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オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
235/326

Episode35-4:冥王クリシュナ



仄かに浮かぶミントの香り。

女学生のように軽い足音。

幅を取らない薄い肩、覇気に乏しい薄い影。

興奮するとたまに出る、ドッグラフにも似た息遣い。


エメリー・ロカンクール。スイス出身の32歳。

ゴーシャークの中で最年少に当たるお前は、数年前まで最もキオラと親しいスタッフだった。


初めて顔を合わせた時、本気で女性と間違えたことも。

ローズミントの香水を、歯磨き粉の匂いみたいだと思ったことも。


僕にとってはどうでもいい印象でも、キオラはずっと覚えていた。

お前とやり取りした日々の思い出を、いつまでも胸に仕舞って愛でていた。


何故って、お前のことを友達だと思っていたから。

ただの世話役に過ぎなかったお前のことを、いつの間にか好きになっていたからだ。


そうだよ。キオラはお前を好いていた。

男ばかりの環境で、女に近いお前の存在が精神的支柱だった。

母を持たないキオラが、母性を求めた末に見出だした拠り拠が、お前だった。



だから僕も、お前を特別扱いしてやることにしたんだ。

キオラにとって特別な相手なら、僕も無下にはできないからね。


ほら、冷静になって考えてごらんよ。

猶予を与えてやったことで、自分の死を予習することができただろう?

刻限を定めてやったことで、自分の生を復習することができただろう?


好きなだけ恐怖を叫ぶ自由も、好きなだけ狼狽を晒す時間も与えてやった。

好きなだけ、好きだったものを思い返す走馬灯も見せてやった。


"先立つ不幸をお許し下さい"

どこかにいるだろう家族に対して、月並みな遺言を呟くための決心も促してやった。

これ以上ないほどの慈悲と配慮を、お前だけに施してやった。


直情的でせっかちなこの僕がここまでしてやったんだから、お前も自分の立場をほとほと理解できたはずだ。

嫌というほどにね。



"どうせ殺される運命なら、いっそ一思いにやってほしかった?"

"特別扱いしてくれるなら、最後と言わず最初に手にかけてほしかった?"

"本当は全て嫌がらせのつもりで、自分の最期を先送りにしたんだろう?"


そんなことはないさ。

僕は確かに、慈悲を以ってお前を最後に回してやった。


おかげで、感じるだろう?

人間の本能に、じわじわと全身が蝕まれていくのが。

人間らしい絶望に、頑ななプライドが溶かされていくのが。


キオラが好いていたのは、優しい"人"だった頃のお前だった。

故にこそ僕は、お前の中の"人"の部分を呼び起こしてやろうと決めたんだ。


絶命の瞬間まで人で無しでいたら、それは"人生"の最後とは言えないからね。

お前の生きてきた月日を"人生"として遺してやるために、仕方なく"待て"を我慢してやったってわけ。


これで心置きなく、お前は人として地獄に行けるはずだ。

一足先に堕ちていったお仲間とは別々になってしまうかもしれないけど、自分だけ罰が甘くなるならその方がいいだろう?


例え仲間を、友人を蹴落とすことになっても、自分だけは甘い汁を啜っていたい。

例え仲間を、友人を見殺しにすることになっても、自分だけは助かりたい。

業火の地獄に堕ちた仲間と罪を分け合うくらいなら、自分だけでもぬるま湯の地獄に通してほしい。


自分さえ良ければ、自分以外のやつがどうなろうと構わない。

お前達は昔からそういうやつだったんだ。

今更縁が切れたところで、悲しむことなんてないだろ?






さて、特別待遇のスペシャルタイムも、そろそろ時間切れだ。

いよいよ僕らのラストステージ。最終演目といこう。

観客の皆もきっとお待ちかねだ。


さあ、エメリー。

真っ白な白衣を真っ赤なドレスにお色直しして、このステージに艶を添えてくれ。

息絶える瞬間は、その渋い声で歌姫のような叫びを聞かせてくれることを期待しているよ。



僕も息を整えて、最後の演目に向けて歩みを進める。


剥き出しの素足から、冷たい床と温かい血潮の感触が伝わってくる。

聞き手の指に力を込めると、バキバキと関節の軋む音が鳴る。


その音に、エメリーがはっとこちらを振り向いたのが空気で分かった。


でも、お前にキオラの名は汚させない。

もう、お前の口からキオラの名は告げさせない。


お前が台本にない台詞を口走る前に、僕の腕がお前の思考を穿つ。



"だったら、償わせてあげるよ"


厚いマジックミラーに向かって、エメリーの丸い頭を持っていく。


砕けた瞬間は、今までのやつらとは少し違った音が鳴った。

砕けたというよりは、弾けたって感じの音に近かったかもしれない。

やっぱり、強化ガラスで出来ているだけあって、壁や床とは衝撃の種類も異なるみたいだ。



直後、通信機の向こうからレイニール達の声が聞こえた。

引き攣った感じの、女がとっさに悲鳴を上げた時みたいな短い声だ。


それから、少し遅れて視覚の方にも変化が現れた。


一瞬にして目の前が真っ白になる感覚。

鼻先に火花でも散ったような、刹那的で後を引く眩しさが網膜を刺激する痛み。


ああ、やっとか。

間もなく、光に慣れた視覚が正常な景色を認識し始める。

視界に収まる赤とモノクロのコントラストに、思わず口角が上がるのを感じる。


自分でも慎みがないと思うけど、仕方ないんだよ。

だって、マジックミラー越しに広がっていた景色が、想像を遥かに越える地獄絵図だったから。

こんなに耽美で愉快な世界を前に、ノーリアクションでいろって方が無理だろう。



白塗りの空間を汚す赤い血飛沫。

血飛沫の中に散らばる無数の死体。

分かたれた胴体と、ぐちゃぐちゃに弾けた頭蓋骨の欠片。


なんて、綺麗なんだろう。

どんなに醜い面貌をしていようと、醜い性根を持ち合わせていようと。

人間の本質は皆一緒。誰でも赤い血を流す。


死んで初めて、その人本来の美しさを垣間見ることが出来る。

死んでようやく、その人が正常な死を迎えられたことが確認出来る。


中身を失った器としてなら、こいつらも少しは見られる風体になったというもの。

むしろ、生前の頃より身奇麗になったんじゃないだろうか。


一枚でもこの場面を写真に収めることが出来たなら、こいつらの変わり果てた姿を親族の人達に送ってやるのに。

僕の記憶にはしっかりと焼き付けておくけど、多くの人に鑑賞してもらえないのは本当に残念だ。



ああ、それから。忘れちゃいけないのがもう一人いた。

たった今手に掛けたばかりの首の持ち主だ。


エメリー。

僕の右手に纏わり付いているのは、彼の"頭だったもの"の残りかすで相違ない。


まるで水気を含んだ泥でも握らされている手触りだけど、それが"エメリーだったもの"だと思えばそんなに不快じゃない。

これがあいつの命の感触なんだと思えば、延々と捏ねくり回していても有意義なくらいだ。



"やったよ、キオラ。

これで、僕らの願望が願望だけで終わらないってことが立証された"


全身を巡る血が滾る。

血に濡れた右腕が疼く。

言葉にならない充足感に包まれて、今にもどこかへ意識が飛んでいってしまいそうになる。


それをぐっと堪えると、代わりに笑いが出そうになって、自然と表情が歪んでいく。


"誰も褒めてくれなくても、誰も慰めてくれなくても"

"それでも、僕はやったよ。君のために"

"いいや、僕らのために。僕らが生きる世界のために"


ふと正面にピントを合わせると、ミラーに映った"僕ら"の顔があった。

返り血と肉片がべとべとに付着した、お人形さんみたいに端正な顔だ。


その瞬間、その一瞬だけ、僕は少しだけ失敗したなと思った。

大事な大事なキオラの顔を、こんな風に下品に汚すつもりはなかったから。



"これでいいよ"

"君は間違ってない"


この時声をかけてくれたのが、キオラだったのか僕自身だったのかは分からない。


それでも、僕は今この時を後悔しないだろう。

この先なにがあろうとも、僕は僕の選択を間違っていたとは思わないだろう。


そう、この先なにが、どんな結末が待ち構えていようとも。

後悔だけはしないって決めたんだ。

キオラを守るためなら、キオラ以外の全てを失うことになっても構わないって、決めたんだ。



"――ッ今すぐ鎮静措置を稼動させろ!!!"


一拍遅れて我に返った様子のレイニールが、甲高い声で誰にでもなくまくし立てた。

やけに焦ったトーンだったから、ガラスに映る僕の顔がよっぽど悍ましいものに見えたんだろう。


直後、白いガスが四方から噴き出してきた。

微かに薬品の香りを帯びた、眠気と屈服を促す依存性の強い煙だ。


成分は恐らく、鎮静剤と幻覚剤を混ぜたものと思われる。

実際、ガスが部屋に満ちていくにつれて、目の前がふわふわと霞み始めたのを感じるから。

視覚的な意味でも、意識的な意味でも。


それに、僕はこの感覚を以前から知っている。

キオラの記憶に改竄を施す時、手順の一つとしてよくこの薬を嗅がされていた。

連中の間では、よりマインドコントロールを浸透させるためのドーピング、みたいな扱いなのかもしれない。



ああ、足腰に力が入らなくなってきた。

エメリーの血溜まりに寝そべるのはちょっと気持ち悪いけど、もう体が言うことを聞いてくれないや。


その場に倒れ込むと同時に、いよいよ思考も麻痺し始めた。

もう直、僕は僕としての意識を持っていかれるんだろう。


ここで意識が途切れたら、またお決まりのルートを辿るだけ。

いつも通りに"あったこと"を"なかったこと"にされて、そうしてまた仮初めの世界へと戻っていくんだ。


でも、なかったことにされるのはキオラの記憶であって、僕の経験値じゃない。

何度改竄を施されても、僕だけは全て蓄積してきた。

痛みも、恐怖も、憎しみの感情も。


だから今回も、なかったことになったと思っているのはあいつらだけ。

またキオラをリセット出来たと思い込んでいるのは、何も知らないあいつらだけだ。


今のあいつらはどんな気持ちでいるのかな。

こっちにいるのが自分達でなくて良かったと、首の皮一枚繋がって助かったと安堵しているのかな。


確かに、今回は首の皮一枚だけ繋がったかもしれない。

でも、だからといって安堵してはいけないよ。

お前達の世界が錆色に濡れるのは、別に今日で最後なわけじゃないからね。


今回はたまたま左の連中が当番だったというだけで、お前らが僕から逃げられたわけじゃない。

いずれ僕の牙に掛かるのは、こいつらもお前らも同じことだ。


要は、先か後かって話。

時間の問題に過ぎないだけで、お前らの未来が約束されたわけじゃない。


精々、今のうちに大層な遺言書をしたためておくといいさ。


どこへ逃げたって、どんなに頭を下げられたって、僕は必ずお前達を見つけ出すし、絶対に許しはしないから。



さあ、僕らの世界から闇が消えるまで、あと何人殺せばいいのかな。

数え始めるとキリがないけれど、優先すべき候補は既に確定している。


早成のメンバーは全員始末した。

あとは、晩成のメンバー13人、どの順で殺していくかだけだ。





待っててね、キオラ。

君が僕の目を見る時。その時には、僕らの理想の世界が足元に広がっているはずだから。






『Gotcha』


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