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オルクス  作者: 和達譲
Side:ZERO
214/326

Episode31-7:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想



「あ、……こんにちは」


「……こんにちは」



後日。ヴィクトールとの初対面から一週間後の昼下がり。

今月二度目となる定期検診のため、私は再びゴーシャーク研究所へと赴いた。


いつものように電車でキングスコートまで移動し、パテルタワーに向かう。

すると、タワーで私の到着を待っていたのは、エメリーではなくヴィクトールだった。


そうか。この間の検診の時に、今後は彼が私の面倒を見てくれることに決まったんだった。

相変わらず鉄のような顔をしているヴィクトールを見て、私はたった今まで失念していたことを思い出した。



しかし、前回会った時とは格好が異なっている。

前回はキリッとしたビジネススーツに身を包んでいたが、今は白シャツに黒のスラックス、その上から真新しい白衣を羽織っている。


他の職員達と同じ格好をしているということは、彼もチームの一人として正式に加入した、ということなのだろう。

もっとも、記念すべき初仕事が私のお守りだなんて、本人はモチベーションが上がらないところだろうが。



「驚きました?」


「え……?」


「前まではロカンクールさんが出迎えてくれていたのに、今日待っていたのは自分で、がっかりしたんじゃないですか?」



ロビーの中央で堂々と立っていたヴィクトールに、私が駆け寄って挨拶すると、ヴィクトールは淡々とした口調でそう言った。


ただでさえ私は人見知りな子供で、馴染みのない人を前にすると緊張してしまうのに。

ヴィクトールのこの冷たい雰囲気に触れると、緊張に益々拍車が掛かって思わず声が震えてしまいそうになる。



だが、なにを考えているのか、ヴィクトールは出迎えた相手が自分で、私ががっかりしたのではないかと聞いてきた。

思ってもみなかった突然の問いに、私は少し怯んでしまった。


質問の真意はよくわからなかったが、もしかすると、今のは彼なりに気を遣って話題を振ってくれたということなんだろうか。

仕事に個人的な感情は一切交えないタイプかと思いきや、私の反応を気にかけてくれるなんて意外だ。



「いえ、あの…。そういえばそうだったなって、思っただけで、がっかりはしてないです。

本当に、嫌とかじゃなくて、あの…。

私は、全然。大丈夫です」



じっと私の顔を見下ろすヴィクトール。

前回にも思ったことだが、彼は向かい合った相手の顔を凝視する癖があるようだ。


私は彼に誤解をされないよう、慎重に言葉を選びながら答えた。

ただ、こうも真っすぐに見詰められることには慣れていないので、上手く思っていることが伝えられない。


私はヴィクトールに対して悪い感情を持っていないし、エメリーと彼が役目を交代したことについても、特に不満には感じていないんだけど。

ヴィクトールの方はあまり私のことが好きじゃないみたいだから、どう取り繕っても悪い意味に解釈されそうで不安だ。



「そうですか。なら、結構です。では……」



私の回答をどう受け取ったのか、全く表情を変えないヴィクトール。

すると、戸惑っている私に、怖ず怖ずと大きな右手が差し出された。


一体なんのつもりかと、私が首を傾げて見上げると、ヴィクトールの方も困ったように眉を寄せた。



「手を…。手を、握った方がいいかと思いまして」


「え…。そ、そうなんですか?」


「……以前読んだ本に、不安を感じている子供には、手を握ってやるのがいいと…書いてあったので。

……違うんですか?」



あまり態度には出ていないが、ヴィクトールが本当に困っている様子が空気でわかる。


以前読んだ本を参考にした、と。

見るからに不慣れな言動から察するに、今の言葉も恐らく事実だろう。


不安を感じている私のため、ナイーブになっている子供に対して適した行動を取った。

そうするのが正しいのだと、彼の読んだ本に書いてあったから。



私は、この時のヴィクトールの姿を見て、彼がどういった性分の人間であるのか漠然と理解した。

彼の人格や思想まではまだわからない。ただ、この人は悪意を持って私に接してはいないのだと。


能面のように頑なな表情も、淡泊で素っ気なく感じる振る舞いも。

意図して冷淡を気取っているわけではなく、ただ、わからないだけなんだ。

愛想を良くするとか、相手の気に入るように世辞を言うだとか、そういう渡世的なやり方が、この人はよくわかっていないだけなんだ。


他者とのコミュニケーションが不得手であるだけで、最初から拒否しているわけではない。

その証拠に、今私に対して歩み寄ろうとしてくれている。

少しでも私のためになることをしようと、努力してくれている。


それがわかっただけでも、私の中のヴィクトールの印象が、良い意味でがらりと変わった。



「えっと…。よくわからないです、けど。

あなたがいいと言うなら、私も、それがいいと思います」



差し出された右手に自分の左手を合わせると、一瞬ヴィクトールの指先が強張った。

恐る恐る私が握り締めると、ヴィクトールも不慣れな手つきで握り返してくれて、私の小さい掌がヴィクトールの大きな掌にすっぽり納められる。


改めて彼の顔を見上げると、顔付きは特に変わっていないものの、先程より微かに険がとれた気がした。

ヴィクトール自身に変化があったというよりは、ヴィクトールを見る私の目が変わったからだろう。


前回までお世話をしてくれたエメリーですら、こんな風に私に触れてきたことはなかったから、この展開はかなり意外だし、驚きだけれど。

不思議なほど、嫌だとか、怖いという気持ちは湧かなかった。

拙くとも、触れてくれる指の感触が、体温が、心地好くて嬉しい。


この調子で、少しずつ仲良くなっていけたら。

いつかは彼とも、ヨダカさんやヘイズ先生のようなお友達の関係になれたら。

それはすごく、楽しいことだと思う。






――――――――


ヴィクトールに手を引かれ、ゴーシャーク研究所に到着した後は、今は使用されていない会議室でしばらく待機することになった。


なんでも、フェリックス先生の表のお仕事が長引いているらしい。

先生がそちらを片付けて来られるまで、診察の方はもう少し待っていてほしいとのことだった。


職員の男性に事のあらましを説明され、無人の会議室には私とヴィクトールの二人だけが残された。



さて。しばらく待てと言われたはいいが、一体ここでなにをしていればいいものか。


待機を指示されるのは今日が初めてのことではないし、じっと黙っているだけでも私は構わないのだが。

しかし、今回はヴィクトールが一緒だ。

側に人が控えている状態で、ずっと沈黙を保つのは気まずい。



「普段、今日のように待機を命じられた時には、勉強をしたり本を読んだりしているんですよね」


「あ、はい。好きなように使っていいって言われたので…。今までは、そうさせてもらってました」



私が考えあぐねて困っていると、ふとヴィクトールがこちらを向いて尋ねてきた。


確かに彼の言う通り、先生がお見えになっていない時なんかは、よくここで勉強をしたり、読書をさせてもらったりしていた。

それらは全て、待機している間も私が退屈しないようにと、エメリーが計らってくれていたことなのだが。


残念ながら、今はエメリーが用意してくれた本もないし、勉強道具も持って来ていないので、時間を潰せるアイテムはなにもない。

会ってまだ間もないヴィクトールなら隣にいるけれど、彼が私のつまらないお喋りに付き合ってくれるとも思えない。



こんなことなら、毎度必ず暇潰しの道具を持参するべきだった。

エメリーが施してくれることについ甘えてしまって、自分の準備が至らなかったことを今更実感し、心の中で反省する。



「わかりました。じゃあ、ここに座ってください」



すると、私の返事を聞いたヴィクトールが、納得したように私の手を離した。


部屋の中央には会議に使用するための長机が置かれていて、その周辺にはたくさんの椅子が並んでいる。

その内の一つを引いて、ここに座るようにとヴィクトールは促した。


言われた通りに私が着席すると、ヴィクトールはまた歩みを進めて、今度は部屋の隅にある棚の中を探り始めた。

一番上の引き出しからなにかを持ち出し、脇に抱えて、再びこちらへ戻ってくる。


抱えられているのは、大きくて厚みのある本だった。

表紙はヴィクトールの腕に隠れていて見えないが、あのサイズは恐らく図鑑かなにかだと思われる。


ヴィクトールが私の隣の席に座り、私の目の前に持ってきた本を差し出す。

表紙を確認してみると、案の定それは図鑑だった。



「好きなんですよね、鳥」



ヴィクトールがわざわざ持ってきてくれたのは、世界の鳥類を紹介する動物図鑑だった。

最近購入されたものなのか、図鑑の表面には指紋一つ付いていない。



「……す、すき、です。鳥。

でも、どうしてそんなことを知ってるんですか…?」



ヴィクトールの言動はたまに突拍子がないが、それ以上に、彼が私の好きなものを把握していたことが驚きだった。


鳥も勿論そうだが、私は動物が全般的に好きだ。

犬も、猫も、兎も。あまり見る機会はないが、肉食獣やお魚の類も好きだ。昆虫も面白くて可愛い生き物だと思っている。


ただ、その中でも私は、鳥が一番好きだった。

鳥が一番の理由としては、個人的にちょっと寂しいエピソードがあって、半分が消去法でもある。



私が尋ねると、ヴィクトールは当たり前のように答えた。



「貴女のお世話役を引き継ぐに当たって、ロカンクールさんから色々と仕込まれたんです。

まずは貴女の趣味嗜好を理解することから始めろと」


「そうだったんですか…」


「中でも、ご自宅の付近でよく見かけるミーフという鳥が一番のお気に入りだとかなんとか。

貴女が鳥を好きな理由って、他の動物とは上手く接することができないから、でしたよね?」



迷いのない瞳で私を見るヴィクトール。

その物言いは悪く言うと明け透けだけれど、彼は悪気があってストレートな表現をしているわけじゃないので、不快だとは思わない。

たまに直球すぎて呆気に取られることはあるが。



ちなみに、今ヴィクトールが確認してきたことも全て事実だ。

私が鳥を一番に好きな理由は、他の動物とはどうしても仲良くなれないという要因が、前提にあるからだった。


どういうわけか、私は生まれつき生き物に警戒されてしまう体質のようなのだ。

私の方は仲良くしたいと思っているのに、動物の方は私からのアプローチを絶対に受け入れてくれない。


噛み付かれたり爪で引っ掻かれたりなど、直接攻撃をされることはないにせよ、少し近付くだけで異様に吠えられてしまうことが、これまでに多々あった。

中には、威嚇する戦意すら失った様子で、じりじりと後ずさって私を怖がる子もいた。



先生にも、両親にも、そして私自身にも。この現象の謎を解き明かすことは誰にもできなかった。

色々と工夫をして、私なりに改善しようと努力もしたのだが、やはり結果は変えられなかった。


こんなに穏やかで、人懐っこい生き物にすら私という人間は嫌われてしまうのかと。

いつだって一方通行の好意に、昔はよく落ち込んだものだった。



そんなある日。

私を拒絶しないでくれる生き物が、少なからず付近にも存在するということに私はようやく気が付いた。


魚や昆虫、広く定義して植物など。

大多数の哺乳動物と違って、これらの生き物とは比較的まともに触れ合うことができた。


無論種族的な個体差や性格の違いはあるものの、犬や猫のように激しい威嚇反応を向けられることはない。

近寄っても露骨に逃げられないし、機嫌の良い時には触らせてくれることもある。



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