を立て始めたのを確認して、アンリは静かに部屋を出た。
向かった先は、一階のエントランスに併設されている24時間営業の売店。
そこで自分とキオラの分の軽食を購入し、ついでに煙草を一本吸ってから再びキオラの元まで戻った。
しかし、アンリが部屋に着いた頃には、キオラはすっかり覚醒した様子でベッドに腰掛けていた。
先程出て行った時には寝入っていたはずだが、どうやらこの数十分の間に浅い眠りから覚めてしまったらしい。
「もう起きたのか。すまん、急にいなくなったから探したろ?」
「ううん、大丈夫。丁度今起きたところだから」
買ってきた荷物を脇のサイドテーブルに起き、アンリはベッドまで歩み寄って行った。
するとキオラは、まだ少し虚ろな目付きで力無くアンリに微笑みかけた。
「悪い、ちょっと触るよ」
一言断ってからアンリがキオラの額に触れると、先程測った時よりも幾分熱は下がっていた。
一方キオラは、アンリの冷たい掌の感触に安堵したように、うっそりと目を伏せた。
「……少しは落ち着いたみたいだな。
体調の方はどうだ?吐き気とか目眩とか」
「今は治まってるよ。ありがとう。
…ごめんね、アンリだって疲れてるのに、色々面倒かけて……」
「いいよ。どこでなにしてるか分からないより、こうして側で世話させてもらえる方が安心する」
申し訳なさそうにうなだれるキオラの頭を一撫でして、アンリはベッドの向かいにあるソファーに腰掛けた。
向かい合う二人の間には大きな窓があり、そこから差し込む月光は絶えず室内を照らしている。
その光景はまるで、木目の床に一筋の白い道を渡しているかのようだった。
「そういえば、さっき袋を下げてたけど…。なにか買い物してきたの?」
サイドテーブルの荷物を一瞥してキオラが問うと、アンリもそういえばという顔をした。
「ああ、これか。
俺もだけど、夕食、食べ損ねただろ?だから適当に口に出来そうなものを買ってきたんだよ。
大丈夫そうなら、今の内に腹に入れておくか?」
宿のカフェテリアでは通常通りにディナーが振る舞われ、シャオ達はそこで今夜の食事を済ませた。
けれど、アンリとキオラはその席に参加しなかった。
というより、チェックインしてからずっと二人でいたため、食事はおろか今まで一度も客室を出ていなかったのだ。
そのため、先程アンリが買い出しに出たのが、宿内では最初の外出だったということになる。
「……せっかくだけど、今はなにも食べる気がしないから、朝食に頂くことにするよ。
アンリこそ、私に気にせず食べていいんだよ。お腹減ったでしょう?」
「いや、俺も今はいいよ。食欲ないしな」
「そう……」
短いやり取りが途切れると、途端に静寂が辺りを包んだ。
一時間ほど前まではシャオ達も活動していたのだが、今となっては彼らも各々客室で休んでいる。
故に、まだこうして月光を目にしているのは、秒針の音を耳にしているのは、恐らくアンリとキオラの二人だけだ。
少なくとも、この宿で夜を過ごす者達の中では。
「──なあ、キオラ」
しばらくの沈黙を挟んで、先にアンリが口を開いた。
それにキオラが返事をすると、アンリは気まずそうに窓の向こうを見つめて、こう続けた。
「君は、父を……。
フェリックスのことを、よく知っているんだよな」
唐突に出て来た名前に一瞬息を呑むも、キオラは静かに肯定を返した。
彼女の目は真っ直ぐにアンリを見つめているが、アンリの方は夜空に浮かぶ月を見ているため、互いの視線が交わることはない。
「今更、君にこんなことを答えさせるのは酷だと思うが…。
……君の目に映っていたあの人は、どんな人間だった?」
そう言ってアンリがキオラを見ると、今度はキオラが窓の向こうに目をやった。
「……そうだね。説明するにはあまりに難しい人だったから、明確には答えられないけど…。
好きか嫌いかで言えば、私は好きじゃなかったよ」
「……憎んでいたか?」
「うん。憎んでた。八つ裂きにしてやりたいくらいに。
……でも、あの人の根底にあるものは"悪"ではないんだろうってことも、なんとなく気付いてた。
だから、憎みこそすれ、嫌うことは出来なかった」
アンリにとってフェリックスは、自らの生涯を左右させるほどの怨敵であり、同時にたった一人の父でもあった。
そのことはアンリ自身よく理解しているし、キオラもまた深い共感と同情を示してきた。
今までキオラがアンリの前でフェリックスを謗ることがなかったのは、そういった遠慮や思いやりがあったからだった。
それでも、こうして改めて問われた今。
キオラははっきりと憎かったと断言した。
たった一人の子息の前だからと自重するよりも、たった一人の子息の前だからこそ、白々しい建前は抜きにするべきだと思い直したからだ。
「悪でないのなら、あの人をあの人足らしめるなにかとは、一体なんだったと君は思う?」
更に続けてアンリが問い、キオラもまた少しの間を置いてから答える。
「──執念。先生を構成するものを一言で表すとするなら、執念が一番近いと私は思う」
「執念か。非道や冷淡ではなく」
「そう。振る舞いや思考は冷淡に違いなかったけれど、先生自身は別にそういう在り方を重んじていたわけじゃなかった。
ただ、自分の野望を為すために必要なことなら、どんなことでも躊躇わずやる。
そんな確固な信念があったから、時に悪意すら伴う行いにも身を委ねていただけ。
たとえそれが、悪魔と取引する大罪であってもね」
キオラの憎悪の化身であるクリシュナは、フェリックスのことを悪魔、または魔王と形容することが多かった。
けれどキオラは、フェリックスは悪魔などではなく、まして悪人ですらないと断じた。
これは、両者の認識に差異があることを示しているが、差異があるだけでどちらが正しいというわけでもない。
どちらにしても、どちらとも間違いでないだけなのだ。
確かにフェリックスは冷酷な男だった。
かつてキオラに強いてきた仕打ちも、数々の命の冒涜も、とても人の所業とは思えないものばかりだった。
しかし、そんなフェリックスの内に秘めたるものに、キオラはうっすらと見当がついていた。
恐らく、彼の中核にあるものは悪そのものではない。
時に悪すらも許容するほどの野心と絶対的な信念こそが、人ならざる暴虐さえ可能としていたに過ぎないのだと。
殺したいから殺す。
辱めたいから凌辱する。
そんな能動的な欲求から行動を起こすサイコパスとはまた違う。
フェリックスの場合は、明確な目的を果たすための過程として、あくまで伴うものとして殺戮行為を良しとしていた。
内心どう感じていたかは定かでないが、少なくともキオラを憎んで苦しめていたわけではない。
故にこそキオラも、彼の罪を憎むことはあっても、彼の者を憎むことは出来なかったのだ。
どんなに酷いことをされても、それだけがフェリックスの全てではないことを知っていたから。
「……そうか。君が言うなら、きっとそうなんだろうな」
「反論しないの?全部私の偏見なのに」
「しないんじゃなくて、そもそも反論の余地がないだけだよ。
俺は君ほどあの人と時間を共有していないし、知らないからね。
俺から語れることがあるとすれば、単に家庭を省みない男だった、ってことくらいさ」
分かりきっていたこととはいえ、改めて本人の口から父への憎悪を語られることは、アンリには酷く耳が痛かった。
その正体がなんであれ、彼がお前の産みの親であることには違いなく。
お前が彼の血を分けた存在である事実はどうやっても覆せないのだと、責め立てるような幻聴が今にも聞こえてきそうなほどに。
「ただ、反論ではないけれど……。もう一つ、フェリックスに関して気になることがあるとすれば……」
「……なに?」
ここでキオラが振り返り、ようやく両者の視界に互いの瞳が映った。
「───父を憎んでいたなら、その息子である俺のことを憎いと思ったことは、一度もなかったか?」
それは、ずっと聞きたくて、ずっと聞けなかったことだった。
優しい彼女が筋違いな怨みを持つとは思えなかったけれど、それでもアンリには彼女の本心が恐ろしかった。
これまで交わしてきた言葉の裏に、笑顔の一方に、今にも溢れそうなほどの"憎い"が内包されていたとするならば。
彼女と過ごしてきた"これまで"もが、何もかも偽りだったことになってしまうから。
「……憎んでいたら、さっきみたいに触らせたりしないよ」
「本当に?一度でも、俺との関係を疎んだことはなかったのか?」
「当たり前だよ。それに、私にはアンリを疎む理由も資格も、」
「理由とか資格とかの話ではなく、もっと生理的な有無を聞いているんだよ」
「………。」
「……すまん。返答に困ることを聞いたな。質問を変えるよ」
途中でキオラの反応が途切れたのを見て、アンリはここまで言及したことを中断した。




