Episode32-3:分裂
「キオラ。目を覚まして、キオラ」
目を覚ますと、私はベッドの上にいた。
側に座っているのは、心配そうな顔をしたヴィクトール。
他には誰もおらず、部屋には私と彼の二人しかいない。
どうやら、彼の呼び声で私は目覚めたようだ。
ヴィクトールは、私の顔を見つめながら安堵の溜め息を零していた。
目だけを動かして周囲を見渡してみると、ここは医務室だった。
うすぼんやりとした視界に、見慣れた光景が映っている。
医務室の入口から一番遠い、端のベッドの上に私は横になっていた。
ヴィクトールは、ベッドの脇に椅子を寄せ、そこに腰掛けて私の手を握っていた。
一体、これはどういうことなのか。
自分の置かれた状況が、すぐには理解できなかった。
たった今開けたばかりの瞼をもう一度閉じ、思案する。
何故私はここにいるのか。こうして目を覚ますまで、私はどこでなにをしていたのか。
少し考えて、私ははっと強烈な破壊音を思い出した。
そうだ。さっきまで私は見知らぬ部屋に閉じ込められて、奇妙な音に苦しめられていたんだ。
こめかみを貫くあの痛みを、今もはっきりと覚えている。
だが、それ以降の記憶が全くなかった。
気が付いたらここにいて、まるで長い夢でも見ていたようだった。
もしかすると、私はあの途中で気を失って、ここまで運び込まれたのかもしれない。
そうなってもおかしくないほど、あれは悍ましく強烈な体験だった。
仮にそうだとすると、今の状況も辻褄が合う。
全身を纏う倦怠感にも説明がつく。
ただ、当時は不在だったヴィクトールが、今は隣にいる。
彼がいつの間にか側にいる訳は、考えても分からなかった。
「目を開けてくれて良かった。このまま一生起きないかと思った」
「……どうして、ここに」
「…少し前まで、先生の遣いで外に出ていたんだけど。
君が倒れたって聞いて、急いで戻ってきたんだ」
ヴィクトールの大きな掌が、今度は私の額を覆った。
彼の温度がひやりと冷たくて、その心地好さに思わず目を細めた。
"熱は下がったみたいだな"
その一言を聞いて、私は先程まで発熱していたらしいことを知った。
ヴィクトールが椅子に座り直すと、触れていた手が自然と離れていった。
本当はもう少し触っていて欲しかったが、私は素直にそう言えなかった。
「……俺が不在の間、なにがあったのか聞きました。
キオラは、今までのことを覚えていますか?」
ヴィクトールの問いに、私は横になったまま頷いた。
するとヴィクトールは、眉を寄せて口をつぐんだ。
どうして、そんな辛そうな顔をするんだろうか。
彼はなにも悪くないのに、まるで自分に全ての責任があるとでも言うような表情だ。
「すみません。怒って、いますよね」
ぽつりと呟かれた言葉は、とても後ろめたそうだった。
「どうして、あなたが謝るの。私は怒ってなんていないよ」
皮肉ではなく、純粋に疑問に思った私は聞き返した。
私はヴィクトールに謝ってほしいなんて思っていない。
仮にその必要があったのだとしても、理由が分からない。
何のために彼が私に謝るのか、肝心なところがさっぱりだ。
しかし、ヴィクトールは詳しい訳を明かさない。
気まずさからか、徐々に視線が下がっていく。
膝の上に置かれた両手はきつく結ばれていて、間接の部分が白くなっていた。
「俺は、今日あなたがどういう目に遭うか知っていた。知っていたのに、止めなかった。
俺が抗議したところで、どうにもならなかったでしょうが…。俺は抗議をすることさえしませんでした。
あなたが辛い思いをすることになると、分かっていながら見ないふりをしたんです。
怒って当然でしょう、こんなこと」
ヴィクトールは、なにかしてしまったから謝るのではなく、なにもしなかったことが罪なのだと答えた。
彼は、今日私の身になにが起きるかを知っていたらしい。
言葉は少ないが、恐らく例の部屋で行われたことを指しているんだろう。
なのに、それを黙って見過ごした。強行されることを黙認した。
きっと私が苦しむだろうことを理解していたのに、上に異議を申し立てなかった自分自身を、ヴィクトールは嫌悪しているというのだ。
私はとっさに起き上がろうとしたが、上体に上手く力が入らず、ベッドの上から動けなかった。
仕方なく起き上がるのを諦め、仰向けになったまま白い天井を仰いだ。
「…辛い思い、って、あの部屋でのことを言ってるんでしょう?
早成室とかいう、箱みたいな部屋の中で、起きていたことを」
「その通りです」
「……じゃあ、一つ聞くけど。あれは、治療だったの?
先生は、明日新しい治療法を試すからって、言ってた。
誰も、なにも教えてくれなかったけど。あれが、先生の言う新しい治療、だったの」
「……その通りです」
私が問うと、ヴィクトールはその度に頷いた。
まさかとは思っていたが、どうやらあの行為こそが、例の"新しい治療法"とやらだったらしい。
だったら、何故事前にそうと説明してくれなかったのか。
そもそも、あんなことをして、逆に私の身体に悪影響を及ぼさないのか。
昨日は、明日詳しい話をすると言っていたのに、どうして先生は未だに現れないのか。
疑問、不満、懐疑。
後ろ向きな感情が一気に噴き出してくるのを感じる。
だが、不思議と怒りはなかった。
説明不足な対応には文句の一つも言ってやりたい気分だったが、実際にそれを口には出さなかった。
何せ、一度は体力が底を尽いたのだ。
最早意見する気力も残っていない。
今だって、一言喋る度に酷く疲弊している。
怒りの感情に回すエネルギーも余分がないほど、今の私は空っぽのくたくただ。
それに、ヴィクトールの神妙な態度を見ていたら、なんだか、変に落ち着いてしまった。
彼はなにも悪くないのに、こうして謝ってくれている。
だったら、私も彼に八つ当たりはしたくない。
「混乱、しないんですね。詳しい話、聞かなくていいんですか」
「してるよ、混乱。動揺もしてる。本当はすっごく変な感じだよ。
でも、今はなにも考えたくないんだ。余計なこと考えると、余計に疲れるから。
だから、もう少し疲れが取れてから、ゆっくり聞かせてもらうことにするよ」
自分の掠れた声が耳に入り、直後に音が途切れる。
今まで続いていた会話が急に止まって、辺りに静寂が訪れる。
ヴィクトールの方に目をやると、彼はまた眉を寄せて、一つ咳ばらいをした。
「そのこと、なんですが。
多分、時間を置いても、例の治療について説明されることはないと思います」
「……どうして?」
言い淀むヴィクトール。
"……記憶を、消すんです"
そして、しばらくの間を置いて返ってきた答えに、私は言葉を失った。
記憶を消す。
それはつまり、過去の自分を消すということ。
過去に起きた出来事を、私の中から抹消するということ。
私の心が、その瞬間だけなかったことになるということだ。
なるほど。最後には消してしまう出来事であるなら、最初から説明など不要だったというわけだ。
これまでの欺きに近い対応の数々が、ようやく腑に落ちた。
でも、だからといって納得したわけではない。
理屈は理解できても、消化不良であるのは変わらずだ。
どうせ消えてしまう記憶であったとしても、その瞬間、私は確かに恐怖を感じた。不安も、痛みも感じた。
それを、全てなかったことにするのだからと、何事もなかったように放置するのは、少し冷たいのではないか。
マイナスの感情も含めて、例の治療とやらに必要な過程だというなら、仕方がないが。
過去の対応があまりに親切で、配慮されていたためか、急な変化に心が追い付かなかった。
私が、我が儘なだけなのだろうか。
今までが甘やかされていたから、今度の扱いを冷たいなどと感じてしまうんだろうか。
ああ、それでも、この疑問もいずれは、無意味なものになるんだ。
今この瞬間も、もう直消えてなくなる。私の中の"どうして"は、私の通過した時間ごと、存在しなかったことになる。
だったら、考えるだけ無駄か。
「記憶を消す、って、具体的に、どこからどこまでを消すの。
さっきの治療のことだけ?それとも、最近の出来事全部?」
「いいえ。手を入れるのは、先程の治療行為についてのみです。
今日ここで起きたことだけを、翌日には忘れます」
「このこと、私の両親は知ってるの」
「既に承諾済みです」
私が淡々と問えば、ヴィクトールも淡々と返した。
曰く、後に消されることになるのは、先程行われた"治療行為"についてだけだという。
故に、関連の記憶を一部失うことになっても、日常生活に支障は出ないはずだと。
両親も、このことは既に承知している。
事後のケアも万全を期して行われ、後遺症に苦しめられる心配もほぼないそうだ。
纏まらない頭で、今必要な情報はとりあえず把握できた。
なにより気掛かりだった両親の待遇も、既に話が通っているならば問題ない。
私の周りが良しとしたことなら、私もそれで構わない。
「……わかった。それなら、いいよ。
両親が許したことなら、私は受け入れるだけ。
先生が決めた方針に任せるよ」
「いいんですか、それで」
「良いとか悪いとか、私に決める権利はないから。
私は、人に生かしてもらってる身だもの。私の体をどうするか決めるのは、私じゃない。
先生がそうするべきだっていうなら、そうするしかないよ。
今までだって、ずっとそうだったんだから」
最初から逆らう気などない。
先生がそれを最善としたのなら、両親がそれを認めたのなら、私はそれに従うだけだ。
私の命は、ずっと前から先生が握っている。
私を生かすも殺すも、先生次第だ。
怖いとか、嫌だとか、個人的な感情を尊重してもらえるほど、私の意見は重くない。
多少融通してもらえる場合はあっても、根本から覆すことは決して出来ないのだ。
「……前から思っていたんですが、聞き分けが良すぎませんか。
あなたが文句を言ったり、怒ったりしているところを、俺は見たことがありません。
別に推奨しているわけじゃありませんが、たまには我が儘を言っても許されると思います」
話しながら、ヴィクトールが布団をかけ直してくれた。
私はありがとうと呟いたが、ほとんど声が出なかった。
また、眠くなってきた。
つい先程目覚めたばかりなのに、早くも瞼が下がり始めている。
ヴィクトールの声も、規則的な秒針の音も、自分の心拍すらも、やけに遠く聞こえる。
深い水の底にいるようで、外界からの刺激が全て夢うつつに感じる。
ぼんやりとした頭で、ヴィクトールの言葉を反芻する。
聞き分けが良い。
言われてみれば、私は今まで一度も、"逆らう"ということをした覚えがなかった。
何事にも、誰に対しても。
ただ、改めて指摘されたところで、どうなるものでもない。
私は、普通の人達とは違うのだから。
人の手を借りねば生きられない、私のような生き物は、兎角ぶつかった障害に順応していくしかない。
どんな困難にも、逆境にも苦痛にも。
時に受け入れ、時に諦め、そうやって一つずつ片付けていくしかない。
そうやって、ひたすらに堪えることでしか、生き残れない種族なのだ。
誰に教わったわけではなく、弱者とは、則ち忍耐を強いられる存在なのだと。
本能的に、私は生まれた時から知っていた気がする。
「全部を、納得したわけじゃないけど。
なにもかも忘れるわけじゃないなら、いいよ、それで。
今日のことを忘れても、昨日までのことは、覚えていられるんでしょう?
だったら、いいや。ヴィクトールと一緒にいた時間が残っていれば、私はいい」
いずれまた、あの恐ろしい治療を受けなければならないのかと思うと、正直怖かった。
怖かったけど、今なら堪えられると思った。
どんなに苦しいことがあっても、私には帰る家がある。
帰りを待っていてくれる家族がいる。励ましてくれる友がいる。
苦痛の先に救いがあると分かっていれば、きっと、人間はどんなことでも耐えられるはずだ。
少なくとも私は、そうだ。
何度傷付いたって、傷付いたことを忘れたって。
愛された記憶はなくならない。決して失われない。
愛してくれる人がいる限り、私を覚えていてくれる人がいる限り。
何度忘れてしまっても、いつか必ず思い出す。
自分は確かに愛されていたのだと、体の全部が教えてくれる。
だから、怖いけど、大丈夫。
目が覚めた時、孤独でなければ、きっと立ち直れる。
「一つ、我が儘を言ってもいいなら、……そうだな。
辛い時には、こうして、またヴィクトールに、話を聞いてほしいな。
時間があって、気が向いた時だけでいいから。
次目を覚ました時も、隣にいてくれる?」
少しずつ、呼吸が深くなっていく。体温が上昇していく。
あと数分、数秒もすれば、私は再び眠りに落ちるだろう。
その前に、ヴィクトールの顔が見たかった。
眠った後も、彼と話の続きがしたかった。
そう思って、私は最後にもう一度だけ、ヴィクトールの方に目をやった。
「………どうして、泣いてるの」
ヴィクトールの顔が目に入った瞬間、一気に眠気が覚めた。
だって、泣いているのだ。あのヴィクトールが。
悲しい映画を観ても、人に酷いことを言われても、一度も泣いたことがないと言っていたあのヴィクトールが。
こちらを一点に見詰める双眸から、はらはらと絶え間なく涙が滴っている。
嗚咽せず、瞬きもせず、微動だにしないヴィクトールの目だけが、溢れ出す涙に揺れている。
まるで電源が切れたかのように、息を吸うこともない。
人形のようにそこに座っているのに、涙だけが独りでに溢れている。
「な、泣かないで、ヴィクトール。
ごめんね、私、変なこと言っちゃったんだね。ごめんね」
私は慌てて上体を起こしたが、やはり完全に起き上がることは出来なかった。
思うように動けないので、横になったままずりずりと身をよじった。
横向きに体勢を変えて、隣にいるヴィクトールと向き合った。
そして、膝の上で結ばれた、彼の両手に向かって右手を伸ばした。
「……違う。違うんだ、キオラ。君が変なんじゃない。君はなにもおかしくないよ」
私の指先が強張った手の甲に触れた瞬間。
ヴィクトールは思い出したように息を吸って、言った。
泣き顔を見られたくないのか、はっと顔を背けて俯いた。
私の右手を、ヴィクトールの両手が包んだ。
それは先程よりも力強くて、少し痛かった。
「じゃあ、なんで、泣いてるの」
俯いたヴィクトールの目から、一つ二つと涙が零れる。
落ちた雫は、私の爪先に触れて、繋がったヴィクトールの親指に伝っていった。
「……悔しくて。今、こうしてあなたと触れ合っている時間も、あなたは忘れてしまうんだと思うと。
こんなに嬉しかったのに、だから余計に、悔しいんです」
涙はとめどなく溢れているのに、ヴィクトールの声は至って穏やかだった。
呼吸も落ち着いていて、顔を見なければ、泣いているとは分からないくらいだった。
「俺、もっと努力します。もっと偉くなって、人を従えるくらい、強い立場の人間になります。
そうしたら、絶対にあなたを苦しめない。
あなたが苦しまずに済むように、俺が変えます。あなたを取り巻く全ての困難を、俺が塗り変えます」
ヴィクトールが顔を上げ、両手を低く持ち上げた。
彼が両手を上げたのと同時に、彼に手を握られている私の腕も、自然と上に上がっていった。
重なった三つの掌が、ヴィクトールの顎の下で停止して。
その姿はまるで、神に祈りを捧げているかのようだった。
「だから、もう少しだけ待っていてください。俺が、君を守れるようになるまで。
それまで、何度でも話を聞くから。何度でも、君を起こしてあげるから。
時間がなくても、気が向かない時でも、君が辛い時には、必ず側にいます。
約束します」
ヴィクトールの力強い声が、体当たりしてくるみたいに全身に響いた。
濡れたオレンジの瞳を見ていると、じわじわと切ない感じが胸に込み上げてきた。
目頭が熱くなって、眉間の辺りがきゅうと痛んで。
どうしようもないくらい、たまらない気持ちが私の内側から溢れてきた。
私は、ヴィクトールの泣き顔につられて、涙を流しながら、声にならない声で言った。
ありがとう、と。




