Episode36-4:優しい君が壊れるまで
ところがだ。
僕の展望とは裏腹に、実際にキオラが心惹かれたのは、よりにもよってあの男だった。
「良かったら、案内させてくれないか?少し入り組んだ場所だが、とても綺麗な庭園があるんだ」
アンリ・F・キングスコート。
燃えるような赤い髪に、涼しげなエメラルドグリーンの瞳。
一度婦女子の前に姿を出せば、その多くを引き付けて止まないだろう美しい少年。
僕らの宿敵、フェリックス・キングスコートの嫡男。
以前から、あの男に血を分けた息子がいることは知っていた。
いつかはそいつと見えることになるだろうという予感もあった。
けれど、まさかキオラが、その彼に惚れてしまうとは夢にも思っていなかった。
あの日、キングスコートの屋敷で初めて顔を合わせた時。
見せたい場所があるんだと言って、あいつはキオラをある場所まで連れて行った。
そこは、屋敷の離れにある中庭で、都会の喧騒からは隔離されたような美しい庭園だった。
自分にとって、ここは癒しの場所なんだと。
息が詰まりそうになった時には、よくここに避難してくるのだと。
あいつの言葉を真剣に聞いたキオラは、まるで天国のように美しい場所だと庭園を評した。
でも。
キオラがあの庭園に足を踏み入れた瞬間。
僕の本能が悍ましい気配を察知した。
ここは、この庭園の足元には。
あのゴーシャーク研究所の、境界部が広がっている気配がすると。
あの、無垢で無実の子供達が、物のように屠られているあの地獄の上に、この景色は成り立っているのだと。
そう理解した瞬間、激しい怒りが僕の意識を支配した。
真っ赤に充血した目。
彼が指摘してきたキオラの変調は、恐らく僕の怒りが伝染してしまったからなんだろう。
もしくは、彼女自身の無意識が、ここを自分が歩いてはならないと戒めようとしていたのかもしれない。
どちらにせよ、僕にとって彼との出会いは、避けられない宿命の最中にあった障壁だった。
"アンリさん、今どうしてるのかな"
"学校の人達とは上手くやれてるかな"
"意地悪されたり、のけ物にされたりしてないかな"
それからというもの、キオラの頭はしょっちゅうあいつのことで一杯になった。
楽しくスクールライフを送ってくれるといいとか、少しでも彼と通じ合ってくれる人が増えたらいいとか。
側にいない時でもその身を案じて、たまにあいつが浮かない顔をして帰ってきたりすると、我がことのように共感して落ち込んだ。
月日に換算するとそれほど急激な傾倒ではなかったけれど、日増しにキオラの気持ちは高まっていった。
着実に、そして抑え切れなくなるほどに。
"アンリ、今なにしてるのかな"
"クラスの人達と、一緒にお昼を食べてるのかな"
"気のいい話し相手が出来たって言ってたし、きっともう一人ぼっちではないんだろうな"
"よかった"
"よかった、けど"
"私も、一緒に学校とか、行ってみたかったな"
彼が孤独でなくなったことに安堵し、彼を慕う者が増えたことに寂しさを覚え。
彼の平穏な日常を素直に喜んでやれない自分を、嫌だ嫌だと嫌悪する。
明くる日も明くる日も、彼と共に過ごす日々を宝物のように噛み締めて。
彼の何気ない一言一句を、偉人の名句のように胸に刻んで。
どうしようもないほど、彼女があいつに惹かれていくのが分かる。
彼女の中にあいつが侵食していくのが分かる。
僕の中にまで、あいつが侵食しようと迫ってきているのが分かる。
『だめだよ、キオラ』
『君には、僕らには、ヴィクトールっていう最初で最後の友がいるだろう』
『僕を好きになってくれないなら、せめてヴィクトールを選んでよ』
『ヴィクトールだったら、僕だって許せるのに』
『なんで』
『なんで、よりにもよってあいつなんだよ』
『なんで、こんなにたくさん人間が住んでる世界で、あいつを好きになってしまったんだよ』
『なんで、あの男の系譜なんかを』
どうしてあいつなんだ。
なんで、よりにもよってあいつに惹かれてしまったんだ。
これだけたくさんの人がいる世界で、美しい人が、優しい人がいる世界で。
それでもあいつを好きになってしまったんだ。
百歩譲ってあいつ以外の誰かだったら、研究所の関係者以外だったなら、どこの馬の骨でも甘んじて受け入れてやろうと思っていたのに。
こんなの、絶対いけないよ。
彼を好きになっても、君は絶対に幸せになれない。
世の中には、好きになっちゃいけない相手もいるんだってこと、わかってよ、キオラ。
"アンリ"
"アンリ"
"いつかこの気持ちが彼に届いたらいい"
"いつまでもこの気持ちが、彼に伝わらなければいい"
"こんなに楽しくて、幸せだと思うのに"
"彼と一緒にいると、彼が側にいないと、どうしてこんなに苦しくなるんだろう"
"会いたい"
"声を聞きたい"
"アンリ"
あいつを想って一人笑みを浮かべるキオラ。
あいつを想って一人涙を零すキオラ。
あいつに出会ってから、僕は色んなキオラの顔を見た。
色んなキオラの感情を知った。
そしてそれは、ただ穏やかでいられるヴィクトールには、ただ信頼できる対象のヴィクトールには、どうしても向くことのない感情であることも知った。
キオラは、ヴィクトールとアンリと二人のことが好きで、大切だった。
でも、どちらがよりキオラを人間らしい生き物にしてくれるか、キオラの心を豊かにしてくれるかは、僕の目から見ても一目瞭然だった。
キオラは、あいつを、アンリのことを愛している。
誰になんと言われようとも、その気持ちは揺るがないだろう。
だから、僕も仕方なくキオラの気持ちだけは認めてやることにしたんだ。
出来れば他のやつを好きになってほしかったけど、好きになっても報われない相手を好きになってしまうなんて、随分人らしくなったものだと感心もしていたから。
いつかこの恋が終わりを迎える時が来て、キオラが心から悲しむことになったとしても。
そういう傷なら、彼女には必要な痛みだと思えたから。
「俺のために、生きて。キオラ」
そうして、キオラの気持ちを受け入れてみて、僕は僕の根源が初めて恐ろしくなった。
キオラもアンリも、僕がキオラの中に存在していることを知らない。
僕がなにを源として生まれたのかを知らない。
憤怒と憎悪と絶望の渦中に、それらを糧にすることでしか呼吸ができない僕の名を、二人は知らないし知ることもない。
故に僕は、いつかアンリに自分の正体を看破されることが、怖くなったんだ。
僕みたいな獣を内に飼っていることが知れれば、きっと今までのようには接してくれなくなるだろうから。
僕だけじゃなく、キオラに向ける目まで変わってしまうだろうから。
今まで、誰にどう思われようが構わないと思っていたのに。
僕らの本懐を遂げるためなら、僕ら以外の人から憎まれても平気だと思っていたのに。
なのに、彼と出会ってからは。
アンリにだけは、キオラを嫌ってほしくないと思ってしまったんだ。
不遜で野蛮なこの僕が、初めてキオラ以外の気持ちを気にするようになったんだ。
『どうすればいいんだよ、こんなの』
キオラはアンリを愛している。
アンリも、きっとキオラを愛している。
愛し合っている二人の間に僕は入れないし、僕の存在は二人にとって無用なものだろう。
もし。もし本当に、二人が結ばれる時が来たら。
いつかアンリが、愛情を示そうとキオラに触れる時が来たら。
真っさらだと思っていたキオラの体が、実は僕のせいで汚れていたことを知ったら、アンリはキオラを愛さなくなるだろうか。
僕は、いつか誰かの元に飛び立っていくであろう彼女の体を、悪人の血で染めようとしているのか。
キオラを選べば、アンリとの未来を捨てなくてはならない。
けれど、アンリとの未来を選べば、今のキオラを見捨てなくてはならない。
どちらが彼女のためになる選択なのか、いくら考えても断言はできない。
今の僕が正しいと思ったことを、生涯正しいと胸を張れる自信はない。
生まれて初めて芽生えた畏れは、僕の中に微かな迷いを生み。
その迷いは、次第に自らに対する存在意義すら揺らがせていって。
やがて一つの結論を出した時には、もう今までのように前だけを向いていられなくなっていた。
『どちらを選んだとしても、誰も僕を望んでいないんだ』




