Episode34:タイムリミットが聞こえるか
時は流れ、キオラが無事に19歳を迎えた頃。
キオラの運命を変える決定的な出来事が、人知れず水面下で行われた。
この頃、キオラの体は安定した調子が続いていた。
生体実験による後遺症が後を引かなくなり、突然の発作や失神に襲われることが殆どなくなった。
日常生活を営むに当たっては、一般人と変わらないほどの健康を得ることができたのだ。
これは、肉体の成長に伴って、心身の回復力が向上した結果である。
完全な不死というわけではないが、首の皮一枚繋がっていれば自力で持ち直すことが可能となった。
おかげで、短期間でも重傷を完治できるまでになったのだ。
そんな時だった。
キオラの比類なき進化を目の当たりにして、彼女を操ってきたゴーシャークらは徐々に焦りを覚え始めた。
このままただ痛め付けるだけの実験を繰り返しても、キオラの能力が多少上書きされるだけに留まる。
キオラの新たな可能性を引き出すためには、今までと同じやり方では通用しない。
キオラの能力の向上はゴーシャークにとっても喜ばしいものだったが、故にこそ新しい"なにか"の発見が期待された。
そこでゴーシャークは、今までとは少し趣向の違う実験をキオラに施すことにした。
以前までと同様、治療の一貫という体で、キオラに未知の苦痛を与えることを決定したのである。
――――――――
2023年、2月2日。
ゴーシャークのメンバーに呼び出されたキオラは、いつも通りに研究所に向かった。
この時、彼女の付き添いを担当したのは、ヨーラン・フォレットという中年の男だった。
イギリス出身の研究員で、早成隊のメンバーとしても名を連ねている。
ヨーランは、キオラを連れてエクリプスルームへ向かうと、二部屋ある内の右側に案内した。
左側にある方の部屋は、普段晩成隊が拠点としている部屋である。
"ここで一体なにをするんですか?"
疑うことなく付いてきたキオラは、ここにきてようやく訳を尋ねた。
実験に関する記憶を消されているため、ここがなんの用途で使われる部屋であるのかを全く覚えていなかったのだ。
ヨーランは、首を傾げるキオラに対し、優しい声でこう言った。
"ここは、君の体を治療するために新設した特別な部屋だよ"
"これからここで、新しい治療方法を試そうと思っているんだ"
"今までのやり方とは少し趣が異なるけれど、なにも心配はいらないよ"
"私達はただ、君の病気を治してあげたいだけだからね"
新しい治療方法。そのために新設された部屋。
具体的なことは省略されてしまったが、一応キオラは今日の目的を理解した。
キオラとヨーランが部屋に入ると、残りの早成隊の面々も続々と集まってきた。
キオラは彼らの指示に従って、あれよあれよと処置を施されていった。
手始めに彼らが行ったのは、キオラの体を専用のストレッチャーに寝かせることだった。
このストレッチャーは特別性で、仕掛けを切り替えると車輪が固定する仕組みになっていた。
施術と運搬の両方が可能であるため、ベッドに移す必要がなくなるというメリットがあるものだ。
それから、ストレッチャーに付属されている拘束具で、キオラの全身を縛った。
これでキオラは自由を失い、自分の意思ではベッドから起き上がれない状態になった。
続いて、ヨーランが部屋の隅からあるものを持ってきた。
前もって用意されていた、本日の治療専用の機械だ。
機械の外観はほぼ真四角で、高さは例のストレッチャーよりも幾分高い程度。
それを台車に乗せて運び、ストレッチャーの側に付けた。
配置場所はキオラの頭の上なので、横になっているキオラからは見えない位置になる。
ヨーランが機械の背中側を操作すると、側面から細長いアームのようなものが伸びてきた。
一見電気スタンドにも似た形状をしているそれは、先端部分に小さな突起が付いていて、用途の想像しにくい見た目をしている。
そのアームの間接を器用に調節して、先端部分がキオラの額の上で固定された。
もしかするとこの機械は、脳内を可視化する簡易MRIのようなものなのだろうか、とキオラは思った。
その後も、早成隊の面々は手分けして作業を行った。
ヨーランの持ってきた機械の他にも、様々な機材がキオラの周りに配置されていった。
これらは全て、キオラの状態を計測するためのものである。
最後に、機材とキオラの体とを管で繋ぐと、準備は整った。
これからなにかの儀式が行われるかのような仰々しい有様に、キオラは沸々と不安を覚えた。
"あの、これからどんな治療が行われるんでしょうか"
たまらなくなったキオラは、改めて治療の内容について尋ねた。
しかしヨーランは、やはり詳しいことは教えてくれなかった。
"大丈夫。なにも怖いことはありません"
"あなたはただ、ここで横になっていればいいのです"
"あなたの状態は別室で観察していますので、なにかあればすぐに駆け付けます"
"治療が済み次第、我々が部屋まで迎えに来ます"
"ですので、それまでどうかお静かに"
"下手に暴れないで、じっとしていてください"
そう言うとヨーランは、キオラの前髪を分けて、剥き出しになった白い額に指を這わせた。
ヨーランが部屋を後にすると、残りの面々も彼に続いていった。
やがて、部屋にはキオラだけが残された。
人の気配がなくなった途端に、息を呑むような静けさが室内に充満する。
キオラは内心不安でたまらなかったが、抵抗することはしなかった。
何故なら、彼らのことを信じていたから。
これから行われることが、本当に自分の体に必要なことだと思い込んでいたからだ。
彼らとは長い付き合いになるし、まさか自分を傷付けようとしているだなんて夢にも思わない。
ただでさえ人を疑わないキオラが、見知った相手に猜疑心を抱くことなど有り得なかったのだ。
覚悟を決めたキオラは、ライトに照らされた天井を見詰めた。
なにが起きても柔軟に受け入れられるよう、息を整えて身構えた。
すると、突然室内の明かりが落とされた。
光源となる全てのものが奪われ、キオラの視界から光が失われる。
無音の中に、自分の呼吸だけが響いている。
瞼を開けても、閉じても、目の前にあるのは塗り潰されたような黒だけ。
何故、明かりを落とす必要があるのだろうか。
体を拘束することといい、これも例の治療とやらに必要な過程であるのか。
一つ一つ感覚を奪われていく恐怖に、益々キオラの不安は募っていく。
"あの、電気が消えましたけど"
"これも必要なことなんですか"
別室で観察しているという彼らに向かって、もう一度キオラは声を投げ掛けた。
それに対する応答は、予想した通りなかった。
この様子だと、例の治療が済むまではなにも教えてもらえなさそうだ。
いよいよ選択肢のなくなったキオラは、諦めて口を閉じた。
それから、およそ5分が経過した頃だった。
特に変化の現れなかった室内に、一つだけ動きがあった。
キオラの額に、冷たい雫が落ちてきたのだ。それも、たった一滴だけ。
雫はキオラの額に着地した後、彼女のこめかみを伝ってゆっくり下へ流れていった。
まさか上から水滴が降ってくるなどとは思わなかったキオラは、びくりと肩を震わせて驚いた。
今のは恐らく、例の機械から落ちてきたものだろう。
あのアームのようなものは、蛇口の役割を持っていたということだ。
そして、機械自体の用途、機能は、キオラの想像した簡易MRIなどではない。
もっと単純な、貯水機能を内蔵した器に過ぎなかったという訳だ。
突然雫が降ってきた経緯については、なんとなく理解できた。
だが、その行為の意図は相変わらず不明だ。
もしやこれが、ヨーランの言う新しい治療方法なのだろうか。
それとも、先程のは単なるアクシデントで、あの機械にはもっと別の機能があるのだろうか。
疑問は尽きなかったが、ヨーラン達が介入してくる気配はない。
なにも言ってこないということは、やはりあの雫が正しい治療行為になるのか。
だとすれば、身構えていた分拍子抜けの内容だな。
キオラはこの時そう思い、ただ説明不十分な扱いだけを疑問に感じた。
この拍子抜けと思っていた行為が、後に恐ろしい恐怖を齎すことになるとは露知らずに。
――――――――
その後も、キオラの額に雫は落ち続けた。
ある程度の感覚を開けて、延々と。
すると、キオラの体にも徐々に変調が現れ始めた。
当初に比べて、雫が落ちてきた時の反応が大きくなってきたのだ。
大袈裟なほどに肩を揺らし、時には引き攣った吐息すら漏らしている。
緊張した手足は強張って、棒のように固くなっている。
というのも、今のキオラは五感の殆どを奪われた状態にあるのだ。
明かりを落とされたことで、まず視覚を奪われた。
音も全て遮断されているため、聴覚も働かない。
なにも口にしていないので味覚も反応しないし、匂いもないので嗅覚も利かない。
つまり、残っているのは触覚のみなのだ。
触覚だけが正常に機能している分、全神経がそこへ集中する。
故に、たった一滴の雫にさえ、過敏に反応してしまう。
回数を増やす毎にそれは強くなっていき、段々と雫の衝撃に重みが加算されていく。
やがて痛みも生じるようになり、一滴一滴がまるで針のように額を刺してくるのだ。
その痛みが恐怖に変わるのは、実に自然で簡単なこと。
間隔を数えても、タイミングはランダムに設定されているため予知できない。
次にいつ雫が降ってくるのか、分からないことが恐ろしくなってくる。
この行為がいつ終わるのか、予告されていない不安が恐怖を増長する。
それでも、キオラは歯を食いしばって耐えた。
最早抵抗する気力もない。疑問を覚える思考すらも持ち合わせがない。
耐える、というより、それ以外の行動に割くだけの余力がなくなってしまったのだ。
ただ、この行為がいつか終わる時を信じて、キオラは待ち続けた。
その様子を隣室から眺めている連中が、不吉な笑みを浮かべているとは想像もしなかった。




