表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
221/326

Episode32-5:分裂



後に、両親からホームステイの話が決まったと聞かされた時、私は驚いた。


いくら父親の知人といえど、彼にとって我が家は他人の家だ。

親しくもない相手の家に厄介になるだなんて、やっぱり気が進まないのではないかと内心予想していた。


だからこそ、この結果は思いもよらなくて嬉しいものだった。

直接会ったのはまだ一度きりだけれど、叶うならまた話がしてみたいと思っていたのだ。


ちょっと前まで、知らない人と一緒に暮らすなんてと不安だったのに。

気付けば、そんな不安なんて吹っ飛ぶくらい、彼がやって来る日を指折り数えて待ち侘びている自分がいた。



「お久しぶりです、イヴァンさん、ソフィアさん。

改めて、本日からお世話になります。

キオラさんも、しばらくの間よろしくね」



彼が正式に我が家に越してからは、しばらく忙しない日々が続いた。


私と両親は、新しい家族の一員として彼を迎え入れたが、彼自身はなかなか気持ちの整理がつかない様子だった。


話し掛けても敬語で応じ、食事の際は美味しい以外の言葉を口にしない。

心の中では、もっとああしたいとかこうするべきとか思っていただろうに、それを表に出すことは決してなかった。

多分、お世話になっている家で我が儘は言えないと気を遣っていたのだろう。


いつも他人行儀で、白々しい笑みを浮かべていて。

一見人当たりが良さそうなのに、実際に接してみると、酷く頑なで取っ付きにくい少年なのだと気付かされる。



甲斐甲斐しく世話を焼けば却って居心地が悪いだろうし、そっとし過ぎても不便を感じさせるかもしれない。


私達は、彼とどう接するべきかを悩み、彼は私達にどう思われるかを気にしていた。

しばらくの間は、互いに距離感を計りながらのコミュニケーションが続いていたと思う。



「ウチは毎日三食、使用人が用意した食事を食べますから…。

こんな風に、母親が作ってくれた料理を口にすることって、まずないんです。

でも、いいですね。やっぱり、愛情のこもった料理は美味しい。

僕は、家での食事よりも、ここで頂く食事の方が好きです」



しかし、それもある時期を迎えるまで。

他人行儀な雰囲気が流れていたのは、彼がやって来て半月程までの話だ。


あれから二ヶ月が過ぎた頃には、自然に挨拶が交わせるようになった。

三ヶ月が過ぎた頃には、四人での生活にも殆ど違和感を覚えなくなった。


時間はかかったけれど、一度素直になってしまえば、後は成り行きに任せればいい。


今日学校の話をしてくれたなら、明日にはクラスメイトの話をしてくれる。

今日困っていることを教えてくれたなら、一週間後には必要なものを、望んでいることを教えてくれる。


少しずつ、本当に少しずつ、彼の頑なさが解けていって。

"僕"が"俺"になって、"キオラ"さんが"キオラ"になって。

前は作り物だった笑顔が、台詞のようだった話し方が、段々と自然なものに変わっていって。


やがて半年が過ぎた頃には、彼はすっかりグレーヴィッチ家の一員になっていた。



「実は俺、初めて会った時から、君は他とは違うなと思っていたんだ。

妙なシンパシーを感じるというか…。生い立ちは全然違うのに、どこか君は、俺に似ている気がした。

俺なんかに似てるって言われても、君は嬉しくないだろうけどね」



変わり始めた彼を見ている内に、私の心境にも徐々に変化が現れ始めた。


いつの間にか、ただいまと帰ってきた彼に、おかえりと言って出迎えることが普通になった。

前は意識してやっていたのが、体が勝手に動くようになった。


いつの間にか、何気ない言葉を交わすのが普通になった。

朝、彼におはようと挨拶しなければ、一日が始まった気がしなかった。

夜、彼におやすみと挨拶しなければ、ぐっすり眠れなかった。


いつの間にか、彼の気配を探すのが普通になっていた。

彼がなかなか学校から戻らない時は、寂しかった。

早く帰って来ないかななんて、無意識に独り言を呟いたりした。


いつの間にか、彼が家にいるのが、当たり前と感じるようになっていた。



「俺、自分の親とはあまり上手くいってないから、普通の家族っていうのがどういうものなのか、よく分からなかったんだ。

でも、君達を見ていると、なんとなく分かるよ。

君はご両親のことをとても尊敬していて、ご両親は君を、心から愛してるんだってこと」



一緒に夕飯の買い出しに行ったり、温室の世話をしたり。

一緒に窓の外を見て、雨が降っていたら残念だねって言い合ったり。


私がなかなか寝付けなくて困っている時には、彼がよく話を聞かせてくれた。


学校の話、食べ物の好き嫌いの話、専門的な医学の話。

昔、クラスメイトに言われて傷付いた言葉、思いがけず恥をかいた思い出。


何気ない日常の話から、彼のパーソナルな部分に触れる話まで。

日毎に、彼が話してくれる話題は増えていった。


ホットミルクのマグカップを片手に、両親に内緒でこっそり夜更かしを共にするその一時が、私の毎日の楽しみだった。



たくさんの経験を、感情を共有して、互いの時間を分け合って。

こうしたら彼はこう思うだろうとか、こう言ってくるだろうとか。

前より少しだけ、彼の考えていることがわかるようになって。


そして、思い知る。

彼は、私とは違う星の元に生まれた人間なのだと。


身分の違いや、才能の優劣を言っているのではない。

もっと根本的な、努力だけでは埋めようもない決定的ななにかが、私と彼とで違うのだ。


知れば知るほど、身近な存在になっていくほど、痛感する。

心の距離が縮まるだけ、体の距離が離れていっていることに。



人間って、悲しい生き物だ。

順応性が高すぎるせいで、今日あったことがあっという間に過去になる。

知る前はあんなに不安だったのに、一度知ってしまえば、もうなかったことになんて出来ない。


ずっと、一人でいるのが当たり前だったのに。

二人を経験した途端、また一人に戻るのが怖くなった。


ヴィクトールに出会って、アンリに出会って。

私は、私の中の知らない私に出会ってしまった。


楽しい、嬉しい、淋しい。

新しい感情を手にする度に、私は自らの武器を一つ増やし、代償に防具を一つずつ失っていった。


守りたいものが出来た時、人間は強くもなるし、同時に弱くもなる。

守る勇気と、失いたくない恐怖とを同時に自覚した時。

どちらの心に体が傾くかは、その人次第なのだ。


私の場合は後者だった。

自分の身を支えるだけで精一杯だった私には、大切な誰かを守れるだけの力がなかった。

だから、いつか失う恐怖だけが、私の心を飲み込んだ。



「だから、なんとなく感じるんだ。自分の体が、内側から少しずつ壊れていくのが」



彼の未来に私はいないかもしれないと思うと、心が凍えた。


自分の命がいつか費えてしまう恐怖より、生きたまま彼を失うことの方が、何倍も怖いと思った。

彼のいない人生というものが想像できなくて、想像できないほど彼に依存し始めている自分が、恐ろしかった。



日に日に増えていく薬も、悪化していく体調も。

擦り減っていく、自由でいられる時間も。

私に付き纏う全てのものが、私の心に闇を育てた。


生まれて初めて、死ぬのが怖いと思った。

死ぬほど生きたいと思った。


私の中でずっと眠っていたものを、出会って間もなかった彼が呼び覚ました。

私の中で閉じこもっていたそれを、彼が羽化させてしまった。


ようやく芽生えたその熱は、紛れも無い"生"への執着であり。

彼との未来を望む、"彼自身"への執着でもあり。

なにより、私に執着してほしいという切望だった。



「いつか、私も植物みたいになっちゃうのかな。

泣くことも笑うことも、歩くこともできなくなって。お世話をしてくれる人が水をくれるのを、ただ待つだけの、お荷物に」



いつか彼は、今よりもっとすごい人になる。

先生の後を継いで、人の上に立つ人になって、誰からも認められる存在になる。


そうなったら、私はいらない。

大衆に愛されるようになった彼に、たった一人の話し相手は不要だ。


彼は優しい人だから、きっといつまでも私に優しくしてくれるだろう。

並んで歩かせてほしいと頼めば、いいよと言って手を引いてくれるだろう。


でも、彼の優しさがそれを良しとしても、彼以外の全てがそれを阻む。


こんな、いつ死ぬかも分からない人間が、いつまでも彼の人生を邪魔してはいけないのだ。

優しい人であるからこそ、私の存在は、彼にとって足枷になる。


彼にはもっと、健康で、明るくて軽やかで、魅力的な女性が似合いだから。

彼と同じくらい長生きをして、彼と同じくらい素敵な子供を生んでくれる、未来ある女性が相応しい。



「手を、握ってくれる?」



本当は、私が彼に相応しい女性になりたかった。

他の誰でもなく、私が彼の人生を支えていきたかった。


病気のことも、生い立ちのことも、今まで受け入れられないことなどなかったのに。

彼に受け入れてもらえない現実だけは、どうしても受け止めきれなかった。


それが恋心だと気付いた時。

誰かを愛する喜びと、愛する誰かを失う悲しみで、涙が止まらかった。

誰かを好きになるってことが、こんなに苦しいことだったなんて知らなかった。


素直に、彼に好きだと言える人間になりたかった。

彼に好きだと言ってもらえる人間になりたかった。

ずっと、彼を好きでいたかった。


なんで、私は私で生まれてきてしまったんだろう。

ふとした瞬間に、自分の境遇を呪ってしまう自分が、醜くて嫌だった。






「俺のために、生きて。キオラ」



心が枯れてしまいそうになると、水を与えてくれた。

先のない明日に足が竦みそうになると、道を示してくれた。


彼は、私に未来をくれた。

いつかの未来を約束してくれた。

私に未来を生きてほしいと言ってくれた。


それが、私にとってどんなに嬉しいことだったか。素晴らしい出来事だったか。



アンリ。あなたは私に、愛を教えてくれた。

誰かを愛することこそが、人間の生まれる意味であると、教えてくれた。


この先、どんなに辛いことがあっても、私は私に生まれたことを後悔しないだろう。

だって、生まれなければ、あなたに出会えなかったから。

あなたに出会えたことで、自分が生まれた意味を知ることができたから。


だから私は、一生、この想いを抱えて生きていく。

あなたが、本当に愛する人を見付けるまで。

その人と共に歩んでいきたいと、決心がつくまで。



「ありがとう、アンリ。

あなたに会えて良かった」



私の気持ちを彼に伝えることは、多分一生ないけど。


せめて、いつか来る別れの時に、笑って門出をお祝い出来る人間になりたいと、思った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ