Episode34-2:タイムリミットが聞こえるか
その後、キオラの身に限界が訪れたのは、実験が開始されて半日が過ぎた頃のことだった。
震えた息遣いは引き攣った悲鳴へと変わり、強張った手足は激しい痙攣へと推移した。
背筋には冷たい汗が滲んでいて、バイタルも目に見えた異常値を計測し始めている。
今のキオラを一言で表すなら、文字通り"発狂"した状態にあると言えるだろう。
しかし、いくら泣き叫んだところで、実験が中断されることはない。
監視室で様子を伺っているヨーランは、変わらない態度でキオラの変動を窺い続けている。
というのも、今回の実験はキオラを極限まで追い詰めることを目的としているのだ。
キオラが発狂した向こう側にあるものを、ヨーランは求めている。
今までは、キオラの気が触れてしまわないよう配慮が施され、すんでのところでストップがかけられてきた。
これはキオラ自身の健康を優先した結果ではなく、精神異常をきたされてはマインドコントロールを施すことが難しくなるから。
つまり、ゴーシャークらにとって不都合な事態が起きる可能性があったからなのだ。
しかし、過去に倣ったことを続けるだけでは、キオラの新たな可能性を引き出すことはできない。
肉体の再生能力は既に上限を満たした状態にある。
これ以上暴力行為を加えたところで、ほぼ効果は得られないものと考えていいだろう。
故にこそ、リスクを冒してでも先に進むべきと、一度完膚なきまでに叩き潰してしまえばいいのではとヨーランは考えた。
キオラの心を完全に破壊し、廃人にしてしまうということ。
今までに経験したことのない苦痛を与えることで、未だかつてない変化、進化を促す。
一言で言ってしまうと、今回の実験でキオラの人権は一切尊重されないというわけだ。
あれほどキオラのキャパシティーに目を見張っていたゴーシャークらが、今やキオラの破滅を望んでいる。
その先に彼女がどのような獣に成り果てるのか、誰も予測できないし、キオラ自身想像もしていない。
まさかこの引き金が、後に悍ましい化け物を目覚めさせるきっかけになろうとは、この時には誰も危惧していなかったのである。
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更に時は過ぎ、実験開始から16時間後。
最後にある人物の名を叫んでから、キオラがぴくりとも動かなくなった。
悲鳴は止み、痙攣も止まり、高熱を帯びていた体温も死人のように冷たくなった。
バイタルも最早瀬戸際で生命活動を維持している状態で、これで生きているのが不思議なほど衰弱してしまっている。
過去にも似たような衰弱症状が見られたことはあったが、ここまで屍に近い状態に陥るのは初めてのことだった。
すると、今まで静観を続けていたヨーランが、ここにきてようやく重い腰を上げた。
冷静な態度で実験終了の旨を宣言し、速やかに監視室を後にする。
それを皮切りに、残りの面々も続々と移動を開始した。
早成隊の全員が監視室を後にすると、部屋には一部の晩成隊メンバーのみが残された。
彼らは監視室でしか行えないウイングルームの環境調節を任されていて、間接的に実験に参加することになっている。
実働部隊を補佐するアシスタントのような役割、と言えば分かりやすいだろう。
ちなみに、今回に限らず、キオラの生体実験には必ず早成隊と晩成隊の両者が参加する決まりだ。
理由は前述にもある通り、ウイングルームの環境を整えるためには、監視室で操作を行う他ないから。
つまり、その日采配するチームが現地で作業、サポートをするチームがその補佐をするというわけである。
晩成隊の数人が見守る中、先導してウイングルームに入っていったヨーランは、真っ暗な室内である動作を行った。
右手の人差し指を真上に立て、天井を差した指先を二回円を描くように回す。
これは事前に取り決めていた合図で、監視室に残った晩成隊に示しているものである。
間もなく、晩成隊のサポートによりエクリプスルームの明かりが点灯した。
空間に光が戻った途端に、中央で横たわるキオラの姿も明らかとなる。
"これより解体作業を始める"
"各員所定の位置につき、自分の担当箇所に当たってくれ"
手筈通りに事が進んでいるのを確認し、ヨーランが淡々と指示を告げる。
今回の指揮者は彼であるため、指示を受けた早成隊らは言われた通りに部屋中に散らばった。
キオラの体から管を外し、配置された機材を退かして、手分けして解体作業を進めていく。
何度も繰り返し行っているためか、それぞれの手際には一切の無駄がない。
こんなのはいつものこと、子供が玩具を片付けるよりも容易なことと言わんばかりに、全員が無言で作業を行う。
そして、キオラの一番近くにいたエメリーが、キオラの拘束具を二箇所外した時だった。
突然、研究所全域に渡って、けたたましいサイレンの音が響き渡った。
このサイレンは緊急警報の一種で、研究所全域になんらかの危機、もしくは不具合が発生したことを意味している。
こうなってしまうと、システムが安全を確認するまで事態が収拾されない。
研究所内における全ての部屋が一時封鎖となり、その間誰も外に出ることができなくなる。
無論、この措置はエクリプスルーム、並びに隣接する監視室にも適応される。
端的に言うと、彼らは今いる部屋の中に閉じ込められてしまったというわけだ。
"全く、こんな時に間の悪いことですね"
一旦作業の手を止めたエメリーが、不機嫌そうに舌を打った。
というのも、緊急警報が発令したからといって、実際に自分達の身に危険が迫ったことなどないのだ。
時に、どんな些細な不穏因子も取り逃がさないシステムの感知能力が仇となることもある。
今のように大袈裟な措置をとらずとも、放っておけば自然に治まる事態がほとんどだったりするのだ。
故に、エクリプスルームに閉じ込められた早成隊らは全く危機感を覚えていない。
どうせ今回もシステムが過敏に反応しただけ、そう高を括って傍観者を気取っている。
"この時間にラボで体制を変えるなんて話は聞いていない"
"封じ込めでないのなら、今回もほぼ誤作動のようなものだろう"
"措置も直に解除されるはずだ。今のうちに出来るだけの解体を済ませておく"
速やかに状況を把握したヨーランが、作業を再開しろと改めて指示を出した。
しかし、一同が了承の返事をする前に、またしてもウイングルーム内で異変が起こった。
今度は、室内の明かりがぷつりと落ちてしまったのだ。
"なんだこれは"
"どういうことだ、こんな話は聞いていないぞ"
"これも先程のサイレンと関連しているのか"
こう暗くては手元が見えない。手元が見えなければ、作業を行うこともできない。
急に視界を奪われたことから、一同の間で微かに動揺が広がり始める。
何故なら、こんな風に研究所が停電したことは例がないのだ。
なんらかの不具合が生じた場合にも、必ず予備電力が稼動する。
こんな風に電気が落ちることはまずないし、ましてやその可能性が予告されないなんてことは有り得ない。
長年研究所に勤めてきたゴーシャークらにとっても、こんな非常事態は初めて直面するイレギュラーだった。
"おい、レイニール!"
"レイニール、そこにいるんだろう!"
そんな中、最初に冷静を取り戻したのはヨーランだった。
ヨーランはその場から監視カメラのある方向に向き直ると、しっかり要請が届くように声を張った。
こちらからは暗くてなにも見えないが、監視室の方からは暗視モードでウイングルームの様子が分かるはず。
なので、敢えて直視できるマジックミラーではなく、監視カメラの方に訴えかけているのだ。
"この停電はそちらのミスなのか"
"予告なく電気が落ちるなんて話は聞いたことがない"
"ミスならミスで、さっさと明かりを戻してくれ"
この停電と先程のサイレンが関連しているならば、その旨を伝えるためのアナウンスが流れるはず。
それがないということは、自分達のいるエリア内で起きた事態である可能性が高い。
エクリプスルームの環境調節は監視室でしか行えないし、早成隊のメンバーは全員こちらに集まっている。
となれば、停電の原因は監視室での誤作動、サポートを担当する晩成隊の手落ちということになる。
真っ先に推察したヨーランだけでなく、皆晩成隊のミスだろうと確信して苛立った様子だ。
しかし、ヨーランの主張に対して、レイニールは意外な反応を返してきた。
"停電は我々のミスではない"
"こちらの方でも急に電気が落ちたんだ"
"辛うじて音声は通じるようだが、監視カメラを含めた全ての操作が不能になっている"
レイニール曰く、急に電気が落ちたのは監視室も同じとのこと。
音声のみでのやり取りなら一応は可能だが、それ以外の操作が全くできなくなってしまったようだった。
監視カメラが作動しなければ、当然暗視モードも働かない。
現状、暗闇に包まれたエクリプスルームの様子を、誰も把握することができない状態というわけだ。
"とにかく、予備電力をこちらに優先させるよう、管制室に催促してみる"
"そちらはもうしばらく待機していてくれ"
これは現場の判断でどうにかできる事態ではない。
レイニールは直ちに管制室と連絡を取るため、非常電話の受話器を取った。
その時だった。
エクリプスルームの方で、金属製のなにかが激しく倒れたような音がした。
"今の音はなんだ"
"誰か機材を倒したんじゃないのか"
"誰も動くなと言っているだろう"
"おいヨーラン、お前が今日の筆頭だろう。なんとかしろ"
閉ざされた闇の中、すぐ側で発生した不穏な物音。
得体の知れない不気味さがじわじわとエクリプスルームを侵食し、余裕ぶっていた早成隊らの声から落ち着きを奪っていく。
"落ち着け"
"とにかく今は、必要以上に動き回るな"
どうにか平静を保っているヨーランもまた、内心緊張の糸を張り詰めさせていた。
"ロカンクール、ゼロワンの側にいるのはお前だな"
ヨーランが部屋の中央に向かって呼び掛けると、微かに声を上擦らせたエメリーが返事をした。
"さっきの物音、私の聞き間違いでなければ確かにそちらから聞こえた"
"手探りで構わん。今すぐゼロワンの安否を確認しろ"
先程の物音の発生源は、聞き取れる限り部屋の中央からだった。
部屋の中央には、キオラの横たわるストレッチャーが固定されてある。
つまり、音は彼女の周辺から鳴ったということだ。
まだ拘束を解いたわけではないので、キオラがストレッチャーから落ちた可能性は低い。
となれば、キオラがストレッチャーから落ちたのではなく、キオラの体ごとストレッチャーが倒れたのかもしれない。
あれだけ頑丈に固定してあったストレッチャーが勝手に倒れるのも不自然な話だが、どちらにせよキオラの無事を確認する必要がある。
全員が固唾を呑んで構える中、エメリーはそっと歩み寄って、問題の位置で膝を折った。
"……いません。ゼロワンの体がどこにもありません!"
しかし、そこにキオラはいなかった。
ストレッチャーは確かに床に倒れていた。
ただ、その周辺にキオラの肉体だけがなかった。
付属の拘束具が一部破損した状態の、無人のストレッチャーだけが、そこにあった。




