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オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
219/326

Episode32-3:分裂



「キオラ。目を覚まして、キオラ」



目を覚ますと、私はベッドの上にいた。

側に座っているのは、心配そうな顔をしたヴィクトール。

他には誰もおらず、部屋には私と彼の二人しかいない。


どうやら、彼の呼び声で私は目覚めたようだ。

ヴィクトールは、私の顔を見つめながら安堵の溜め息を零していた。


目だけを動かして周囲を見渡してみると、ここは医務室だった。

うすぼんやりとした視界に、見慣れた光景が映っている。


医務室の入口から一番遠い、端のベッドの上に私は横になっていた。

ヴィクトールは、ベッドの脇に椅子を寄せ、そこに腰掛けて私の手を握っていた。



一体、これはどういうことなのか。

自分の置かれた状況が、すぐには理解できなかった。


たった今開けたばかりの瞼をもう一度閉じ、思案する。

何故私はここにいるのか。こうして目を覚ますまで、私はどこでなにをしていたのか。


少し考えて、私ははっと強烈な破壊音を思い出した。


そうだ。さっきまで私は見知らぬ部屋に閉じ込められて、奇妙な音に苦しめられていたんだ。

こめかみを貫くあの痛みを、今もはっきりと覚えている。


だが、それ以降の記憶が全くなかった。

気が付いたらここにいて、まるで長い夢でも見ていたようだった。


もしかすると、私はあの途中で気を失って、ここまで運び込まれたのかもしれない。

そうなってもおかしくないほど、あれは悍ましく強烈な体験だった。


仮にそうだとすると、今の状況も辻褄が合う。

全身を纏う倦怠感にも説明がつく。


ただ、当時は不在だったヴィクトールが、今は隣にいる。

彼がいつの間にか側にいる訳は、考えても分からなかった。



「目を開けてくれて良かった。このまま一生起きないかと思った」


「……どうして、ここに」


「…少し前まで、先生の遣いで外に出ていたんだけど。

君が倒れたって聞いて、急いで戻ってきたんだ」



ヴィクトールの大きな掌が、今度は私の額を覆った。

彼の温度がひやりと冷たくて、その心地好さに思わず目を細めた。


"熱は下がったみたいだな"

その一言を聞いて、私は先程まで発熱していたらしいことを知った。


ヴィクトールが椅子に座り直すと、触れていた手が自然と離れていった。

本当はもう少し触っていて欲しかったが、私は素直にそう言えなかった。



「……俺が不在の間、なにがあったのか聞きました。

キオラは、今までのことを覚えていますか?」



ヴィクトールの問いに、私は横になったまま頷いた。

するとヴィクトールは、眉を寄せて口をつぐんだ。


どうして、そんな辛そうな顔をするんだろうか。

彼はなにも悪くないのに、まるで自分に全ての責任があるとでも言うような表情だ。



「すみません。怒って、いますよね」



ぽつりと呟かれた言葉は、とても後ろめたそうだった。



「どうして、あなたが謝るの。私は怒ってなんていないよ」



皮肉ではなく、純粋に疑問に思った私は聞き返した。


私はヴィクトールに謝ってほしいなんて思っていない。

仮にその必要があったのだとしても、理由が分からない。

何のために彼が私に謝るのか、肝心なところがさっぱりだ。


しかし、ヴィクトールは詳しい訳を明かさない。

気まずさからか、徐々に視線が下がっていく。


膝の上に置かれた両手はきつく結ばれていて、間接の部分が白くなっていた。



「俺は、今日あなたがどういう目に遭うか知っていた。知っていたのに、止めなかった。

俺が抗議したところで、どうにもならなかったでしょうが…。俺は抗議をすることさえしませんでした。

あなたが辛い思いをすることになると、分かっていながら見ないふりをしたんです。

怒って当然でしょう、こんなこと」



ヴィクトールは、なにかしてしまったから謝るのではなく、なにもしなかったことが罪なのだと答えた。


彼は、今日私の身になにが起きるかを知っていたらしい。

言葉は少ないが、恐らく例の部屋で行われたことを指しているんだろう。


なのに、それを黙って見過ごした。強行されることを黙認した。

きっと私が苦しむだろうことを理解していたのに、上に異議を申し立てなかった自分自身を、ヴィクトールは嫌悪しているというのだ。



私はとっさに起き上がろうとしたが、上体に上手く力が入らず、ベッドの上から動けなかった。


仕方なく起き上がるのを諦め、仰向けになったまま白い天井を仰いだ。



「…辛い思い、って、あの部屋でのことを言ってるんでしょう?

早成室とかいう、箱みたいな部屋の中で、起きていたことを」


「その通りです」


「……じゃあ、一つ聞くけど。あれは、治療だったの?

先生は、明日新しい治療法を試すからって、言ってた。

誰も、なにも教えてくれなかったけど。あれが、先生の言う新しい治療、だったの」


「……その通りです」



私が問うと、ヴィクトールはその度に頷いた。

まさかとは思っていたが、どうやらあの行為こそが、例の"新しい治療法"とやらだったらしい。


だったら、何故事前にそうと説明してくれなかったのか。

そもそも、あんなことをして、逆に私の身体に悪影響を及ぼさないのか。

昨日は、明日詳しい話をすると言っていたのに、どうして先生は未だに現れないのか。


疑問、不満、懐疑。

後ろ向きな感情が一気に噴き出してくるのを感じる。


だが、不思議と怒りはなかった。

説明不足な対応には文句の一つも言ってやりたい気分だったが、実際にそれを口には出さなかった。


何せ、一度は体力が底を尽いたのだ。

最早意見する気力も残っていない。


今だって、一言喋る度に酷く疲弊している。

怒りの感情に回すエネルギーも余分がないほど、今の私は空っぽのくたくただ。


それに、ヴィクトールの神妙な態度を見ていたら、なんだか、変に落ち着いてしまった。


彼はなにも悪くないのに、こうして謝ってくれている。

だったら、私も彼に八つ当たりはしたくない。



「混乱、しないんですね。詳しい話、聞かなくていいんですか」


「してるよ、混乱。動揺もしてる。本当はすっごく変な感じだよ。

でも、今はなにも考えたくないんだ。余計なこと考えると、余計に疲れるから。

だから、もう少し疲れが取れてから、ゆっくり聞かせてもらうことにするよ」



自分の掠れた声が耳に入り、直後に音が途切れる。

今まで続いていた会話が急に止まって、辺りに静寂が訪れる。


ヴィクトールの方に目をやると、彼はまた眉を寄せて、一つ咳ばらいをした。



「そのこと、なんですが。

多分、時間を置いても、例の治療について説明されることはないと思います」


「……どうして?」



言い淀むヴィクトール。


"……記憶を、消すんです"


そして、しばらくの間を置いて返ってきた答えに、私は言葉を失った。


記憶を消す。

それはつまり、過去の自分を消すということ。

過去に起きた出来事を、私の中から抹消するということ。

私の心が、その瞬間だけなかったことになるということだ。


なるほど。最後には消してしまう出来事であるなら、最初から説明など不要だったというわけだ。

これまでの欺きに近い対応の数々が、ようやく腑に落ちた。


でも、だからといって納得したわけではない。

理屈は理解できても、消化不良であるのは変わらずだ。


どうせ消えてしまう記憶であったとしても、その瞬間、私は確かに恐怖を感じた。不安も、痛みも感じた。


それを、全てなかったことにするのだからと、何事もなかったように放置するのは、少し冷たいのではないか。

マイナスの感情も含めて、例の治療とやらに必要な過程だというなら、仕方がないが。



過去の対応があまりに親切で、配慮されていたためか、急な変化に心が追い付かなかった。


私が、我が儘なだけなのだろうか。

今までが甘やかされていたから、今度の扱いを冷たいなどと感じてしまうんだろうか。


ああ、それでも、この疑問もいずれは、無意味なものになるんだ。

今この瞬間も、もう直消えてなくなる。私の中の"どうして"は、私の通過した時間ごと、存在しなかったことになる。


だったら、考えるだけ無駄か。



「記憶を消す、って、具体的に、どこからどこまでを消すの。

さっきの治療のことだけ?それとも、最近の出来事全部?」


「いいえ。手を入れるのは、先程の治療行為についてのみです。

今日ここで起きたことだけを、翌日には忘れます」


「このこと、私の両親は知ってるの」


「既に承諾済みです」



私が淡々と問えば、ヴィクトールも淡々と返した。


曰く、後に消されることになるのは、先程行われた"治療行為"についてだけだという。

故に、関連の記憶を一部失うことになっても、日常生活に支障は出ないはずだと。


両親も、このことは既に承知している。

事後のケアも万全を期して行われ、後遺症に苦しめられる心配もほぼないそうだ。


纏まらない頭で、今必要な情報はとりあえず把握できた。

なにより気掛かりだった両親の待遇も、既に話が通っているならば問題ない。


私の周りが良しとしたことなら、私もそれで構わない。



「……わかった。それなら、いいよ。

両親が許したことなら、私は受け入れるだけ。

先生が決めた方針に任せるよ」


「いいんですか、それで」


「良いとか悪いとか、私に決める権利はないから。

私は、人に生かしてもらってる身だもの。私の体をどうするか決めるのは、私じゃない。

先生がそうするべきだっていうなら、そうするしかないよ。

今までだって、ずっとそうだったんだから」



最初から逆らう気などない。

先生がそれを最善としたのなら、両親がそれを認めたのなら、私はそれに従うだけだ。


私の命は、ずっと前から先生が握っている。

私を生かすも殺すも、先生次第だ。


怖いとか、嫌だとか、個人的な感情を尊重してもらえるほど、私の意見は重くない。

多少融通してもらえる場合はあっても、根本から覆すことは決して出来ないのだ。



「……前から思っていたんですが、聞き分けが良すぎませんか。

あなたが文句を言ったり、怒ったりしているところを、俺は見たことがありません。

別に推奨しているわけじゃありませんが、たまには我が儘を言っても許されると思います」



話しながら、ヴィクトールが布団をかけ直してくれた。

私はありがとうと呟いたが、ほとんど声が出なかった。


また、眠くなってきた。

つい先程目覚めたばかりなのに、早くも瞼が下がり始めている。


ヴィクトールの声も、規則的な秒針の音も、自分の心拍すらも、やけに遠く聞こえる。

深い水の底にいるようで、外界からの刺激が全て夢うつつに感じる。



ぼんやりとした頭で、ヴィクトールの言葉を反芻する。


聞き分けが良い。

言われてみれば、私は今まで一度も、"逆らう"ということをした覚えがなかった。

何事にも、誰に対しても。


ただ、改めて指摘されたところで、どうなるものでもない。


私は、普通の人達とは違うのだから。

人の手を借りねば生きられない、私のような生き物は、兎角ぶつかった障害に順応していくしかない。


どんな困難にも、逆境にも苦痛にも。

時に受け入れ、時に諦め、そうやって一つずつ片付けていくしかない。

そうやって、ひたすらに堪えることでしか、生き残れない種族なのだ。


誰に教わったわけではなく、弱者とは、則ち忍耐を強いられる存在なのだと。

本能的に、私は生まれた時から知っていた気がする。



「全部を、納得したわけじゃないけど。

なにもかも忘れるわけじゃないなら、いいよ、それで。

今日のことを忘れても、昨日までのことは、覚えていられるんでしょう?

だったら、いいや。ヴィクトールと一緒にいた時間が残っていれば、私はいい」



いずれまた、あの恐ろしい治療を受けなければならないのかと思うと、正直怖かった。

怖かったけど、今なら堪えられると思った。


どんなに苦しいことがあっても、私には帰る家がある。

帰りを待っていてくれる家族がいる。励ましてくれる友がいる。


苦痛の先に救いがあると分かっていれば、きっと、人間はどんなことでも耐えられるはずだ。

少なくとも私は、そうだ。


何度傷付いたって、傷付いたことを忘れたって。

愛された記憶はなくならない。決して失われない。


愛してくれる人がいる限り、私を覚えていてくれる人がいる限り。

何度忘れてしまっても、いつか必ず思い出す。

自分は確かに愛されていたのだと、体の全部が教えてくれる。


だから、怖いけど、大丈夫。

目が覚めた時、孤独でなければ、きっと立ち直れる。



「一つ、我が儘を言ってもいいなら、……そうだな。

辛い時には、こうして、またヴィクトールに、話を聞いてほしいな。

時間があって、気が向いた時だけでいいから。

次目を覚ました時も、隣にいてくれる?」



少しずつ、呼吸が深くなっていく。体温が上昇していく。

あと数分、数秒もすれば、私は再び眠りに落ちるだろう。


その前に、ヴィクトールの顔が見たかった。

眠った後も、彼と話の続きがしたかった。


そう思って、私は最後にもう一度だけ、ヴィクトールの方に目をやった。



「………どうして、泣いてるの」



ヴィクトールの顔が目に入った瞬間、一気に眠気が覚めた。


だって、泣いているのだ。あのヴィクトールが。

悲しい映画を観ても、人に酷いことを言われても、一度も泣いたことがないと言っていたあのヴィクトールが。


こちらを一点に見詰める双眸から、はらはらと絶え間なく涙が滴っている。

嗚咽せず、瞬きもせず、微動だにしないヴィクトールの目だけが、溢れ出す涙に揺れている。


まるで電源が切れたかのように、息を吸うこともない。

人形のようにそこに座っているのに、涙だけが独りでに溢れている。



「な、泣かないで、ヴィクトール。

ごめんね、私、変なこと言っちゃったんだね。ごめんね」



私は慌てて上体を起こしたが、やはり完全に起き上がることは出来なかった。


思うように動けないので、横になったままずりずりと身をよじった。

横向きに体勢を変えて、隣にいるヴィクトールと向き合った。


そして、膝の上で結ばれた、彼の両手に向かって右手を伸ばした。



「……違う。違うんだ、キオラ。君が変なんじゃない。君はなにもおかしくないよ」



私の指先が強張った手の甲に触れた瞬間。

ヴィクトールは思い出したように息を吸って、言った。

泣き顔を見られたくないのか、はっと顔を背けて俯いた。


私の右手を、ヴィクトールの両手が包んだ。

それは先程よりも力強くて、少し痛かった。



「じゃあ、なんで、泣いてるの」



俯いたヴィクトールの目から、一つ二つと涙が零れる。

落ちた雫は、私の爪先に触れて、繋がったヴィクトールの親指に伝っていった。



「……悔しくて。今、こうしてあなたと触れ合っている時間も、あなたは忘れてしまうんだと思うと。

こんなに嬉しかったのに、だから余計に、悔しいんです」



涙はとめどなく溢れているのに、ヴィクトールの声は至って穏やかだった。

呼吸も落ち着いていて、顔を見なければ、泣いているとは分からないくらいだった。



「俺、もっと努力します。もっと偉くなって、人を従えるくらい、強い立場の人間になります。

そうしたら、絶対にあなたを苦しめない。

あなたが苦しまずに済むように、俺が変えます。あなたを取り巻く全ての困難を、俺が塗り変えます」



ヴィクトールが顔を上げ、両手を低く持ち上げた。

彼が両手を上げたのと同時に、彼に手を握られている私の腕も、自然と上に上がっていった。


重なった三つの掌が、ヴィクトールの顎の下で停止して。

その姿はまるで、神に祈りを捧げているかのようだった。



「だから、もう少しだけ待っていてください。俺が、君を守れるようになるまで。

それまで、何度でも話を聞くから。何度でも、君を起こしてあげるから。

時間がなくても、気が向かない時でも、君が辛い時には、必ず側にいます。

約束します」



ヴィクトールの力強い声が、体当たりしてくるみたいに全身に響いた。

濡れたオレンジの瞳を見ていると、じわじわと切ない感じが胸に込み上げてきた。


目頭が熱くなって、眉間の辺りがきゅうと痛んで。

どうしようもないくらい、たまらない気持ちが私の内側から溢れてきた。



私は、ヴィクトールの泣き顔につられて、涙を流しながら、声にならない声で言った。


ありがとう、と。



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