Episode36-3:優しい君が壊れるまで
あの日、境界部に侵入した一件を皮切りに、ゼロワンだった頃の彼女は一掃された。
過去の記憶の全てを奪われ、これまでに培われた自己すらも破壊されて、強制的に新しい人間へと改造されることになったのだ。
偽りの出自、偽りの安寧、偽りの展望。
血の繋がらない他人を家族と思い込まされ、右も左も知らない土地を故郷と刷り込まれ。
全ての幸福を貸し物として与えられて、仮初めの人生を歩めと強制された。
要は、本人の意思に関係なく、強引に生まれ変わりを体現させられたということだ。
でも、彼女自身はそれがとても幸せそうだった。
例え偽物であっても、愛してくれる家族がいてくれることが、帰る家があることが。
普通の人達にとっての当たり前を、当たり前に生きられる今の世界が、ただただ嬉しくて楽しそうだった。
僕は、そんな彼女を見て、彼女が幸せならこれでいいのかもしれないと少し思った。
奴らの悪徳までなかったことにされるのは心外だったけれど、忘れられたなら、忘れたままでいいんじゃないかとも思ったから。
逃れられない痛みに苦しみ続けるより、いっそ蓋をして閉じ込めてしまった方が、彼女のためにはいい気がしたからだ。
でも、それはあくまで彼女が地上にいる時の話。
キオラという新しい名前を貰っても、ゼロワンだった頃からの習慣まで一新されたわけじゃなかった。
結局はただ環境が変わっただけで、根本的なものはなにも改められなかったんだと、後になってから気付いた。
『キオラ、目を覚まして』
『今君が見ているのは、ぜんぶ嘘なんだ』
『本当のことなんてなに一つないんだよ』
『人並みの日々を得られたからって許しちゃいけない』
『あいつらを許しちゃだめだ』
『キオラ、目を覚ますんだ』
『僕らの本懐を思い出せ』
何度訴えても、僕の思いはキオラに届かない。
そのもどかしさは、研究所で暮らしていた頃と同じだった。
でも、今の僕は違う。
彼女が新しくなっただけでなく、境界部での一件は僕にも大きな変化を齎した。
それは、
「───ますか。聞こえますか、キオラさん。
僕が誰だか分かりますか?どうして自分はここにいるのか、思い出せますか?」
それは、以前までと違って、キオラと主導権を交代できるようになったこと。
通常の立場を逆転し、キオラが鏡の中に、僕が表に出られるようになったことだった。
といっても、僕とキオラが交代できるタイミングは限られていて、いつでも自由に代われるわけではなかった。
彼女と交代するために必要だった条件は、大まかに分けて二つ。
一つは、キオラの肉体が睡眠状態に入ること。
そしてもう一つが、ゴーシャークの実験のアフターケアとして、記憶の改竄が施された直後であるということだった。
つまり、ゴーシャークの実験により疲弊したキオラの体が、改竄が完了してスリープ状態に入った時。
その極めて限られた条件下でのみ、当時の僕にもイニシアチブを取ることが可能だったのだ。
最初の頃は、慣れない肢体の操作に苦労した。
実験の直後という条件もあったせいで、ちょっとしたことでもすぐ不調を感じた。
思っていることが上手く言語化できなくて、ふとした拍子に慌てたこともあった。
今までキオラの内側で見ていただけだったから、いざ自分の意思で立って歩くというのは、まさしく赤子のそれと等しい感覚だった。
しかし同時に、着実にキオラの体を支配できている実感もあった。
今はまだ思うようにいかないけれど、いつかは。
彼女自身のポテンシャルを僕が代わりに行使することも、いずれ可能になるはずだという自信が芽生えていくのを感じた。
そして、そんな試行錯誤を続けていたある日のことだ。
いつものように彼女と交代した僕は、彼女のふりをして研究所の中を散策していた。
当時の交代の条件として、実験の直後であることが必須だったから、必然的に僕の行動範囲は研究所の中だけに制限されていた。
だから、いつか外の世界も歩けるようになった時のために、せめて今のうちから訓練だけでもしておこうと思ったんだ。
研究所の中は地上と違って淡泊な場所だったけれど、歩行や会話の練習には困らない環境だったから。
あてもなく廊下を行き来したり、キオラのためにと用意された本を読んだり。
キオラの体が万全の状態じゃなかったせいでどれも身は入らなかったけれど、僕の行動を訝る者は誰もいなかった。
キオラの喋り方、歩き方。
特定の誰かに対する二人称、特定のアクションに対するリアクション。
完璧にキオラの真似をこなしていた僕を、実は中身の違う別人だとは誰も疑わなかった。
ただ一人、キオラの一挙一動に熱烈な関心を向けていた人物を除いて、だけど。
「君は、本物のキーラじゃないね」
ヴィクトール・ライシガー。
フェリックスの一番弟子として、ある日を境にキオラの前に降り立った青年。
地上の世界に出たキオラが初めて手に入れた、実体のある人間の友達。
彼だけが、僕が偽物であることをすぐに見抜いた。
どうして気付かれたのか。
何故、キオラと出会ったばかりのこいつに、キオラと僕との微妙な違いが見抜けたのか。
定かな理由は分からなかったけれど、ヴィクトールは確信を持った目で僕の本質を見ていた。
どんなに精巧にコピーしていても、細かく観察すれば両者が別物であることが見て取れると言って。
当初は、問い詰められてもはぐらかせばいいだけと楽観していた。
ヴィクトール以外に僕の正体を見破った奴はいなかったし、新参のヴィクトールの言葉を真に受ける奴も、この頃にはまだいなかったから。
だから、僕が無視をして放っておけば、こいつも関心が薄れて事なきを得るだろうと。
そう高を括っていた。
ところがだ。
何度否定しても、何度煙に巻いても、ヴィクトールは何度でも僕に付き纏ってきた。
君はキーラとは違う。
キーラに害を及ぼす気があるなら、放っておくわけにはいかないと。
そのうちに、先に根負けした僕が真実を白状した。
少なくとも、ヴィクトールに敵意や悪意はないようだったから。
そんなにキオラのことを心配してくれるやつなら、少しくらいなら秘密を明かしてやってもいいと思って。
するとヴィクトールは、僕らの事情を把握するなりこんな提案をしてきた。
今後は、君と自分とで力を合わせてキオラを守っていかないかと。
全く予想だにしていなかった展開だった。
こいつとキオラが友人になったことは知っていたけれど、まさかこれほどに深い情がヴィクトール側にあるとは思わなかったから。
やがて、僕達は紆余曲折の末に盟友となった。
僕はキオラの心を。
ヴィクトールはキオラの体を守る騎士として、共にキオラのために生涯を捧げる誓いを立てた。
キオラと違って懐疑深い僕は、ヴィクトールのことを好きにはなれなかった。
ただ、ヴィクトールのキオラに対する気持ちは本物だと分かったから、信用に値する人物であることだけは認めていた。
地上に出れば、ヘイズやヨダカもいる。
彼らのことは僕も好きだったし、頼りになる存在だと認識していた。
ただ、彼らは地上にいる時のキオラしか知らない。
純真無垢な、思いやりのある聡明な少女としての側面しか知らない。
だから、そういう点から考えても、ヴィクトールは僕らにとって唯一無二の相手と言えた。
ヴィクトールなら、キオラの生い立ちを知っている。
封じきれないキオラの醜さも汚さも、彼は全て把握している。
なにより、キオラの痛みに寄り添おうと努力してくれている。
キオラが普通でないことを理解しながら、それでも普通の女の子として接しようとしてくれている。
その細やかな気遣いや共感が、僕にとってはかけがえのないものに感じられた。
こいつになら、キオラを任せてやってもいい。
こいつなら、キオラの生涯の伴侶として、納得してやってもいい。
いつからか、そんな朧げな展望さえ抱くようになったほどに。




