Episode37:アルターエゴ
西暦2022年。3月10日。
この日、彼らは満を持してはじまりの火蓋を切った。
この日が記念すべき出発点として選定された理由は二つ。
一つ。キオラの肉体とクリシュナの自我が馴染んできたことで、ようやくクリシュナの意思で殺戮を全うできるだけの準備が整ったから。
二つ。この日に行われる予定にあったゴーシャークの実験が、最適な形でキオラの精神を汚染する可能性が高かったから。
要は、ゴーシャークの面々を仕留めるために必要だった要素が、たまたまこの日に集中したということだ。
理由の一つとして、"最適な形でキオラの精神が汚染"とあるが、これはキオラとクリシュナが完全に人格を交代するために欠かせない手順の一つである。
キオラの精神状態が平常である内は、無論肉体の持ち主であるキオラにアドバンテージが帰属する。
この状態で無理にクリシュナが表に出ると、クリシュナは肉体のコントロールが不自由である上に稼動時間も制限されてしまう。
つまり、ここぞという時に確実にクリシュナがイニシアチブを取るためには、避けておきたい不利というわけだ。
だが、当日行われる予定だった水滴拷問には、高い確率でその不利を回避できるだけの要因があった。
それは、この拷問の内容が、キオラの脳に直接働きかけるものであったこと。
キオラの中に封じられてきた忌まわしいものが、これをきっかけに呼び起こされる確率が高かったことだ。
故にこそ、クリシュナは断腸の思いでキオラを囮にするような手段を選び、来たる3月の10日まで息を潜めてきたのである。
―――――――
そして、迎えた本番当日。
綿密に練られた算段をもとに、クリシュナの発案した"ゴーシャーク抹殺計画"は始動した。
クリシュナの思惑通り、水滴拷問はキオラの精神をじわじわと摩耗させていった。
見たこともないはずの景色、覚えのないはずの体験、苦痛、感情。
過去の自分が確かに辿ってきた地獄が、今一度眼前に迫って来るような恐怖。
小さな雫が一滴額に落ちる度に、キオラは自らの内に封じられていた記憶を一つ一つぶり返していった。
蓋をしていた猛毒が、時間をかけて全身に攪拌されていくように。
その未知の反芻は、偽りの平穏を覚えてしまったキオラにとって、耐え難い苦痛と混乱を招いた。
しかしそれは、同時にクリシュナにとっては待ちに待った好機でもあった。
キオラの思考力が極限まで低下したタイミングで交代を図ったクリシュナは、目についたゴーシャークを手当たり次第に殺し、殺して殺して殺しまくった。
研究所にいた頃のキオラが徹底した訓練を受けていたおかげで、クリシュナにもその技術が継承されていたのだ。
確実に人の意識を奪う方法も、戦意を奪う方法も。
更には、命を奪う方法でさえも。
例え脳が忘却しても、体には確かな経験値として叩き込まれていたから。
故に、同じ肉体を共有するクリシュナだからこそ、キオラのポテンシャルを代わりに行使することができたのだ。
まさか、今まで施してきた教育が、こんな形で破滅を呼ぶことになるなんて。
彼女を最強の存在にと育ててきたのが仇となり、まさに最強を体現した彼女に自分達が啄まれる結末になるなんて。
フェリックスの指針と自らの指標を盲信してきたゴーシャークらにとって、クリシュナの逆襲は因果応報ともいえる終焉だった。
結果として、クリシュナによるゴーシャーク抹殺計画の第一歩は大成功に終わった。
事後には再び記憶の改竄が行われたものの、この件を皮切りにクリシュナは真の覚醒を果たした。
何度上書きされたところでそれは覆らない。
完全に目覚めてしまった彼に鎖を繋ぐことは、何人たりとも叶わぬだろう。
全ては、クリシュナを中心としたクリシュナのための筋書き。
クリシュナの存在なくしては成り立たない物語であり、クリシュナでなければ完遂できなかった無謀だった。
ただ、この計画の始動、そして継続に、欠かせない人物がもう一人いることを忘れてはならない。
ヴィクトール・ライシガー。
キオラの表の友人であり、クリシュナの裏の盟友でもある謎多き男。
彼こそが、孤立無援だったクリシュナの唯一の後ろ盾であり、クリシュナの殺戮を完璧にアシストした共犯者なのである。
今回彼が手掛けたアシストは、あくまでクリシュナを主役に据えた徹底的な後方支援。
お膳立てと言ってもいい。
まず、この日に水滴拷問が行われる旨をクリシュナに伝えたのが彼だった。
キオラに施す生体実験の内容は、万事特級機密事項に値するものである。
故に、それを主催する研究所側が、外部に機密を漏洩することは絶対にあってはならない卑劣だ。
だが、ヴィクトールはいとも容易くその卑劣をやってのけた。
おかげでゴーシャークはこのような惨劇に見舞われたのだから、この裏切りは決定的な引き金だったと言える。
そして、当日における環境の整備についてもだ。
クリシュナが行動を起こす直前、研究所全域に渡って緊急警報が発令した。
その影響で、使用中だった実験室も例外なく一時封鎖された。
おかげでゴーシャークらは逃げ場を失い、簡単にクリシュナの手に堕ちたわけだが、この舞台を整えたのもまたヴィクトールだったのである。
現時点でヴィクトールは最高位。
生前のフェリックスと同等の権威を有していたため、それを悪用してこのような事態を引き起こしたものと思われる。
とどのつまり、実行したのはクリシュナだが、この計画が成功したのはヴィクトールの働きが大きかったというわけだ。
彼のアシストがなければ、全員漏れなく仕留めきることは不可能だっただろう。
何故にヴィクトールが、ここまでクリシュナの殺意に賛同したのか。
自らもリスクを負ってまで、徹底した協力を申し出たのか。
その真意は分からない。
ただ一つ言えるのは、ヴィクトール自身もゴーシャークらに対して、憎しみに近い感情を向けていたということだ。
クリシュナがやっていなければ、ヴィクトールが代わりに彼らを始末していたかもしれないと思わせるほどに。
その真相は後に語られることだが、とにかくこの日を境にクリシュナは切望の第一歩を踏み出した。
以降は、首の皮一枚で命を残した晩成隊の面々が、いかにしてクリシュナの毒牙に掛かっていくのか。
その大まかな経緯と、直面したクリシュナの心境を合わせて語っていく。




