Episode32-2:分裂
2月27日。
ヴィクトールと私の誕生日から間もなく。
この日の午後、私はフェリックス先生から急なお呼び立てを受けた。
先生直々に連絡をしてくることは珍しい。
用件を尋ねると、新しい治療法を試したいので、出来るだけ早くに研究所まで赴いてほしいとのことだった。
詳しい説明は直接会ってしたいそうで、電話口ではそれ以上の話はしなかった。
私は、すぐにそちらに伺うと返事をして、体調を整えて翌日に備えた。
そして翌日。2月28日。
日頃の定期検診と同様に、私は自分一人でゴーシャーク研究所へと向かった。
しかし、いつも通りにパテルタワーに入ると、ロビーで待っていたのはエメリーだった。
思いがけない人物からの出迎えに、私は少し呆気に取られた。
エメリーとは今でも友好な関係を続けているが、以前と比べて確実に接点は減っていた。
ヴィクトールが私の世話役になってからは、専ら彼と共に過ごすようになったからだ。
こうしてロビーで出迎えてくれるのも、今となってはヴィクトールの役目。
エメリーが出迎えてくれるのは、実に数ヶ月ぶりのことだった。
私は、何故彼の姿が見えないのかと、ヴィクトールの所在を尋ねた。
するとエメリーは、今日のヴィクトールにはどうしても外せない用事があるのだと答えた。
よって、本日に限り、エメリーが代わりに私の面倒を見ることになったという。
今までこんな事態は経験したことがないので、例の"外せない用事"とは、よほど重要なことなのだろう。
この時の私は、ヴィクトールの不在を特に疑問には思わなかった。
ヴィクトールは、いずれフェリックス先生の弟子になる人物だ。
私の相手をしてくれるのだって、本業のついでであって最優先事項ではない。
常に私のお守りをしていられるほど、彼も暇ではないということだ。
きっと、こんなことが今後、二度三度と続いていくだろう。
みるみる成長していく彼に、足の遅い私は置いていかれるだけ。
離れた距離は、じわじわと幅を広げていくだけ。
寂しいことだが、いつかは彼とも疎遠になる日が来る。いつまでも甘えたばかりではいられない。
ヴィクトールの顔を頭に思い浮かべて、静かに息を吸い、吐く。
「では、そろそろ行きましょうか。既に準備は整っています」
先導するエメリーに連れられ、ゴーシャーク研究所に踏み入る。
その道中、エメリーは終始穏やかな笑みを浮かべていたが、ヴィクトールのように手を握ってはくれなかった。
「今日からここが、あなたにとって最も身近な場所になるのですよ」
最終的に連れて来られたのは、馴染みのない扉の前だった。
研究所の最奥部に繋がる通路を突き当たりまで進むと、左手に一つの曲がり角があり、そこを更に進んで行くと、それは私達の前に現れた。
"CRYSTAL ZONE"
結晶部と名の付いたその扉からは、どこか他とは違う空気がした。
日頃の定期検診では、入口に近い医務室や応接室を使用しているので、こんな奥までは近付かない。
こんなところにこんな場所があるなんて、私は今まで知らなかった。
"いつもの応接間は使わないんですか?"
私の問いに、エメリーが首を振った。
どうやら、新しい治療法とやらはこの中で行われるようだ。
扉の脇に設置されているセキュリティシステムに、エメリーが自分のIDカードを通す。
セキュリティが解除された扉は、重い音を立てて左右に開いた。
扉の向こうに広がっていたのは、長い直線の通路と、左右に別れた複数の小部屋だった。
ひやりと肌寒い室温は、なにかの気配を感じさせるようで、緊張感を煽られる。
私は思わず息を呑み、中に踏み込むもう一歩を躊躇った。
妙な感覚が海馬を刺激しているのを感じる。
どこか懐かしいような、見覚えがあるような気がするのに、記憶の中にこの風景はない。
なかなか動こうとしない私を見て、痺れを切らしたエメリーが踵を返して戻ってくる。
エメリーの力強い手に背中を押され、彼に促されてやっと私の足は進んだ。
「では、しばらくここで待機していてください。
今係の者を呼んできますので」
「え…。ここで、ですか?
ここで私は、なにをしていれば…」
「なにもしなくていいのです。
ただ、私が迎えに来るまで、ここにいてください。
今の貴女にできることは、それだけです」
複数存在する小部屋の中で、エメリーが選んだのは、右手の手前から二番目にある部屋だった。
その部屋の扉には"PRECOCIAL ROOM"と表記されているが、やはりこの文字にも覚えはなかった。
エメリーが扉を開け、中に入るようにと私に促す。
先に部屋に入ると、中は実に簡素な造りになっていた。
真四角な間取りに、真っ白な壁紙。
窓はなく、扉は出入口用のものが一つだけ。
壁紙は一面だけ黒塗りのガラスが張られている。
部屋の隅にはカーテンで仕切られたトイレが設置されている。
それ以外に特に目立った点はなく、家具も一切置かれていない。
まさに"箱"のような場所だった。
だが、この空間に足を踏み入れた瞬間、私の背筋を悍ましいなにかが駆けていった。
何故だか息が上がる。
喉が、手足が震える。首筋に冷たい汗が伝う。
強烈な既視感が脳から眼球に伝わり、鼻の奥がつんと痛む。
私は、ここを知っている。
直感でそう思った。
エメリーは、ここで私に待機していてほしいと言った。
自分が迎えに来るまで、ここから出ないでほしいと。
出来れば、こんなところに一人にしないでほしかったが、先生からの指示であるなら従う他ない。
なにより、信頼するエメリーが大丈夫だと言っているのだから、私は彼の言葉を信じた。
優しい笑顔のエメリーが、大丈夫だと呟きながら退室する。
静かに扉を閉め、外からしっかり施錠をする。
ガチリと鍵のかかった音を聞いた時、私の頭に落雷した。
否、雷が落ちたがごとく、鋭い衝撃に襲われた。
先程直感した、ここを知っているという感覚は思い違いなどではない。
私はこの場所を、何度も"見た"ことがある。
真っ白な箱の中。
この景色は、度々見舞われる悪夢の中の景色と同じ。
たった一人置き去りにされるという状況も、悪夢のシナリオと同様だった。
はっきり認識したと同時に、喉の奥から細く引き攣った声が漏れた。
自然と足が後退し、震える背中と閉じたドアとがぴったり重なる。
まさか、あれは正夢だったのか。
そう予感した刹那、ジリリリと激しいサイレンが室内に響き渡った。
いてもたってもいられなくなった私は、恐怖に駆られてとっさに部屋から飛び出そうとした。
しかし、エメリーが外から施錠してしまったため、内側からは扉を開けられない。
「エメリー!!さっきのサイレンはなに!?これからなにが起きるの!?ねえ!!」
扉を叩きながら、外に向かって声を上げる。
だが、何度呼び掛けても、開けてくれと頼んでも、エメリーは返事をしてくれなかった。
それどころか、空しいほどの静けさが扉越しに伝わってきた。
ひょっとして、この部屋の外には誰もいないのだろうか。
先程のサイレンがどういうものなのか分からず、恐怖が収まらない。
もし、突然の地震かなにかだったとしたら、誰かが知らせに来てくれるはずだ。
異常事態が起きた時、私だけ置いて逃げるような人間は、この研究所にはいない。
じゃあ、あのサイレンは一体なんなのか。
選択肢が多すぎて答えが出ない。
何度呼び掛けても応答がないので、私は仕方なく訴えるのをやめた。
恐る恐る足を動かし、辺りを警戒しながら部屋の中を歩いてみる。
黒塗りのガラスはただの仕切りなのか、それともマジックミラー仕様になっているのか。
半透明の黒の向こうはなにも見えなかった。
隅に設置されているトイレにも、特に異常は見られなかった。
こんなところにぽつりと置いてあるのは妙だったが、根本的な違和感を言えばこの部屋の全てがそうだ。
その後もしばらく歩き回り、とりあえず部屋の中にはなにもないということを確認した。
その間、大体5分程度の時間を要したと思うが、外で異変が起きている様子もなかった。
騒ぎが起きていないのなら、自然災害はなかったのか。
薬物を扱う施設ならバイオハザードの可能性もあるが、今回は無事と見ていいだろう。
逆におかしいほど、辺りは静まり返っていた。
一先ず胸を撫で下ろしながら、私は再び扉に近付いた。
「エメリー?誰もいませんか?
さっきのサイレンってなんだったんですか?私はいつまで待っていれば、」
先程より少し落ち着いた声で、もう一度扉の外に向かって呼び掛けてみる。
すると、私が言い終える前に、またしてもサイレンが響いてきた。
音は先程と同じものだったが、音量は先程より大きくなっている。
サイレンに言葉を遮られた私は、驚いてとっさに後ずさった。
そして、私の体が扉から離れた時だった。
サイレンが鳴り止んだ直後、今度は強烈な破壊音が四方から飛んできたのだ。
前後左右から、天井から足元から。
どこからともなく轟く破壊音が、弾丸のように私の鼓膜を刺激する。
例えるなら、ラジオのノイズ音を何倍も甲高く、何十倍も大きくしたような、そんな音だ。
「あ"がっ、ぎ、~~~ッ、ぁぁああああ、ああ"あ"あ"あ"!!!!」
たまらず膝を着き、両耳を掌で塞ぐ。
しかし、しっかり塞いだつもりでも、音は私の耳に入り込んでくる。
私の薄い掌を突き破って、右から左へ、左から右へ。
鋭い音がこめかみを貫く。
勝手に声が溢れ、なにも考えられない。
どうしてこうなったのか、どうすればいいのか。
答えを出す前に思考が強制シャットアウトされる。
痛い。叫びながらも必死に息継ぎをするが、空気を取り込む度に噎せ返ってしまう。
喉が拒んで、上手く息を吸えない。
しばらくその場にうずくまって堪えたが、この姿勢も段々辛くなってきた。
力無く倒れ、横向きに床に転がる。
痛い。苦しい。
生理的な涙が溢れ、視界が明滅する。
きつく閉じた瞼の裏に、いつかに見た光景が浮かんでいる。
これと全く同じ夢を、一年程前に見たのを思い出した。
あの時は、どうやって目を覚ましたんだっけ。
あの悪夢は、どんなラストを迎えたんだっけ。
考えても、出てこない。
引き出そうとすると、一層頭痛が酷くなる。
しばらくして、破壊音がぴたりと鳴り止んだ。
突如として訪れた静寂に、私は咳込みながらも慌てて呼吸をする。
あれからどれほどの時間が経過したのか、時計がないせいで全くわからない。
一時間だった気もするし、5分も経っていない気もする。
ただ一つ分かるのは、あの破壊音はこれで終いではないということ。
短い休憩を挟んだ後に、間もなく次が再開されるだろうということ。
根拠はないのに、何故か確信がある。
「せんせ、い」
ぽつりと漏れた声は、涙に濡れていた。
右目から溢れ出した涙が、左目を通過して頬を伝い、床に落ちる。
昨日は新しい治療法がどうとか言っていたが、まさかこれがそうなんだろうか。
治療どころか、むしろ私の心身を攻撃しているとしか思えない。
先生が私をこうするように指示したのだとしたら、一体どういう思惑があるのか。
疑問は尽きず、目が回り、頭の中を知人友人達の姿が巡る。
両親の笑顔、ヨダカさん、ヘイズ先生の声、私の手を引くヴィクトールの後ろ姿。
恐怖が募っていくほど、取り留めのない思考ばかりが全身を支配する。
『そろそろ交代していいよ、キオラ』
ふと、聞き慣れた自分の声が、他人のように話し掛けてきたのが聞こえた。
自分の口が動いているのを感じるが、そこから声は出ていない。
まるで、私の中にいる誰かに、腹話術をさせられている感覚だった。
私は、その声に引っ張られるようにして、全身の力を抜いた。
意識を手放したのが、その直後だったのか、しばらく経ってからだったのかはわからない。
ただ、次目を覚ました時に、私はここにいない。




