Episode31-6:キオラ・シャムシュロヴァ・グレーヴィッチの幻想
厳重な入口を抜け、いよいよ目的のゴーシャーク研究所に足を踏み入れると、視界に映る景色も一気に変わった。
漆黒のパテルタワーとは対照的に内部は白一色な空間が続いていて、果てがないほど広い。
隣接するマグパイ研究所の面積も含めると、ゴルフ場が二面、いや三面は優に収まる広さだ。
これは、島を有人島に開拓する際、着手した当初から既存していた名残りだという。
フィグリムニクスという国家が正式に可決されるまで、この島は誰のものでもないただの無人島だった。
しかし、領有権そのものが存在しないのなら、既成事実を作って強引にでも自分のものにしてやろうと、勝手を振る舞う個人や国家が後を絶たなかった。
誰に許可を得るまでもなく、勝手に森を切り開いたり、道路を整備したり。
あげくの果てには、ここは自分のテリトリーなのだと主張するために、無断で地上に家を建てようとした猛者も現れたという。
そんな無法地帯の中、某国が軍用基地として利用するべく密かに地下を掘り進めた末に築き上げられたのが、この地下空間だった。
後にフィグリムニクスが国家として認められ、残念ながら某国の努力は無駄に終わったのだが、地下に作られた巨大な空間だけは以降も人知れず残っていた。
その地下空間を転用し、新しく建造されたのがこのゴーシャーク研究所。
こつこつと地面を掘り進めただろう某国にとっては単に骨折り損な話だが、おかげでこちらは研究所を建てる期間を大幅に短縮することができたのだそうだ。
このエピソードはあまり公にはされていないのだが、私はフェリックス先生から直接教わったので結構前から知っている。
「総帥が管制室にてお待ちですので、もう少し歩きますよ」
「はい」
エメリーが一度こちらを振り返って告げる。
どうやら先生は今研究所の機能を管理する管制室にいるらしい。
そこからまた少し歩き、私は前を行くエメリーに付いていって、先生の待つ管制室へと向かった。
歩みを進めながらも、視界に映る景色はひたすらに白一色だ。
あまり長くここに滞在すると、時間の感覚が狂って空腹や疲労感までもを忘れてしまう時がある。
先の見えない長い廊下と、数え切れないほどの部屋の扉、行き交う白衣の男女達。
最近はこの光景にもやっと慣れてきたが、通い初めて間もない頃は目に見えて分かるエリート集団の本拠にとても戸惑ったのを覚えている。
エメリーと共に到着した管制室の扉を潜ると、中には既にあの人の姿があった。
「総帥。お連れ致しました」
広々とした室内は楕円形の間取りとなっており、ゆるやかな曲線を描いた壁には横長のデスクが据え付けられている。
デスクに向かう30人の職員達はそれぞれパソコンで作業を行い、部屋の奥には100面近くのモニターが映し出されている。
これは、研究所の至る場所に仕掛けられた監視カメラ映像。
先程エメリーと私が入口を抜けた際にも、ここで様子をチェックされていたというわけだ。
モニターに映る監視カメラ映像を何気なく見物していた人物にエメリーが後ろから声をかけると、その人はゆっくり振り返ってこちらを見た。
「ああ、来たね。待っていたよ、キオラ」
穏やかな笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきたのは、中年ほどの背の高い男性。
彼こそが、私の担当医であり恩人でもある人物。フェリックス・キングスコート先生だ。
今時珍しいほどの鮮明な赤髪に、獲物を狙う鷹のような煌めく金色の瞳。
格好は他の職員達と変わらない白衣姿だが、胸には紫地に金の装飾が施されたバッジを付けていて、他よりも位が高いことは一目瞭然。
エメリーの胸にも同様のデザインが施されたバッジが付いているが、エメリーのものは青、先生のものは紫で、装飾も先生の方が少し豪華な感じがする。
先生はこの研究所で最も偉い総指揮官という役職に就いているそうなので、多分紫のバッジを付けているのは先生だけなのだろう。
エメリーが畏まって総帥と呼んでいるように、ここでは先生が絶対的な存在であることは間違いない。
もう御年70歳になられるというのに、その美貌と風格は全く衰えることがなく、たまにこの人だけ違う時空に生きているんじゃないかと思う時がある。
この歳でこれだけの色気と美しさを保っているのだから、若かりし頃はきっと容姿だけでも群がってくる女性がいたことだろう。
天は二物を与えずというが、先生の場合手に入らないものなんてこの世に存在しない気がする。
「こんにちは、フェリックス先生。今日もよろしくお願いします」
「ああ、よろしく。今朝の気分はどうだ?」
「元気です。母さんがフレンチトーストを焼いてくれたので、血糖値も上がっているはずです」
「そうか。それは良かったな」
私が頭を下げて挨拶すると、先生はまるで我が子にするように優しく私の頭を撫でてくれた。
隣ではエメリーが微笑みながら控えていて、傍からは親戚同士のようなやり取りに見えるかもしれない。
しかし、和やかな雰囲気の私達と違って、作業中の職員達は一切無駄口を開かない。
皆黙々とデスクに向かっていて、こちらの様子に気を取られることもない。
さすが、教育が徹底されている。
先生がお見えになっている時でも、業務は滞りなく進めるのが規則のようだ。
管制室の職員さん達とは一度も口を利いたことがないので、これも見慣れた光景なんだけれど。
ただ、一人だけ。
一人だけデスクに向かわず、ぼんやりとモニターの映像を眺めている見覚えのない人物がいた。
あれは一体誰なのだろうか。
あの人だけ白衣を着ていないし、業務中のようにも見えない。
となると、少なくとも管制室に勤務する職員ではない。
先程までは先生の隣で一緒にモニターを見ていた。ずっと同じ位置に、棒のように立っている。
なにをするでもなく、ただ暇そうにモニターを眺め、私とエメリーが部屋に入ってきてからも全くこちらに関心を向けない。
職員でも研究員でもないなら、ひょっとして先生のプライベートなお知り合いなんだろうか。
「では、準備も整っていることだし、早速検査の方にと言いたいところなんだが……。
前もって告知していたように、今日はお前に紹介したい男がいてな。先に彼に挨拶をさせてやってくれ。
───ヴィクトール!」
先生が首だけで振り返って名前を呼ぶと、モニターの前で棒立ちしていた青年がおもむろにこちらへ近付いてきた。
思った通り、先生が紹介したいと言っていた人物は彼のことだったようだ。
ヴィクトールと呼ばれた青年は静かに先生の隣に並ぶと、じっと私の顔を見下ろした。
「ヴィクトール、彼女がキオラだ。話していた通りの子だろう。
お前も、彼女に自己紹介をしなさい」
「ヴィクトール・ライシガーといいます。ドイツの生まれです。
新しくフェリックス先生の下で務めさせてもらうことになりました。普通の、人間だと思います。
……よろしく」
先生に促され、仕方なさそうに自己紹介をした彼の名は、フルネームをヴィクトール・ライシガーというらしい。
出身はドイツで、近頃先生の下で働き始めたばかりの新人なんだそうだ。
ブラックのツーピーススーツに、くすんだシルバーの短髪、濃いオレンジ色の瞳。
長い手足に端正な顔立ちで、一見するとファッションモデルのように華やかな容姿をしている。
しかし、その整った顔には全く表情がない。
動くのは喋った時の口元と、瞬きをする時の切れ長な目だけ。
40センチ近く身長差があるせいで、私は彼の顔を見上げるだけでも精一杯だが、彼の方は私を物のように見詰めている。
元々感情を表に出さない人なのか、それとも私の印象が悪いから愛想も悪いのか。
理由はまだわからないが、正直ヴィクトールに対しての第一印象は、取っ付きにくそうな怖い人、だった。
「ヴィクトールには今後、お前の世話役を頼もうと思っている。
一人くらい、専門のボディーガードなりを付けようと思っていたところだからな」
「え……。じゃあ、エメリーは────」
「なに、案ずるな。役目を交代させるというだけで、エメリーをお払い箱にするわけではない。
彼には引き続き己の職務を全うしてもらうが、お前の面倒を見る仕事はヴィクトールに引き継いでもらうことにしたのだ。
単純に、それだけの話だ」
先生の突拍子のない話に、私は一瞬呆けてしまった。
なんでも、この新人のヴィクトールという青年に、今後私のお世話役を任せることになったというのだ。
これまで、特にそういった役割が確立していたわけではないが、その立場に当て嵌まる人物がいるとすれば、エメリーだった。
いつも私を先生の元まで案内してくれて、時に話し相手になってくれたり、勉強を見てくれたこともあって。
正式に世話役という肩書きを負っていたからではないが、彼はよく私の手助けをしてくれたし、私自身お世話になっているという実感があった。
無論、彼の本来の職務は別にあるが、研究所内で最も長く共に過ごしたのは間違いなくエメリーだ。
それを、何故今になって改める必要が、変える必要があるのか。
せっかくエメリーとの距離も縮まってきたと思ったのに。
ましてや、あまり乗り気でなさそうな、新人の青年に丸投げするなんて。
これは私にとってもあまり喜ばしい事態ではないし、ヴィクトールだって初めて与えられた仕事が小娘のお守りだなんて不服だろう。
「まあ、そういうわけだ。若人同士、気楽にやるといい。
この決定に対して、なにか反対の意見はあるか?二人とも」
有無を言わせない口調で、先生が纏めに入る。
きっと、こちらが異議を申し立てれば、先生は私のために出来るだけ譲歩してくださると思う。
だが、施しを受ける身分の私が、施す側の決定事項に文句をつけられるはずもなかった。
「ない、です」
「自分も、ありません」
「そうか。そう言ってくれると思った。
では今後とも、よろしく頼むよキオラ。そしてヴィクトール」
「……はい」
私とヴィクトールが順番に承諾すると、先生は当然のように目を細めて、ヴィクトールの肩を軽く叩いた。
最後の駄目押しの問いには、私とヴィクトールの覇気のないイエスが重なった。
「えっと…。色々と、ご迷惑をかけると思いますが……。できるだけ、あなたの手間にならないように、します。
ふつつか者ですけれど、今日から、よろしくお願いします」
決まってしまったものはもう仕方がない。
文句を言ったところで何も好転しないのだから、素早く気持ちを切り替えて、望まぬ変化も前向きに受け入れていかなくては。
私は、今後ヴィクトールとも上手くやっていけるようにとの願いを込めて、彼に握手を求めた。
するとヴィクトールは心底意外そうな、驚いた顔をして、私の差し出した右手を凝視した。
こちらとしては、よろしくという好意を示すつもりでやったことなのだが、もしかして彼の気に障っただろうか。
ヴィクトールの微妙な反応を見て私が首を傾げると、先生が一つ目配せをしてヴィクトールの背中を拳で小突いた。
「こちらこそ」
たどたどしい口調に、怖ず怖ずと差し出された右手。
先生に促されて仕方なく応じてくれたヴィクトールの手を、私は両手でぎゅっと握った。
先程、先生が若人同士と言っていたし、年頃の近い人と知り合える機会は私にとっては滅多にないことだ。
だから、せっかくなら私は彼と仲良くしたいと思う。
ヴィクトールの方は、私なんて全く眼中にないかもしれないけれど。
握り締めたヴィクトールの手は最初は固く強張っていたけれど、私の両手が包むと、最後にはそっと握り返してくれた。




