Episode32-4:分裂
先生の独断で取り入れられた"新しい治療方法"は、以来繰り返し行われた。
精神的に追い詰めるものであったり、肉体的に嬲るものであったり。
治療行為の種類や程度は日によって異なったが、私の心身に恐怖と苦痛が伴うという点は共通していた。
しかし、私はその都度に関連の記憶を抹消されていた。
治療が行われる度に、治療が行われたことを忘れた。
何度も足を運んだはずのエクリプスルームは、何度前にしても見知らぬ恐怖の対象だった。
"これは一体どういうことなのか"
"何故私はここにいて、何故あんな思いをしなければならなかったのか"
同じ疑問を繰り返し、同じ状況を目の当たりにし、最後には必ず、同じ天井を見上げている。
"いいや。君が覚えていないだけで、以前にも同じようなことが行われていたんだよ"
そして、目を覚ますと、いつも側にヴィクトールがいた。
いつも必ず隣にいた彼は、私が目覚めるまで手を握ってくれていた。
彼の優しい温度に、私はどれほど救われたか分からない。
何度も同じ質問を繰り返す私に、ヴィクトールは何度でも答えてくれた。
繰り返される結末に辟易することもなく、嫌な顔一つせずに、いつも私の気持ちを尊重してくれた。
だから、私も耐えられた。
どんな痛みも、苦しみも、耐え続ければやがて終わりが訪れる。
終わりのその向こうに、待ってくれている人がいたからこそ、途中で尽き果てずにいられたのだ。
記憶を失っても、ヴィクトールの掌の感触だけは体が覚えていたから。
恐怖で頭が変になってしまう寸前のところで、いつも彼が、優しさという名の薬を与えてくれていた。
そんな日々がしばらく続いて、やがて私は11度目の秋を迎えた。
紅葉が街を彩るその季節に、私は一人の少年と出会った。
少年の名は、アンリ・F・キングスコート。
彼は、フェリックス先生の一人息子だった。
先生にご子息がいることは前から伺っていたが、本人とは面識がなかった。
どんな姿で、どんな喋り方をする人なのか。彼について私はほとんど知らなかった。
分かっていたのは、彼に兄弟はいないということと、先生譲りの赤い髪をしているということ。
それから、ファーストネームが"アンリ"であるということだけだった。
私と彼が初めて顔を合わせたのは、両親に連れられて、私がキングスコート家の屋敷に訪れた日のことだった。
その頃、彼は受験を控えた学生だった。
聞けば、進学先をどこにするかで、家族間で協議が続いている最中とのことだった。
彼の父親である先生は、彼が地元のキングスコートに残ることを望んでいた。
しかし彼は、ヴィノクロフの学校に進みたいと望んだそうだ。
医師を目指しているという彼は、福利厚生が充実したヴィノクロフにこそ学ぶべきものがあると考えたらしい。
同じく医療に特化したキングスコートよりも、ヴィノクロフの街の在り方に共感したのだと。
そこで私の両親は、彼にこんな提案をした。
もし、先生のご子息がヴィノクロフの学校を選んでくれるのであれば、是非その手助けをしたい。
在学中は、我がグレーヴィッチ家でホームステイをされてはどうかと。
その相談をするために、私達はキングスコートの屋敷まで招かれたのだ。
――――――――
両親と先生が難しい話をしている間、私はしばらく席を外すことになった。
何故私だけ同席しなかったかというと、私がいても仕方がないからだ。
グレーヴィッチ家の一人として、今回の話は私にも大いに関係がある。でも、決定権は私にはない。
実際に事が運ぶにせよ、運ばないにせよ、私は皆が決めた"未来"をただ受け入れるだけ。
彼がOKしたのなら、迎え入れる。
NOと断ったのなら、それまでの話だ。
なので、結果は後ほど、事後報告という形で伝えられることになった。
席を外している間は、お屋敷の中を自由に見学させてもらった。
結果に関わらず、話し合いが決着したら、皆で会食をする予定がある。
食事の席には私も同席させてもらえるので、彼と対面するのはその時になるだろう。
「本当に、広いお屋敷だな。迷路みたい」
もし、彼が本当に我が家に来ることになったら。
私はどうやって彼と接したらいいんだろうか。
一人でいる間も、考えるのは彼のことばかりだった。
決して嫌なわけではない。歓迎したい気持ちはある。
ただ、同じ屋根の下で、家族以外の人と共に暮らすだなんて、終ぞ経験のなかったことだ。
ただの来客と違って、一時応対をするだけとは違う。
また明日と別れることもない。
だから、見知らぬ相手と上手くコミュニケーションを取れるのか、それだけが不安だった。
彼の年齢は、確か私の三つ上だ。
三歳差となると、私にとってヴィクトール以上に年頃の近い相手になる。
今時の学生さんって、どういう話題を好むんだろうか。どんな食べ物が好きなんだろうか。
私みたいな、年下の子供が周りをうろちょろしたら、迷惑に思うだろうか。
ちゃんと、上手に話が出来るかな。上手に歓迎出来るかな。
彼とも、一緒にいるのが楽しい関係に、友達になれるといいな。
まだそうと決まったわけでもないのに、彼と共に過ごす日々はどんなものだろうと、想像を巡らせた。
こんな大きなお屋敷で育ってきた人だから、きっと私とはなにもかもが違うのだろうと思った。
そんな時だった。
二階から三階に上がり、少し歩いた先に、左へ続く曲がり角があった。
私は、ここを左に進むべきか、真っ直ぐに進むべきかを考えて、曲がり角の前で一度足を止めた。
そして、曲がり角の向こうを確認してみて、一つの人影を見付けた。
閑散とした廊下に、壁一面に飾られた絵画達。
深紅の絨毯の敷かれたそこで、棒のように立ち尽くしていたのは、彼だった。
辺りには他に気配がなく、階下の物音も聞こえてこない。
静けさが立ち込めるこの空間は、世界から隔絶されているようだった。
私は、彼に気付かれないよう、死角からこっそりと様子を窺った。
私と彼の間には、100メートル程の距離があった。
私が物影に隠れていることに、彼はまだ気付いていない。
壁に背を預け、思案に耽っている様子の彼は、どこか物憂いな横顔をしていた。
話し合いが終わったのであれば、母さんが私のことを呼び戻しに来てくれるはずだ。
でも、誰かが知らせに来る気配はなかった。
どうして彼はこんなところで、一人でいるんだろうか。
状況はよく分からなかったが、私の足は真っ直ぐに彼に向かっていった。
自分でも不思議なほど、踏み出してしまえば躊躇がなかった。
今、話し掛けるべきか、話し掛けない方がいいか。
私なんかが、自分から近付いてもいいのか。
考えるより先に、体が勝手に動いていた。
「赤い髪。
本当に、先生と同じ色をしているんですね」
気が付くと、私は彼の赤い髪に吸い寄せられるように、彼の脇に立っていた。
こんにちはでも、初めましてでもなく、彼を前に出た第一声がそれだった。
挨拶もなしにいきなり話し掛けるのは不躾だと思うが、自分でもこの時の行動を説明できなかった。
人見知りで臆病な私が、自ら歩み寄り、あまつさえ礼儀を欠いたアプローチをするだなんて。
本来の性格を考えれば、絶対に有り得ないことだった。
先程、お屋敷の使用人さんと擦れ違った時には、反射的に身を隠してしまったのに。
彼に対しては、何故か腰が引けなかった。
会ったことも、話したこともない彼を、昔から知っている気がしたからだ。
多分、彼の纏う雰囲気と赤い髪が、先生と重なって見えたからじゃないかと思う。
「えっと…。
君はグレーヴィッチさんとこのお嬢さん、で、いいのかな?」
突然現れた私に、彼は素直に驚いていた。
近付いてみると、彼は思っていた以上に背が高かった。
目を合わせようとすると、自然とこちらが見上げる形になった。
長い手足に、憂いを感じさせる雰囲気。
白い肌に映えるエメラルドグリーンの瞳は、磨かれた宝石のよう。
白シャツに黒のスラックスと、シンプルな出で立ちであっても、全身から育ちの良さが滲み出ていて。
その姿はまさに、非の打ち所のない美少年だった。
ただ、この時一つだけ意外に思ったことがある。
彼の顔が、先生と全く似ていなかったこと。
双方整った顔立ちをしているが、タイプが正反対だったのだ。
先生は、一見すると怖面で、少々気難しそうな顔をしている。
対照的に彼は、見るからに争い事を好まなそうな、穏やかな顔をしていた。
瞳の色も、金と緑とで異なっていた。
幼い頃から高等教育を施され、次期主席になるべく育てられた人物と聞いていたから、もっと勝ち気な人なのかと思いきや。
予想とは裏腹に、彼は謙虚で慎ましい印象だった。
私は内心、良い意味で裏切られた思いだった。
「それ、どうしたんだ?その包帯、まだ新しいよね」
同時に、妙な違和感も覚えた。
この人、私を見ていない。
美しい双眸には確かに私の顔が映っているのに、彼は私を見ていないと感じた。
平たく言うと、関心がないのだ。
私という存在に、この人は興味がない。
返事をしてくれたのは、こちらが話し掛けたからだ。
そうでなければ、見掛けてもきっと無視をされていただろう。
そう気付いた途端、彼の瞳が空虚なものに見えた。
磨かれたエメラルドのようだと思った瞳は、急に安っぽい玩具に見えた。
端正な容姿をしている分、その淡泊な振る舞いが不気味というか、まるで人形が動いているようだと思った。
「転んで負った怪我なのに、自分でわかっていないのか?」
でも、私のある部分に焦点が合ってから、彼の目付きが変わった。
私の身体の節々に巻かれた、真新しい包帯。
ワンピースの裾や袖から見え隠れするそれを目にした時、彼は眉を潜めた。
当時、私は全身に万遍なく怪我を負っていた。
擦り傷や痣など、軽度ではあるが人目に付きやすい怪我だ。
ただ、どうやってこの怪我を負ったのか、経緯を全く覚えていなかった。
自分の体のことなのに、誰より自分が分かっていなかった。
両親が言うには、ちょっとした不注意で転んだりした時に出来た傷、らしいが、私自身にそんな覚えはなかった。
最近は以前にも増して発作が増えたから、突然の失神で受け身が取れないのが原因だろうと、先生は推測していた。
私は、先生がそう言うならそうなんだろうと思って、あまり深くは考えなかった。
気が付くとどこかしらを怪我していたけれど、気が付いた時には既に痛みも引いていたから。
「良かったら、案内させてくれないか?少し入り組んだ場所だが、とても綺麗な庭園があるんだ」
思えば、この時から私達の時間は回り始めた。
私の怪我をきっかけに、彼が私を見てくれるようになり。
彼が見てくれたことをきっかけに、私も彼を見つめ返すことが出来た。
彼が初めて私に向けてくれた感情は、恐らく憐憫だろう。
私のみすぼらしい姿を見て、哀れを感じたから手を差し延べてくれたのかもしれない。
それでも、彼は私を忌避しなかった。
全身包帯まみれの不気味な子供、と自分でも思うのに、彼は私に触れることを躊躇わなかった。
ちゃんと、対等な存在として、一人の人間として扱ってくれた。
この展開は、ヴィクトールと初めて会った時と少し似ていたけれど。
出会い方が同じでも、ヴィクトールと彼とでは、なにかが違う気がした。
なにかが違うと感じた自分に、気付いた。
「俺、屋敷の中は窮屈だから嫌いだけど、ここだけは好きなんだ。
息苦しくなった時には、よくここに逃げてきた。
君は、植物は好きかい?」
戸惑う私の手を引いて、彼が向かった場所は、美しい庭園だった。
屋敷の敷地内に設けられた、広大な庭園。
色鮮やかな華々が周囲を囲み、澄んだ水路が足元を流れ、低い丘を上がった先には、お城みたいなガゼボがある。
日が落ちて薄暗くなった空には、微かに星が浮かんでいた。
単なる庭園と呼ぶには、あまりに洗練されていたそこは、ちょっとした離宮のようだった。
「天国って、きっとこんな感じなんでしょうね」
私が呟くと、彼はそうかもしれないねと答え、続けてこう言った。
私の顔を見詰めて、心配そうな声で一言。
"私の目が、真っ赤に充血している"と。




