Episode31-9:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想
「わ、私なんかの話を聞いても、つまらないだろうと思って…。
なので、ヴィクトールさんが興味のある話をした方が、少しは楽しいかなと…」
私が正直に胸の内を明かすと、ヴィクトールはまた穴が空きそうなほどの真っすぐな視線でこちらを見詰めてきた。
もう何度目になるかわからないが、彼のこの癖ばかりはいつまで経っても慣れない気がする。
私がつい顔を背けても、ヴィクトールの視線は私の顔から逸れない。
じっと観察するような目付きに、無意識に口元が震える。
「なるほど。そういうことでしたか。
どうやら俺は、貴女に酷い誤解をさせてしまったようですね」
すると、ヴィクトールの視線がようやく下へ向き、痛いほど見られている感じがなくなった。
恐る恐る横目で様子を窺ってみると、その表情はどこか思い詰めた風だった。
微かだが感情の現れた顔付きになっている。
「……すみません。俺は、昔から口下手で。よく人から悪いように誤解されるんです。
その仏頂面はどうにかならないかと、子供の頃は両親に叱られましたし、最近はフェリックス先生にも注意されました。
自分でも直そうと努力はしているんですが、難しくて…」
口を閉ざした私と交代するかのように、急に饒舌になり始めたヴィクトール。
好きなものの話には全く食指が動いていなかったのに、自分の欠点については不思議なほどすらすらと明かしてくる。
好みは教えてくれないのに、弱みを見せることは吝かでないのか。
全く取り合う気がないのかと思いきや、こうして歩み寄る姿勢を見せてきたり。
益々、ヴィクトールの人柄がわからなくなってくる。
「ですが、これだけは信じてください。
俺は貴女の話をつまらないと思ったことはないし、貴女の気持ちを蔑ろにする気もありません。出来ることなら、友好な関係を築きたいとも思ってます。
ただ、それを表現するのが、…苦手なだけなんです。
不快な思いをさせてしまったのなら謝ります。どうか悪く捉えないでほしい」
"悪く捉えないでほしい"
言い終えると同時にヴィクトールが勢いよく顔を上げたので、こっそり顔色を窺っていた私はばっちり目が合ってしまった。
ただ、目が合った瞬間に、私の頭の中がすっと解れた気がした。
ヴィクトールの鮮やかなオレンジの瞳に、私の顔が映っている。
ただ私の顔を見ているのではなく、私の中にある心を見つけようとしているのが、注がれる熱意でわかる。
今やっと気付いた。
彼が無口であるのは、単に表現することが苦手なだけでなく、まして悪意を持っているからでもない。
口を開けば、無意識に出た言葉が思いもよらず相手を傷付けるかもしれないから。
それを自覚しているからこそ、この人は極力自分から話さないようにしていたんだ。
自分の非を認めて謝るというのは、誰にでも当たり前にできることではない。
それができるということは、ヴィクトールには良識と、人間らしい感性が備わっている証拠だ。
突然手を握ってきたのも、私がまたナイーブな状態にあると見抜いたから。
どんな風に子供と接するのが正しいのかと、本に教授を仰いだのも、私を傷付けないようにするためだ。
きっと悪い人ではないのだろうことは、初めて会った時から何となく感じていたけど。
どうやら私は、ヴィクトールという人間の性質を少し誤解していたようだ。
握り拳を解き、今度は私の掌がヴィクトールの手を覆う。
だが、私の小さい掌では、ヴィクトールの大きな手を余さず包み込むことはできなかった。
「そう言ってもらえて、良かったです。
てっきり、ヴィクトールさんは私のことが嫌いなんだと思ったから…」
「嫌うだなんて滅相もない」
「はい。今それがわかりました。
私も、ヴィクトールさんと友好な関係を築きたいです。
お嫌でないなら、ちょっとずつ、お友達になりましょう」
ヴィクトールが勇気を持って自分の欠点を告白してくれたおかげで、私との間に生じていた溝も随分埋まった。
彼が私を嫌っていたわけではないと分かった今、もう沈黙が流れても怖くはない。
彼がふと喋らなくなるのは、不機嫌であるからではないと分かったから。
「では改めて、ヴィクトールさんのことを教えてください。
ヴィクトールさんのことが知りたいから、教えてほしいんです」
「……俺のことですか。
別に構いませんが、この通りつまらない人間なので、答えられることは少ないですよ」
「そ、そうなんですか?本当に、好きなものとか興味のあることとか、一つもないんですか?」
「はい。ないですね」
だが、仕切り直してもう一度同じ質問を投げ掛けても、ヴィクトールはやはり首を横に振った。
私からのアプローチにまともに取り合う気がなかったのではなく、本当に思い当たることがなかったそうで、私は驚いた。
まさかこんな人がいるなんて。
どれほどの善人にも嫌いなものはあるし、逆に悪人にも好きなものはあると思っていたのに。
そのどちらも持ち合わせがないというのは、彼は過去にどんな人生を送ってきたのだろうか。
私がこれまで知り合ってきた人達の中で、ヴィクトールはどのタイプにも当て嵌まらない。
だけど、ないならないで、それでもいいかと思えた。
今となっては、朧げな彼の中身を掘り下げていくのが楽しくなってきた。
「じゃあ、これから見付けていきましょう。
今まで過ごした環境の中では気付けなかったことも、世界が変われば分かるかもしれません。
それで、もし好きなものが一つでも見付かったら、私に教えてください。
ヴィクトールさんが好きになったものを、私も好きになりたいです」
彼も私もまだ若い。
私は病気持ちだから、いつまで元気でいられるかわからないけど、ヴィクトールはそうじゃない。
彼にはまだまだ時間があるし、未来が続いている。その道中に新しい発見をすることもあるだろう。
その発見を一度でも共有できたら嬉しいし、彼の好きなものを私も好きになれたらきっと楽しい。
誰かの人生に、自分の存在が少しでも関われるなら。そういえばこんなこともあったと、私との触れ合いをたまにでも思い出してくれる人がいたら。
それはとても幸福なことだ。
私は、多分彼より長く生きられない。
いつか私の命が終わる瞬間を、彼は見届けることになる。
明日か、一年後か、十年後か。具体的な寿命はわからないけど。
その時がきたら、少しでも彼に悲しんでもらえる人間になれるように、私は今を生きたいと思う。
「……今、一つできましたよ。興味のあること」
「えっ。な、なんですか?」
ヴィクトールが一度目を伏せて呟く。
長い睫毛は白い肌に陰を落とし、彼の呼吸が穏やかに空気を揺らす。
「貴女です」
気のせいか、その一瞬ヴィクトールが微笑んだように見えた。
真っすぐに人の目を見て話すだけじゃなく、彼は思ったことを良くも悪くもストレートに口に出してしまうようだ。
今度は気恥ずかしさから、私は彼から目を逸らしてしまった。
『questions that cannot be answered』




