Episode36-2:優しい君が壊れるまで
「動かないで。大人しくして。手荒な真似はしたくないの」
それから更に時が過ぎ、スピロス采配の実験から二月ほどが経過したある日。
一切の予兆なく、キオラの日常に新たな登場人物が現れた。
その日はなにか非常事態が発生したとかで、スタッフ達が総出で収拾に駆り出されていた。
後から聞いた話、ある人物がなんらかの不祥事、乃至揉め事を起こしたのが事の発端だったそうだ。
たかだか誰かの尻拭いをするくらいで、なにをそんなに取り乱しているのか。
最初はそう思ったが、多分彼らが苛立っていたのは後始末が億劫だったからじゃない。
恐らく、今回の騒動の発端が、外側ではなく内側から生じたことが有り得なくて狼狽えていたのだ。
絶対的な支配が敷かれているここで、規律を乱す不届き者が出現するなんて終ぞなかったことだから。
そして、その"不届き者"に当たる輩というのが、キオラの世界の新たな登場人物となった少女だった。
「きれい………。」
肩につくほどの真っ赤な髪。
血管が透けて見える白い肌。
淡いピンク色の瞳。
すらりとした肢体と端正な面立ちが印象的な、十代後半とおぼしき年頃の少女。
その姿を目にした瞬間、キオラは無意識に綺麗だと呟いていた。
確かに、彼女は今まで見てきたどんな人間より美しかった。
僕に言わせてみれば、キオラの方が美人だとは思うけど。
でも、はっきりしていたのは容姿だけで、彼女が何者なのかは一切不明だった。
どこからやって来たのか、なんのためにここにいるのか。
状況から考えて、彼女が今回の騒動の中心にいるだろうことは推察できたが、それ以外のことは何一つとして分からなかった。
というより、この時のキオラが酷く混乱していたので、彼女の正体を推理するための余力が足りなかったのだ。
ただ、そんな得体の知れない彼女にも、確かだと言えるものが一つあった。
それは、偶然出くわしたキオラに対して、敵意を持っていなかったこと。
今まで接してきた誰より、優しい手つきでキオラに触れてくれたことだ。
だから僕は、初めて見える彼女に対して悪い感情を抱かなかった。
どこの誰だかは知らないけど、初めてキオラを人として扱ってくれた人だったから。
「私はイノセンス。
いつか迎えに行くから、今日という日を忘れないでね」
後にイノセンスと名乗った彼女は、キオラにある置き土産を残してどこかへと消えていった。
行き先は教えてくれなかったけれど、きっと外の世界を目指していったんだと思う。
ここのスタッフ達に追われているようでもあったから、それらの追撃から逃れるために。
キオラは、彼女と別れた後すぐにその場を離れると、彼女が残してくれた置き土産を頼りにある場所へと向かった。
通称境界部と呼ばれる、以前から固く立ち入りを禁じられていたエリアだ。
そこになにが隠されているのかは全く明かされていなかったが、スタッフ達の噂によると、実験を行うラボを兼ねているという話だった。
無論、出入りを許されているのは限られた者だけで、キオラは近付くことすら許されていなかった。
そこで鍵となったのが、例の"置き土産"だ。
ジャスパー・キッドマンという、とある研究員の持つIDカード。
どこで手に入れたのかは知らないが、彼女はそれを持っていて、キオラに餞別として授けてくれた。
謎に包まれた境界部への道を拓く、文字通りの鍵として。
そしてこの選択が、結果としてキオラの世界におけるラスボスを本気にさせるきっかけとなった。
――――――――
無事境界部へと侵入したキオラは、そこで何人もの人のこどもを目にすることになった。
身体を欠損した子、仕種や声が挙動不審な子。
様々な個性を体現したその子らは、俗に障がい者と呼ばれる者達だった。
何故、こんなところにこんな小さなこども達が、物のように並べられているのか。
彼らに親はいないのか。ならばどうして生まれたのか。
キオラの心に動揺が広がっていくにつれ、僕の意識もジャミングを受けたように痙攣を起こした。
今まで自分以外のこどもを見たことがなかったのだから、キオラが混乱するのは無理のないことだった。
それでも、キオラは立ち止まらずに目の前の現実を受け入れようとした。
せっかく彼女が、イノセンスが与えてくれたチャンスを無駄にしたくないと思ったからだ。
すると、しぶとく目を光らせるキオラの前に、思いがけない尻尾が現れた。
キオラを真実へと導いてくれる、隠し扉という名の尻尾が。
迷わず尻尾を引っこ抜いたキオラは、悍ましい秘密が隠された情報の山を発見することになった。
それはキオラに本当のことを教えてくれたけれど、同時に当時のキオラが知ってはならないものも詳らかにしてしまった。
「かみ、かくし」
ここにいるこども達は、どうして生まれてきたのか。これからどうなっていくのか。
彼らの末路を詳しく記したそれを前に、キオラは酷く動揺して、悲しんだ。
でも僕は、悲しむよりも先に怒りが湧いた。
こんな、理不尽で凄惨極まりない所業が、今まで平気で成り立っていたという事実が許せなくてたまらなかった。
そして、漠然と理解もした。
キオラが理解するよりも先に、この状況が示すものを僕は理解した。
コロニー。意味は集団繁殖地。
同じ運命、同じ数奇な末路を辿る者。
一時ではあれ、同じ時空に在った存在。
キオラは、彼らの兄弟なんだと。
「なにをしている、ゼロワン」
そうこうしている内に、キオラの背後に何者かが立っていた。
その声に覚えのあったキオラは、振り向く前に声の正体を察した。
無論、僕もだ。
フェリックス・キングスコート。
この研究所一帯を統治する総帥に当たる人物で、キオラを支配する邪悪の化身だ。
キオラはこの男を恨んではいなかったようだけど、僕は生まれた時からこいつが嫌いだった。
いや、憎んでいた。
何故なら、こいつこそがキオラを苦しめる諸悪そのものだったから。
総帥ということはつまり、少なくともこの研究所においては、こいつが最高権力を有しているということだ。
一度こいつが指令を出せば、どんなに優秀なスタッフであっても決して口答え出来ない。
まさに支配者と呼ぶに相応しい、絶対的な頂点に君臨している者ということだ。
なのにこいつは、そんな絶対的な権力を持っていながら、その力をキオラを救うためには使わなかった。
連日キオラがゴーシャークの連中に嬲られていることは知っていただろうに、一度でもそれを止めようとはしてくれなかったんだ。
従順なしもべ共を顎で使い、自分はいつだって高みの見物。
そのくせここぞという時には必ずしゃしゃり出てきて、ヒエラルキーとはなんぞやとキオラに畏怖を植え付けていく。
きっと、こいつの手によってキオラは生まれたのだろう。
こうして生かされているのだって、こいつが目をかけているおかげなんだろう。
でも、それにしてもだ。
言い方を変えれば、こいつさえいなければキオラはここまで苦しむことはなかったんだ。
そんな相手を、憎悪こそすれ、尊敬などするものか。
「大丈夫。一度は空になっても、すぐに代わりの息を吹き込んでやる。
それまでの間、精々甘い夢に浸り、束の間の幻想に酔いしれるといい。
形はどうあれ、お前の望みは刹那の空想の中に果たされるのだから。
これなら、約束を破ったことにはならないだろう?」
いくら異議を申し立てようと、この男には通じない。
何度尊さを訴えようと、この男には理解する気がない。
大の男が数人がかりで、幼い彼女に覆いかぶさっていく。
激しく暴れるほどに、彼女の首は締まっていく。
首筋に注射器が宛がわれる感触が、キオラの五感を通じて僕にも伝わってきた。
同時に、キオラの胸中に湧いた絶望も、僕の中に流れ込んでくるのを感じた。
"私は、馬鹿だ"
聞こえているのに。届いているのに。
今こそ僕が、彼女の味方になるべき時なのに。
手が、足が動かない。声が出ない。
僕の返事が君に届かない。
なにも、できない。
僕は君に、なにもしてあげられない。
こんな時まで、僕は傍観者でしかいられないのか。
こんな時ほど、君と同じ命である事実が、憎らしくてたまらない。
「ぜったい、ゆるさない。
あなたも、おまえらも。なんどわすれたって、このにくしみはいっしょう、きえないぞ」
突き刺された痛みも、注ぎ込まれる息苦しさも。
まるで自分がされているように感じるのに、実際に受けているのはキオラだとはっきり認識できてしまう。
だって僕は、君であって君でないから。
僕が君を助けるビジョンはまるで見えないのに、忘却という沼に沈んでいく君の姿はまざまざと見えてしまうから。
ああ、落ちていく。沈んでいく。
彼女の意識が、深い深い闇の底へと向かっていくのが分かる。
君と僕の自我が、より明確に離れていくのが分かる。
動かなかった手が、足が、彼女が落ちていくにつれて少しずつ動かせるようになっていく。
彼女がもう浮上できないところまで沈んでようやく、その沼の辺に近付くことができる。
ああ、落ちていく。落ちている。
輪郭まで溶けてしまうほど深いところへと、ただ落ちていく君をただ見ている。
ただ、見ていることしか、僕には出来ない。
この時の局面を、心情を、余さず言葉にすることは難しい。
だが、このあと僕らはどうなるのか、少し先の未来のことには確信があった。
彼女は、沈んでいった彼女は、多分もう浮上してくることはないということ。
そして僕には、彼女を引っ張り上げるだけの力がないということだ。
恐らく、明日目覚める彼女は彼女であって彼女でないのだろう。
辛かったことも悲しかったこともなかったことにされて、自分が何者であるのかも忘れてしまっているのだろう。
皮肉なことだ。
あれほど無力だった僕が、指をくわえて見ているしか出来なかった僕が、唯一君を覚えている。
君が君であったことを君は忘れてしまうのに、僕だけはそんな君を覚えている。
君が失ってしまったものを、僕だけがずっと仕舞い続ける。
この状況を、ラッキーだとは言わない。
けれど、ラッキーにしてしまえる条件が揃ったことを、望まなかったとも言わない。
オリジナルのアドバンテージが薄れた今なら、僕は、君と同等の権利を得ることができる。
主導権が空席になった今後は、僕にも何度となくチャンスが巡ってくる。
だったら、そのチャンスを有効に使わない手はない。
どうせ抗えない呪いなら、それすら飲み込むほどにずる賢くなればいい。
赤ん坊が泣く声が聞こえる。
安心しきったスタッフ達の声が聞こえる。
あの男の退屈そうな足音が、ゆっくりと遠ざかっていくのが聞こえる。
すっかり眠ってしまった彼女を、軽々と運び出すテオドアの手の感触が、はっきりと分かる。
ああ、分かる。
彼女越しにではなく、確かに僕が、直に感じていることが分かる。
やっと、やっとだ。
やっとこの時がきた。
これでやっと、文字通りの一心同体。
あと少し。
僕が君の神様になるまで、あともう少しだ。
「初めまして、僕になった君」
『My darling』




