Episode36:優しい君が壊れるまで
いつから僕は存在するのか。
いつ頃僕は生まれたのか。
明確な日付はわからない。
ただ、僕の自我が確立するきっかけとなった出来事のことは、今でも鮮明に覚えている。
あれは、キオラがまだ11歳だった時の話だ。
あの日もゴーシャークによる実験が行われて、その最中にキオラの精神が崩壊しかける事件が起きた。
実験の内容は、大音量のサイレンをランダムに繰り返し聞かせるというもの。
要は、死ぬほど煩い空間の中で、どれだけキオラの耐久が持つかというテストだった。
だが、一口に耐久といっても、彼らゴーシャークの定義する耐久には特別なルールがあった。
それは、実験中における"待った"が徹頭徹尾通用しないということ。
対象となるキオラの意思が、実験の打ち止め条件として一切受理されないということだった。
いくら泣こうが喚こうが、これ以上は死ぬと訴えようが、彼らがキオラの意見を聞き入れることは決してない。
むしろ、正常に口が利ける内は許容の範疇と見なされるため、却って自分の首を絞めるはめになりかねない。
結局のところ、キオラが自らの意思で我慢することには、何の意味も価値も付与されないのだ。
追い詰められた末に思考を手放し、理性が破裂する寸前のところまで擦り減らない限り、このテストの終わりは見えてこない。
結果、再三苦しめられた揚句に意識を失ったキオラは、彼らの思惑通りの末路を辿ることになったのである。
そして、彼女が意識を手放す瞬間に芽吹いた存在こそが、僕だった。
"人格剥離"
自らの自意識を二つに分断することで、自らに掛けられる負荷を僅かでも軽減させようとした無意識の残滓。
キオラの中の本能が、キオラ自身の自己を守るために発動した防衛機構。
それが、"僕"として形を成した新たな人格だった。
あの一瞬。キオラの一側面が、もう一つの意識として自我を得た瞬間。
あくまで彼女の一部に過ぎなかった"悪意"が、彼女の分身として昇華した瞬間。
世に既存する言語ではとても表現することの叶わない、複雑怪奇な感覚が僕を襲った。
例えば、骨をも溶かす溶岩に、髪の一本まで浸かっていくような。
光をも飲み込む煙霞に、指の輪郭まで消されていくような。
とにかく、ありとあらゆる感情が混ざり合って、キオラの体と一体化していくような感じがしたのを覚えている。
でも、それが不快だとは少しも思わなかった。
何故なら僕は、こうして目覚める時が来るのを、ずっと前から待っていたから。
待っていた気がするから。
彼女自身に尋ねたことはないから、どうして彼女が僕に自我を与えたのかはよく分からないけれど。
僕なりの解釈で言わせてもらえば、きっと味方が欲しかったんじゃないかと思う。
いつでも側にいてくれて、どんな時も自分の感性に賛同してくれる、唯一無二の友が。
だから僕は、常に彼女に寄り添う存在であろうと決めたんだ。
例え、目に映る全ての人が、彼女を愚かと笑っても。
誰もが彼女の尊厳を踏みにじり、彼女の声を無視したとしても。
僕だけは、彼女の在り方を尊重してやれる"人"になろうって、決めたんだ。
彼女のために生まれた僕が、彼女のためにしてやれることはそれしかないと、この時までは思っていたから。
―――――――
キオラの中に棲まうようになってからは、キオラ越しに世界というものを知覚するようになった。
キオラが美しいと感じたものは僕も自然と美しいと感じたし、キオラが辛いと思った時には僕も当たり前に辛いと思った。
いつだって、僕とキオラは全てを共有していた。
媒介とする肉体そのものを共有しているのだから、その肉体が得た経験も共有するのは当たり前のことだった。
でも、そのせいもあってか、僕は彼女の生き様を俯瞰して見ることができなかった。
彼女の内側から見る彼女の世界は、果てがなく孤独で、霞むほど虚ろで、一欠けらの希望すら落ちていない無慈悲な色をしていたから。
そんな日々の中に生きる彼女は、いつだって一人ぼっちだったから。
だから、死ぬほど可哀相で、可愛そうなキオラが。
可哀相で可愛いキオラが、哀れでいじらしくてたまらなくて。誰より愛されることを望み、誰より愛することを否定された掌が、切なくて狂いそうで。
次第に、愛さずにはいられなくなって。
いつからか、自分は彼女から生まれたのだということを忘れ、元々は彼女と同じ魂なのだということを忘れて。
僕は、一人の人間としてキオラを愛するようになってしまっていた。
決して叶わぬ恋慕とは承知でも。
同じ顔の相手に惹かれるなんて、世の理から外れていることなんだとしても。
それでも僕は、彼女の無垢に惹かれずにはいられなかった。
光なくしては、影は存在できないように。
オリジナルがなければ、レプリカは作れないように。
悪意から派生して生まれた僕が、善意を基とした彼女に引き寄せられていったのも、ある意味自然の摂理だったのかもしれないと。
今となっては、そんな風に思う。
――――――――
「ねえ。そっちの私は楽しい?
鏡の中の世界って、ここより優しい場所ですか?」
彼女が僕に話し掛けるようになったのは、それからしばらく経ってのことだった。
誰に教わることもなく、おもむろに姿見の前に立った彼女は、鏡面に映る自分の顔に向かって突然呼び掛け始めた。
決して返事が返ってくることはないと知りながら、それでも繰り返し呼び掛け続けた。
"友達っていうのは、きっとこんな感じなんだろうな"
その時ふと伝わってきた感情は、紛れも無く僕に向けてくれた感情だった。
嬉しかった。
自分の存在が、少しでも彼女の癒しとなれたことが。
自分の存在に、少しだけ彼女が目を向けてくれたことが。
けれど同時に、僕はこの時間がとても切なくて、辛くもあった。
どんなに彼女が話し掛けてくれても、僕は彼女に返事を出来ない。
どんなに僕が想っていても、その想いは彼女に伝わらない。
触れたい時に触れられない。
話したい時に話せない。
僕のぬくもりを、彼女に分けてあげることができない。
誰にも、僕が存在することを知ってもらえない。
最初はそれでもいいと思った。
気付いてもらえるかどうかが重要なのではなく、彼女に寄り添い、彼女を見守り続けることが僕の使命だと思っていたから。
でも、彼女を知れば知るほど、それは許容できない理不尽へと成長していった。
僕だけは、誰も知らないキオラの涙を知っている。
僕だけは、誰も知らないキオラの痛みを知っている。
僕だけが、誰も知ろうとしないキオラの心を知っている。
なのに。どうして僕には、キオラに寄り添う術がないのか。
誰よりキオラの美徳を理解しているのは僕だ。
誰よりキオラの痛みに共感してやれるのも僕だ。
僕ならキオラの望むものを与えてやれるし、僕もキオラに望まれることを望んでいる。
僕とキオラが手を取り合えば、どんな困難にも立ち向かっていけるはずなんだ。
なのに、どうしてだ。
なんで、一番キオラを愛している僕が、一番キオラから遠い場所にいるんだ。
キオラを傷付ける者は容易に触れることが出来るのに、キオラを愛する僕だけは見つめることさえ許されないんだ。
嫌だ。納得できない。
こんなに近くにいるのに。こんなに近い存在なのに。
君は一人ぼっちじゃないよって教えてあげたいのに。
"僕を見て、キオラ"
"僕は、君のことをよく知ってる"
"僕なら、君の理想の友達になってあげられる"
"だから、ねえ"
"お願いだ"
"キオラ"
"僕を見てよ ねえ"
思い通りにならないもどかしさは、やがて抑え切れない悔しさとなり、激しさとなり。
より明確な願望となって、僕の根源を刺激した。
悪意と憎悪と、途方もない怒りという名の、僕を僕たらしめる根源を。
「私も、そっちの世界に行きたいな」
叶うならば、キオラの涙を拭ってやれる指がほしかった。
キオラの肩を抱きしめてやれる腕が欲しかった。
キオラの名を呼んでやれる声がほしかった。
他にはなにもいらない。
ただ、キオラが幸せになれる世界だけ手に入ればよかった。
"だったら、交換しようか"
なにが寄り添うだ。なにが見守るだ。
大層なことをぬかしておいて、結局僕はなんの役にも立たない。
何一つ示すことができないなら、そんなの始めからなかったのと同じだ。
いるもいないも同じことだ。
彼女は僕に自我を与えてくれた。もう一人の自分として意思を持たせてくれた。
ならば、僕には彼女に示す義務があるはずだ。
確かな理由は分からないけれど、そうなったのには必ず原因があるはずだから。
彼女が僕に望むもの。
友達にも家族にもなれない、話すことも触れ合うこともできない僕に、彼女の本能が望んだもの。
考えろ。
孤独と痛みに苛まれ続ける彼女の日々に、僕が唯一干渉できること。
他の誰でもない、僕にしかできないこと。
考えろ。彼女を救うために、僕はどんな犠牲を払えばいい。
"僕が、代わりに変えてあげる"
"君がなりたった自分に、君が望みきれなかった世界に"
"だから、ごめんね"
"君を助けるために、僕は君を壊すしかない"
彼女から分かたれた僕が、彼女のためにしてやれること。
それは、僕が彼女になること。
逃げられない苦しみから、彼女を守ってあげることだった。
やっと、分かった。
僕が生まれた理由は、"僕"が彼女の友達になるためじゃない。
いつか彼女を、"友達"のいる世界へ連れていってあげるためだったんだ。
やっと、決めたよ。
君がいつか、普通の女の子みたいに笑って生きられるように。
君を束縛するすべての災厄を、すべての闇を、僕が必ず取り払ってあげる。
君と君の友達になる子を、僕が纏めて守ってみせる。
もし。誰一人も君を愛してくれなかったなら。
ようやく手に入った平穏が、それでも君を傷付けるというのなら。
その時は、君以外のすべてを消す。
ぜんぶすり潰して、君だけになった世界を新しく構築する。
僕が、君の世界を創造する。
"神様がいないなら、自分が神様になってしまえばいいんだよ"
君を幸せにするためなら、僕は神様にだって、魔王にだってなってみせるよ。




